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なぜ差別は繰り返すのか。本当に私たちがとるべきアクションとは?

Black lives matterの運動に対して、All lives matterという言葉で「アジア人だって差別されてきた」「命が大切なのは黒人だけじゃない」という批判が起こりました。この種の批判には、#Me too運動の時の、「男性だって性別で苦しむ人はいる」という主張に似ているものがあります。たしかにそれらは間違っていないけれど、主題を本来のその時のテーマから外してしまうようなこういった主張は、長期的に見てなんの解決にもならないと私は思っています。

たしかにアジア人もすごく差別を受けてきました。コロナの感染拡大でその差別はさらに悪化しました。私も留学中だったので、かなりひどいことを沢山言われました。でも、今黒人の人たちが運動を起こしている時にそういうことを言って主題をそらしてしまうと、本当にこの差別の問題は永遠に解決しないだろうなと感じてしまいます。それは、本題からずれて主張が分散していってしまうからです。

9.11の後のムスリムに対する差別、3.11の後の福島県民への差別、コロナでのアジア人差別と中国人差別。歴史上、日本国内でも世界全体でも、罪のない人への差別は何度も繰り返されてきました。おそらく、ほぼ全ての人が何らかの形で自分の属する何らかのコミュニティによって差別される経験はしてきていると思います。それなのに、それぞれの差別がそれぞれの問題としてしか捉えられず、どこかのコミュニティで運動が起こった時に、それは自分ごとではなく他の誰かのための運動、自分にとっての脅威、または自分には関係のないことと捉えられてしまいます。

「All lives matterなのにBlack lives matterというのはおかしい」という主張をするくらいなら、きっとその時起こっている問題に自分の経験を通して共感し協力する方が、自分にとっても他の人にとっても、ずっと良い社会が将来的に期待できるのではないでしょうか。

どこかのコミュニティの差別解決の運動を、自分もいつか受けた差別を盾に批判するくらいなら、自分もいつか受けた差別を通して心からその人たちに共感し、問題を自分ごととして捉え、協力した方がよっぽど良いと思うのです。たとえそのコミュニティがかつて自分を差別したことのあるコミュニティだとしても同じことです。そうすることで、これまで起こってきたそれぞれの差別の問題が、一つの共通の課題として認識され、その解決のために共に立ち上がれる状態が構築されていくのではないかと思います。

All lives matterだからBlack lives matterには協力しないのではなく、All lives matterだからこそ、私たちもBlack lives matterに協力する必要があるのではないでしょうか。

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