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音楽と、無限の創造力~ピティナ特級を追って見えてきたこと

ピティナ特級の公式レポーターに挑戦したきっかけは「音楽を学んでいる身として、音楽を自分の言葉で伝えてみたい」という、ただそれだけの気持ちからでした。
時には感じたままに、時にはこっそり知識を仕込んだり。
二次予選からファイナルまでを聴いて言葉にしていく中で、音楽は創造性に満ち溢れていると強く感じるようになりました。
すでに音楽を作ること自体が「創造」であるといえるかもしれません。しかし、それだけではない。演奏することや聴くことも「創造」なのではないか。そのようなことを、最後にみなさんと共有できたらと思います。


ピティナ特級は、ピティナ・ピアノコンペティションの最上位に位置するクラス。コンクールという性質上、出場者側からすると「この曲はこう弾くべき」「この解釈が主流とされている」といったものが存在するのかもしれません。それと同時に、技術が発達した現在では、スマホ一つあれば名演奏をいつ、どこでも聴くことができます。
では、なぜその音楽を今、演奏する必要があるのでしょうか?

そこで、音楽をその瞬間に生身の人間が弾くということに着目してみましょう。その演奏は一回しかできないものであり、まったく同じ演奏をするというのは不自然。挨拶をするときにも、毎日同じように「おはよう」「こんにちは」と言われたら、ちょっとぞっとしますよね。機械みたい(笑) 日によって、気分によって、言い方に何らかの違いがあるはずです。
そして、演奏者によって楽譜から読みとることは異なります。たとえば、同じ「rubato(自由に)」という指示があったときに、どのように弾くか。
セミファイナルの新曲課題の演奏では、曲中にある演奏者が音を選択する部分、一つひとつのフレーズの語り方、前後の曲とのつながりなど、演奏者による解釈は実に多様なものでした。

こうして、演奏という「生もの」が創造されていきます。
そして広い意味で捉えれば、聴き手も、音楽を聴いて創造する立場なのではないでしょうか?

音楽を聴き、何かを感じたりイメージしたりする。それは、創造力を要することです。「このフレーズは水面がキラキラした感じがする」「激しい曲だけど何だか美しい」「この曲を初めて聞いたときは、こんなことがあったなぁ」。何でもよいのですが、音楽を聴いて自分の中からイメージがわいてきますよね。ピティナ特級でも、聴き手が考えさせられる演奏がいくつもあったように感じます。
きっとその音楽から感じ取ったものは、隣で聴いていた人とは違うはずです。レポーター同士で演奏後に話をしても、すでに6者6様の感じ方。音楽には、聴き手が創造する余白が残されています
さらに、今回のピティナ特級では会場に加え、画面越しにも多くの聴衆が集まっていました。聴き手の創造力があってこそ、音楽が成立する。音楽に聴き手がいることが、音楽文化が発展していくにあたっていかに大切か、と改めて思い知らされました。

こうして、音楽には無限の創造力が伴うからこそ、ぐいぐいと引きこまれる。ピティナ特級を一人の聴き手として追ってみて、音楽の源流には創造する過程があると気づきました。
私は普段、音楽史や理論など音楽を学問的に捉えることが多いです。しかしその当時のことを考えてみると、今日とは違う文化・慣習であったとしても、音楽はその時々に創造する過程を経てきたはず。
まだまだ若輩者ではありますが、そのような原点を忘れずに音楽に携わっていきたいです。

最後になりますが、ここまで活動できたのも、このような機会を提供してくださったピティナ様、企画コーディネーターの飯田有抄さん、演奏者の皆様、インタビューに快く回答してくださった森円花先生飯森範親先生、他5人の公式レポーターの仲間、レポートを読んでいただいた方々など、多くの人のおかげだと心から思っております。
レポートを通じて1人にでも新たな視点を提供できていたとしたら、これほど嬉しいことはありません。

ここまでお読みいただき、本当にありがとうございました。これを機に、これからも何か気づきがあったらnoteを開いて、綴ってみます。

一歩踏み出せたことに感謝して。

最後までお読みいただき、ありがとうございました! よかったら「スキ」も押してくださると嬉しいです!