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2/6※シリアスです

既成観念があれば(それを盾にして)他人を嗤ってもよいと・・・結局感情(振り出し)に戻るあたり、自分の都合のいいようにもっていきたいだけですよね(と言いたい)。「”ただ(=無料)”のストレス発散方法」と呼んでみる。
なんでも無料は精神衛生上よろしくなさそうですが。
吐き捨て御免のつもりがこれが便利すぎてついつい頼って(癖)しまう、自分を省みる機会がない、自分をみないでいつまでも他人を消費していていいのか。などと思っています。
外殻(一種の権威)で覆って、中身が脆弱になっていないかどうか。むしろ、外殻こそが自分であると偽っていないか。
「当たり前のこともできないあいつが異常」と、では当たり前とはそんなに当人を守ってくれる強固なセーフティーネット(期待ともいう)なのか。
煮え切らない感情を他人に向ける時は、なおさら諸刃の刃、分かり切った仲ではない限り、常識は一端捨てたほうが楽なのかもしれません。非常識でも狂っていたとしても存在しているのは自然現象だと思うので。
物理的に害をなさない限りはふれない、あるいは刺激したものが爆弾だったら洒落にならないこともあるだろうと。
・・・まこういう話はくどすぎるほどしてるなと自分でも思う。内心自分でも呆れている。
そういった”例外”に備える、というのなら、そもそも、自分の本心に気づいて自分を救わなければ始まらない、他者には、たとえ他者から奪ったとしてもできないことで、それこそ先手なのかもしれない。
これが自信をもつ、ということにもつながるのだろうと。
多数こそが正義と勘違いすると、力技で押せるとなったとき、楽なほう(ただ(無料))に乗りやすい?
確かに考えなくていいのは楽なので、思考停止して守りたい世界を守って、血祭りさえ祭りになる。”想像できないこと”に関しては残酷になりやすい。これは多数でも少数でもありうる。これが「成功体験」として刷り込まれてしまうとたぶん悲劇。そういう差別意識が出来上がると自然ではない状態というか、劣等感とか執着、優越、驕りなどを発生させるもとが出てくるので、それが束縛となる。あるいは羊の皮を被った狼になる。
俺の私の精神を傷つけるお前は悪い(だから何をやってもいい、多数派側だから)という風になる。
多数尊重は数が無言の圧力になりやすい分、行き過ぎた同調圧力は個人を抑制し、当たり前(平均と同じくらい流動的、個人の性に依るので、そもそも)によって逆説的にも均一な人間性が求められ、その反動によって外部から支配が来る。喰う者は喰われる。
”時代の風潮に合わせないお前は馬鹿だ”と。”柔軟性”がないと。その”波(多数)”に乗ればうまく生きられるのに、それに乗らないなんて甘えている、臆病だと。
人相なんてド素人だが、大抵そういうときの人の顔は生気がない。どちらかといえば恍惚としている。酔っていると解釈する。酔わなきゃやってられない。確かに一人では生きられないのは自明。ただ同じ流れを強制することは、ある意味養殖場に自分を放り込むのに似ている。
可能性は多分にある。
そこで当たり前を固定化しようとするなら結果、流動性を失い、多数(均一)は見えても個人を見失うようになる。
作者はそういう意味で保守的かもしれない。


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