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「竜とそばかすの姫」と、人に関心を持つということ(後半)


前回の記事の続きです。

1、娘と2人の時間だったのに娘に無関心だった私


今回の映画は長女(小2)と2人で出かけるという貴重な時間でもありました。(普段は下に年長、3歳がいます。)

帰宅後、私は主人に娘の様子を聞かれて、2人で映画に行け、彼女の顔をゆっくり見れて嬉しかったという感想しか言えなくて。

もちろん、こういったことに正解はないですが、我が家の場合、上の子2人は私からの関心を求めているし、その欠乏感が子供たちの問題の根源にあります。

だからこそ、それがいかんと何度も話し合ってきました。

さらにメタトロンやタイムウェーバーを通して人の心理に携わりたいと思っているからこそ、人に関心を持たなくては成り立たない。


娘が普段は持てない2人だけの時間をどう感じていたのか、そこから何か変化があったり、成長はあったのか、そうゆうことを想像することが相手に関心を持つということ。

でも、私は無関心でした。

というよりも、娘とゆっくり過ごせて嬉しかったって、私目線しかない。

と書きつつ、主人に突っ込まれた時は、嬉しかったんだし、いいじゃん、それで、って思った私がいまして^^;


ここ最近、主人に指摘されることに反抗心を抱いてしまう自分がいます。感情が抑えきれなくなってしまう。

人間の感情というのはどうしてこんなにも盲目的となり破壊力を持つのだろうと、自分自身を通して感じています。


そんな私と同じで、子どもたちも指摘を受けるだけでブー垂れてしまう。肯定されないと納得できない。

長女も基本的には面倒見が良く、日本の学校では(従順なことが好きなため)全く問題がなく、むしろめちゃめちゃ楽しそうな娘ですが、家では弟や妹に対し、時にジャイアンになっています。

これが相手に無関心であり、自分のことしか考えていないということで。

まさに私の状態、そのままなんですよね。


子供の問題は親の問題。

解決したかったら、子供を変えたいと思うならば、私が変わるしかない、という現実に直面し、ずっとそれを発言していましたが、恥ずかしながら私自身がなかなか乗り越えれない状態です。



2、好意的な関心を持って初めて理解できることがある


主人がオリンピックの担当だったも辞退に追い込まれた小山田圭吾さんについてブログを綴っています。


小山田さん関連の3本目のブログがこちら。

「好意的な関心を持って初めて理解できることがある(小山田圭吾さん91年のインタビューより)」


まさに、主人が小山田さんに関心を持ったからこその内容です。

特にこの3本目のブログは多くのYouTubeのリンクが貼ってあり、そこから抱く印象も合わせて読むと、人に関心を持つことから広がる世界を感じると思います。

それを怠り、自分の概念の中で物事を、他人の行為を作り上げてしまうことの危うさ、それは特に感情的になった時に起こり得る。

主人がこういった感覚を当たり前に持つと、自由になれる、とよく言っていて。それが私はいまいちわからなかった。


でも、感情に支配された瞬間に勝手に自分で自分の首をしめて、生き苦しくさせていくんだろうなぁと。それは親のせいでもなく、社会のせいでもなく、パートナーのせいでもなく、自分自身によって。



3、映画と絡めて強引にまとめます


後半は、もはや映画の内容とは関係なくなっていますが。

この映画は本当に素晴らしい作品でしたが、こうした強い刺激じゃなくとも、目の前の人に関心をもち、そこから広がる世界の中に、静かな感動は詰まっていて。

そういったことに気づき、感じて生きていけるようになりたいです。

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