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内澤旬子『カヨと私』試し読みページ公開!

小豆島でヤギと暮らす──
J.R.ヒメネスの『プラテーロとわたし』に憧れ、小豆島でヤギと暮らしはじめた内澤さん。内澤さんの元にやってきたのは真っ白な雌のヤギで、内澤さんはカヨと名付け、ふたりの生活が始まりました。
庭先の雑草を食べてくれればと考えていたものの、カヨは食べる草をえり好み。内澤さんはカヨの様子をじっくり観察し、カヨが欲しているもの、あるいはどういうことが苦手なのか、深くコミニュケーションして参ります。
気づけば「どっちが飼い主?!」と笑われるほど世話をし、ともに時間を過ごしますが、内澤さんは「それでいいの」と。なぜなら「私もヤギになって、一緒に美味しい草を食べて、頭突きしあって、日向ぼっこして暮らしたい」と願っているのでした。
果たして内澤さんとカヨの暮らしは、どうなっていくのでしょうか──。動物文学の傑作が、ここに誕生です!

目次



海辺の家   14
理由   18
カヨのルール   22
海への道   26
椿のフルコース   30
受容   34
カヨが人間? 私がヤギ?   38
我慢   42
頭突き 46
ドライブ   50
困惑  54
発情  58
逡巡  62
食べる是非  66
交配  70
懐妊  74
出産  78
初乳  82
月夜  86
乳飲み仔たち  90
海へ  94
別離  98
搾乳  102
偶然のチーズ  106
タメの友だち  110

II
移転と再会  116
チャメを救えるのか  120
とっても楽しそうじゃないか  124
巨大ヤギ舎  128
再会  132
改名  136
まさおのこと  140
慣れてください!!  144
産屋を建てる  148
家族  152
食べ物に追われる日々  156
〝同一処遇〟問題  160
たまたまのたま  164
それが玉太郎の生きる道  168
より弱い者へ  172
脱走  176
産むこと  180
カヨミルク  184
カヨ帝国  188
嫌な予感  192
別れ  196
去勢の悩み  200
去勢  204
去勢その後  208
奇妙な事件  212
ランクダウン  216
軽トラと魔女  220
ヤギの思春期  224
リーダーはカヨ  228
みんな元気ね?  232

あとがき
カヨと私とプラテーロ  237

海辺の家


 カヨが連れてこられたのは、夏が終わりかけたころ。車のトランク部分に載せた、大型犬のケージの柵の部分から、細くて二つに割れた白い脚先と鼻が見えた。扉を開けるとうつむいたまま、地面に跳びおり、その場の草を大急ぎで食べはじめた。まるでその場にだれもいないかのように。草だけしか目に入らないかのように。耳は私を向いてピンと立ち上がっていたけれど。
 ケージにいれられ、車に揺られ続けて、おなかがすいているのかな。知らない場所に一人で連れてこられて、とても緊張していたのだと、今ならわかる。けれども当時はまだカヨの振舞いの意味がよくわからず、私を見ようともしないカヨは、ただ草を食べるヤギでしかなかった。
 カヨ。おまえは今日からカヨというんだよ。よろしくね。そうやって家の周りの草を食べて頂戴ね。カヨは返事どころか目も合わせようともせずに、草をつまむ。頭を撫でてやろうとすると、ふいっと避ける。
 ヤギは犬や猫と違って、人に甘えたりしない、淡々とした生き物なのかもしれない。
 今の私にはそのほうがいい。そもそも愛玩のために動物を迎えるならば、犬や猫にする。ヤギを飼おうとしたのは、家の周りの雑草を食べてもらうためなのだから。自分に言い聞かせ、カヨを草地に繋ぎ、家に入った。
 カヨの全身は真っ白。体中探しても褐色の毛は一本も生えていない。つんと澄まして首を立て左右の前脚を一本線上に揃えて歩く姿は優雅で、ランウェイを歩くファッションモデルのよう。青い草叢に繋ぐと目立ちすぎて、私が家に入ったらだれかに攫われてしまうのではと、心配で動けなくなる。
 長いまつ毛も白い。数年前に飼っていた豚の夢も、白まつ毛の持ち主だった。夢の瞳は薄い水色だったけれど、カヨは僅かに緑がかった黄色。白ワインになる葡萄の房の色。陽光に反応し、白いまつ毛から透けて輝く黄水晶。
 身体の中で薄い茶色をしているのは、角と蹄。そして目の周りや口と鼻の周り、耳の中は、ベビーピンク。
 ヤギがこんなに優美な形をした生き物だなんて、思ったこともなかった。むしろ不細工でユーモラスな生き物だと思っていたのに。飼っていた三頭の豚も、とてもユーモラスな外見で、けれども愛らしくて、綺麗なパーツもたくさん発見した。ところがどうだろう。カヨは、どこから見てもだれが見ても、美しいのだった。ずうっと眺めていたい。草を食べる姿も、歩く姿も。美しい動物は、ヒトの心を蕩かす。
「綺麗なヤギね」「かわいらしいのう」通りがかりの人に言われるたびに、自分が正気であることを知り、ほっと胸を撫でおろす。
 一度でいいから海が見える場所に住んでみたかった。簡単ではなかったような気もするけれど、思ったよりもあっさりと叶ってしまった。気が付いたら他に優先するべきなにかを持ち合わせていなかったから。喜ばしいことなのか考えていても仕方がない。生きている不自由さを嘆いてばかりいる自分に嫌気がさして、自分を動けなくしている物や縁から離れてみたら、いささか自由になりすぎたようにも思える。
 海は育った家から近かったけれども、電車やバスを乗り継がなければならないくらいの距離はあった。海といえば、階段と坂道をたくさん上ったところから、山と山の間にほんの少し見えるもの。曇っていれば空に溶けてしまうちいさな水たまり。柴犬のオグを散歩させるたびに眺めていた。
 市電に乗って海にでると、犬を連れて散歩する人にたくさん出会った。オグを連れていくには、自家用車に乗せなければならず、両親に頼み込んでほんの数回は叶った。砂を蹴ってオグと走り回ったとき、間違いなく人生で最も輝き満ち足りた瞬間だったと思う。
 けれど、オグが腐敗しかけた鳥か魚の死骸を身体にこすりつけてから、綺麗好きな両親は、オグを車に乗せてはくれなくなったのだった。

理由


 ヤギはヒツジと違って、孤独に耐える動物なのだという。カヨを運んできた人が教えてくれた。けれどもカヨは、うちに来たばかりのころ、ずっと泣いていた。
 はじめのうちは、ただ鳴いているのだと思った。綱がからまって動けないとか、しかるべき緊急の理由があるのかと思って、慌てて外にでてみると、けろりと静かになる。食べる草はふんだんにある。私が家に入るとまたメェェェ、メェェェ、と叫び出す。
 もしかしてカヨは寂しくて泣いているのではないだろうか。ここにくるまでカヨはたくさんの仲間と一緒に放牧されていた。首輪はついていたけれど、繋がれることもなく、独りになることもなかった。それが突然だあれもいないところに連れてこられて、しかも杭に繋がれて、納得できなかったのだろう。怖かったのだろう。
「この子には友だちが必要なんや。ヤギかて人間と同じや」
 坂の下に住むおばあさんは言う。いつも手押し車を押しながら草原に繋がれたカヨを横目に見て上がってゆくおばあさん。隣の集落にある集会場にいくのだった。昔は牛やニワトリだけでなく緬羊を飼って、毛を刈ってセーターを作ったのだそうだ。豚以外はなんでも飼うたなあと山肌を眺める。ここに牛舎が建っとった。それにあそこの葉が赤うなっとる樹のとこまでな、ミカンを植えて。指されたところは、山のつらなりの一部にしか見えない。人が減り、高齢化が進み、果樹園や畑など、手が回らなくなったところから藪となり、樹が生えてゆく。まるで山がすこしずつ膨らんで、里を侵食しているかのようだ。
 以前は集落全体が、島全体が、もっと賑やかだったのだろう。子どもたちもたくさんいたのだろう。ヤギは乳を採るために飼う人が多かったそうだ。ヤギ乳で育ったと言う人も少なくない。家畜として飼われていたはずなのに、「友だち」という言葉が出てくることに、驚いた。そんなにカヨが寂しげに見えたのだろうか。
 家からふらりと歩いて行ける距離に海があることは、私の住んでいた地域では、高級住宅地の証であった。庭付きの一軒家ともなれば、どう頑張っても住むことはできない。働いて収入を得る歳になると、砂浜を駆ける犬たちと飼い主が、さらに眩しく輝いて映った。
 焦がれ続けた海よりも、ずっと美しく青く輝く海を見ながら、ヤギのカヨと歩く。月夜でも、日の出でも、昼のさなかでも、カヨが行きたそうに鳴いたら、私が行きたいと思いたったら、すぐに綱をとって細い坂道を下る。カヨは首を僅かに上下に振りながら、チャッチャッチャッとリズムよく脚を運ぶ。斜め後ろからではまつ毛と、鼻先と僅かな口元しか見えないのだけれど、嬉しそうなのはわかる。人間なら鼻歌交じりというところか。
 だれもいない海岸の両端には、岩がそそり立っていて、干潮のときだけ岩伝いに隣の海岸までいくことができる。カヨは岩の凹凸に脚をかけて駆けあがる。私もよじ登り岩に腰かけて、キラキラと光る海面を眺める。ふと気がつくと、カヨが隣に来て海を見ている。鬚が海からの風にそよいで、気持ちよさそうに目を細める。気持ちいいね、カヨ。寂しくなったらここに来て、一緒に海を見よう。頸を撫でながら話しかけると、触らないでとばかりに首を振り、さらに岩山の上を目指して駆けて行ってしまった。

カヨのルール


 大丈夫だから泣かないで。
 カヨの頭を撫でてやろうと手を出すと、すっと後退する。寂しいけれども人間には撫でられたくないのだろうか。
 馬についての本を読んでいると、初対面の馬には正面から近寄ってはいけないと書いてある。左右両側面に目がついているので、真正面と真後ろが死角になる。だからよく知らない人間が正面から近づくと、警戒して咬んだりすることもあると。
 なるほど、犬と面と向かい合うと、ちゃんと両目のすべてが見えるけれど、馬もヤギも正面から見ると目尻の際は目玉の球体の陰に隠れてしまう。それだけ目の位置が側面寄りなのだ。ただし視界は犬よりもずっと広い。真正面と真後ろ以外はほとんど見えるのだそうだ。こうして草食動物は、草原のどこからか自分たちを狙う敵がいないか、常に注意を払う。
 しばらくするうちにカヨは、私に向かって歩いてくるとき、正面で止まらずにすこし斜めに曲がり、横腹からお尻にかけて私にぐいぐいとこすりつけてくるようになった。通り過ぎるとくるりと方向転換して、また横腹をこすりつけて通る。何度も何度も八の字を描くようにこすりつけては通り過ぎ、また戻ってきてはこすりつけて行き、戻ってはこすりつけていく。
 私の前では止まってくれないけれど、目的地は、私だよね? とりあえずのご挨拶なのかな。これまで人でも犬でも、顔と顔を近づけるのが親愛の証と思ってきたので、なんとなく物足りない。けれどもヤギにはヤギの、そしてカヨにはカヨなりのルールというものがあるのだろう。
 何か月か経ってようやく、カヨは私が正面から手を出しても嫌がらなくなった。やっと危害を加えたりしない人なのだと認めてくれたらしい。それでも機嫌次第ではふいと避けられるし、角で振り払われてしまう。
 ヤギは草ならなんでも食べてくれるものだと思っていたのだけれど、大きな間違いだった。カヨは草を選り好みする。これまで飼った動物たちはどうだっただろうか。柴犬のオグは……基本的に人間が食べるものはなんでも、それに加えて小鳥だとか蜂やトカゲなんかも捕まえていたっけ。食べ物をあげて拒絶された記憶がない。
 豚たちは飼料中心だったけど、それ以外も食べていた。残飯も、草だってやれば食べていたっけ。三頭のうち伸は一番草をよく食べていて、秀はほとんど食べたがらなかった。三頭ともはじめての食べ物にはものすごく敏感に警戒したけれど、一度味を覚えると食べることが多かった。
 カヨはといえば、草地に繋いでも、好きな草がまるで生えていないとわかると、草を食べようとはせずに、メエエエッと鳴きはじめる。ここは嫌よと。ここにくる前に暮らしていた放牧牧場には、どんな草が生えていたんだろう。沖縄だから、植生が違うのだろうか。
 でもねカヨ、アフガニスタンやイランの荒涼とした岩山に放牧されているヤギたちなんか、ほとんど草がないようなところで、青いものさえあれば齧っているのをテレビで見たよ。おまえ、本当はこの草もその草も、食べられるんじゃあないの?
 カヨはふいとふてくされたように横を向き、メエエエエッと叫ぶ。困ったヤギだ。根負けして山に行き、カヨが大好きなアカメガシワを切ってきてあげると、首を振り振り、むさぼるように食べる。そうだね。ここは小豆島で、アフガニスタンではない。草も木も、たくさんの種類が生えているのだものね。もういいよ、カヨ。わかったから、おまえの好きな草がたくさん生えているところまで、一緒に歩いて行ってみようか。

海への道


 救急車のサイレンが近づいてくる。身体の奥底にしまわれていた不安の種が、ムクムクと膨らみ、肉や皮を食い破ろうと蠢く。音が最大限に大きくなった次の瞬間、風船が萎むように遠のいていく。私の家がある集落を通り越して、奥に行ってしまった。カヨは耳だけを動かしながら、青草をつまんでいる。
 一周するのに車で三十分はかかるだろうか。三都半島は、島の幹線道路からぶら下がるように伸びる。海辺まで山が迫っていくほんの隙間を切り開き、家を建て、周りに段々畑を拓いて、ちいさな集落を作ってきた。
 しばらく経って、再びサイレンが近づいてきて、遠ざかって行った。
「××じゃな」
「だれかのう」
 中途半端に首をかしげる私をちらりと見て、
「ここから奥に入って戻ってくる時間で、だいたいどこの集落に行ったのか、わかるんや」
 サイレンが通り過ぎてから戻ってくるまで、家の中で柱時計の針を眺めていたのだろうか。
「一度倒れて運ばれたら、もう戻ってこれんからな。病院に入れば、もう戻ってこれん」
「次は自分の番かもしれんと思いながら、サイレンを聞くんよ。ほんまにねぇ」
 老婦人たちひとりひとりの顔に、あいまいな微笑みが漂う。寂しさでもなく、恐れでもなく、ちいさく静かな、厳しい覚悟と諦念。人生の終盤になれば私も持つことになるのだろうか。ひっそりとした微笑み。
 すこしずつ、砂が指の隙間からこぼれるように、半島から人が消えていく。ねえカヨ、私たちはいつまでここに住めるのだろう。遠い将来、もし私たちだけになってしまったら、おまえを綱で繋ぐ必要さえなくなってしまうよ。それはやはり寂しいし、心細いね。そんなことにはならないと思うけれど。
 どこに行きたい? 綱を持つと、カヨは喜んで弾むように歩き出すのだけれど、すぐにくるりと向きを変えて戻ろうとする。もう帰るの? カヨ。
 散歩を始めたころ、カヨはすぐに家に帰りたがった。なにを感じるのだろう。特に海の方角へ下ろうとするのは頑として嫌がった。舗装道路を歩いていてもつまらないのではと、脇の藪が茂る山道に入ろうとすると、一メートルも行かずに脚を踏ん張って嫌がる。海に向かうのと同じ。山も海も嫌いなの?
 家から坂をくだり、路地を抜けてほんの三分で綺麗な浜辺に着くのに、その僅かな道のりをカヨが歩いてもいいと思ってくれるのに、一か月はかかったろうか。
 カヨ、海だよ。綱を解いてみると、カヨは入り口でぼんやりと立ち尽くす。ほらおいで、砂を蹴って走り出すと、カヨもつられて走り出した。すとどっ、すとどっ、すとどっ。ああ、ヤギも砂浜を走るときは、楽しそうにするんだなあ。楽しいねぇ、カヨ。カヨは私に追いつくと、そのまましばらく走り続けてから減速する。走っているうちに楽しくて私を追いかけていたことすら忘れてしまったかな。あれ、なんのために走ってたんだっけ、と思って止まるのかな。海は朝日を粉々に波の上に散らして笑う。
 砂浜を百メートルも行かないうちに、どんどん石が増え、ゴツゴツした岩場となる。岩場はそのまま崖となり、ウバメガシが生い茂る山へとつながる。私は波打ち際にぼっこり突き出ている丸い岩によじ登り、腰かけて、海とカヨを交互に眺める。
 カヨは大きな岩の塊に登り、隣の岩に跳び移ったかと思うと、跳びおりた勢いで今度は崖を駆け上る。あきらかにはしゃいでいる。僅かな出っ張りに蹄をかけて岩壁を伝い歩いてみたり。なんてかっこいいんだろう。モロッコの荒野で暮らすヤギみたいだね。こっちにおいでよ、カヨ。
 カヨは私の言うことなど、聞こえません、とばかりに一旦そっぽを向いてから、おもむろに駆け寄り、丸岩に登ってきた。私の首に鼻を寄せ、ふうん。鼻息を浴びせかける。カヨ。来てくれたのねえ、カヨ。嬉しくなって抱き寄せたら、ふるりと頭を振り、私の腕から逃げ、駆け出してゆく。

椿のフルコース


 カヨ、これはどう? じゃあこれは? ほらこっちもあるよ?
 歩きながら、これと思う草に綱で誘導しながら語りかける。カヨは私の問いかけに、ほんの一瞬だけ草に鼻先を寄せて、ふいっと通り過ぎたり、そのままぱくりと食べたり、食べるときだって、一口食べただけで歩き出すときもあれば、立ち止まって食べ続けるときもある。好きのなかでもグレードがあるんだね。
 これは水分が豊富でおいしそうだなあと思う草でも、全く反応しないことも多い。たくさんの草の中から、カヨがおいしいと思う草がひとつでも多く見つからないかと、探しながら歩き新しい草を見つけると、これはどう? と問わずにはいられない。
 犬が匂いを嗅ぐときは、フンフンフンと、鼻を鳴らしていささか騒がしくするものだ。嗅がれているほうは、まさに嗅ぎ回られるという気持ちになる。きっと草も電柱も靴も、みんな犬に嗅がれると、秘密を暴かれるのではと落ち着かない気持ちになるはず。
 でもカヨは違う。ヤギはみんなそうなのだろうか。鼻息はほとんど聞こえない。唇が草に触れるかどうかくらいまで近づくだけ。ごく僅かに放たれた、草の周りに漂う空気をそっと、ほんの僅かだけ吸い込み味わい、食べるかどうかを判断している。とても優雅だ。
 カヨ、こっちはどう? おいしい?
 季節が一巡して、カヨと私は集落内に生えている雑草の全部と顔を合わせることができただろうか。それでもときどき、まだ見たこともない草をみつけると、カヨに近づけてこれはどう? と尋ね続ける。
 海辺の草は、おいしいねえ。どうしてなんだろう。
 なんて言ってみたけれど、実際に食べたことはない。でもカヨが草を咬み千切る音を聞いているだけで、とってもみずみずしくて、肉厚な葉っぱだってわかる。それから緑がすこし濃いよね。海辺の防波堤の内側の、溝の周囲の地面に生えている草たち。畑でもなんでもないんだけど、地味が豊かなんだろうか。うちの近所の草地よりも生き生きと茂ってる。雑草でもやっとこ生えているのと、フサフサしているのと、ある。カヨといるとどんどん草のことがわかるようになるね。
 溝には流れ込んできた土やゴミが溜まっていて、冬になるとその上にハマダイコンが茂る。それがまたものすごく大きく育つ。ここの溝に生えるものは、なんでも大きくなる。葉っぱだけでなくて、根っこだって白くて大きく育つ。だれも食べようともしないけど。
 カヨもハマダイコンの葉っぱは、ほんのすこしつまむ程度。早春の時期に育つ草は希少なんだから、もりもり食べてくれたら楽なのに。その代わりと言っては変だけど、椿の花を食べたがる。溝の終わりに広がる空き地の垣根に駆け寄り、落ちた花から蕾まで、おいしそうにパクつくのだ。
 おまえは人間だから知らないんだろうけど。椿の花はね、蕾と、咲きかけと、花びらすべてが開いたときと、地面に落ちたて、それから花びらの縁が茶色くなって、全部茶色くなって、カリカリに乾くまで、それぞれ全部味が違うのよ。蕾は青くて爽やかな味わいがあるし、花びらが赤い間は、強い蜜の甘みに加えて花粉がまぶされてね、一層上等なお菓子になるの。でも枯れてきたらお終いなんて思うのは間違い。熟成っていうの? 蜜の甘みが変化して滋味深くなるの。カリカリに乾いた花びらを咬んだときのふんわり崩れる感じはね、枯れた草や葉っぱとは全然違う感触なのよ。
 椿の樹の下で一心に花を食べ続けるカヨ。ときどき顔をあげてチラリと私を見ては、また椿をぱくり。
 そうね、カヨ。私だって椿の蜜の甘さくらいは知っているけど、おまえの美食ぶりには敵わない。
 樹から蕾を二つ摘み、枯れ落ちた花を咥え、葉っぱも途中で一齧りして、今度は美しく開いた花びらを口の中で押しつぶすように、目を細めて咬みしめ、反芻する。
 椿のフルコースなのね。私も味わってみたいな、カヨ。

著者略歴

内澤旬子(うちざわ・じゅんこ)
1967年、神奈川県生まれ。文筆家・イラストレーター、精肉業。『身体のいいなり』で第27回講談社エッセイ賞受賞。

カヨ

カヨと私
内澤旬子
■A5判変型上製
■256ページ
■定価2200円(税込)
■二色刷イラスト多数掲載
■ISBN978-4-86011-470-1

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