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山本貴光×吉川浩満『人文的、あまりに人文的』(本の雑誌社)試し読みページ公開!

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人文的、あまりに人文的
古代ローマからマルチバースまでブックガイド20講+α

著者:山本貴光 吉川浩満
■四六判並製 ■304ページ
978-4-86011-451-0
定価2090円(税込)

人(ヒト)の文(アヤ)から考えよう

やわらかな対話が提案するのは考えるたのしさ、意見交換のおもしろさ。しあわせとは? 哲学とは? 人文学とは? 人文的思考がぐんと身近になるブックガイド。
俎上に載せた40冊からあれやこれやと対話がはずむ、〈山本くん〉と〈吉川くん〉の読書会。古代文明からエピクテトス、モンテーニュ、カント、フーコー、千葉雅也、加藤陽子、読書猿、神経科学、多元宇宙論まで、新旧の基本図書を総ざらい。「ゲンロンβ」(ゲンロン)の人気連載を書籍化。
初心者歓迎。人文的読書会へようこそ!

第5回

〔エッセイの精神〕

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『エセー』
(ミシェル・ド・モンテーニュ著、宮下志朗訳、白水社、全七巻、二〇〇五〜二〇一六年)

吉川 今年もいろいろとたいへんなことが起こっているけれど、最大の事件といえばやっぱりあれだよね。

山本 どれだろう……。

吉川 そりゃあもう、宮下志朗訳のモンテーニュ『エセー』完結だよ!

山本 それか!

吉川 この二〇一六年の春に最終巻の第七分冊が刊行されて。一二年かかったということで、まずはおつかれさまでしたと言いたい。ちなみに訳者の宮下さん、その間にラブレーも翻訳しているんだよ。

山本 すごい。ちくま文庫で出た『ガルガンチュアとパンタグリュエル』(二〇〇五〜二〇一二年)が全五巻。ガルガンチュアとパンタグリュエルといえば、かの伝説的人文主義者・渡辺一夫の翻訳がすでにあったわけで、そこにまた見事な新訳を並べてみせた。

吉川 うん。しかも同時にモンテーニュも訳していたというわけだから。モンテーニュとラブレーを合わせると全部で十二冊。

山本 さすがに宮下さんも感慨深かったようで、『エセー』最終巻の訳者あとがきでこの十二年間のことを振り返っていろいろ書いている。

吉川 今風にいえば、ちょっとエモい。興味深かったのが、ラブレーよりもモンテーニュのほうが難しかったとおっしゃっていること。ラブレーについてはもう最終答案にしてもいいかなという気持ちがあるけど、モンテーニュについてはとてもそんなふうには考えられないと。

山本 そうそう。おもしろいね。普通に考えたら、はちゃめちゃな内容で意味不明のラブレー語まで飛び出すラブレーのほうが難しいんじゃないかと思うけど。モンテーニュの文章の微妙な動きをとらえるのは、それとは別種の難しさがあるということなのかもしれない。

吉川 ところで、わたくしの趣味のひとつに、自動車の運転中に特段の目的もなく放送大学のラジオ放送を聴くというものがありまして。

山本 ほう、伺いましょう。

吉川 ある日、めちゃくちゃいい声に乗って、めちゃくちゃおもしろい話が流れてきたんだよ。これはいったい誰なんだと注意深く聴いていたら、この宮下志朗先生の講義だった。

山本 へえ。

吉川 もうね、驚きの美声と名調子。みなさんもぜひ放送大学をお聴きください。

山本 突然の放送大学推し。

吉川 で、この新訳『エセー』なんだけど、底本が「ボルドー本」じゃないんだよね。

山本 ちょっと補足するとモンテーニュという人は、自分の本に山ほど書き込みをしたんだよね。そうした本人の訂正・削除・増補をもとにつくったのがボルドー本と呼ばれていた。二〇世紀のモンテーニュ研究ではこれが決定版とされてきたし、既存の邦訳もほとんどこれを底本にしている。

吉川 そこに一五九五年版という、モンテーニュの死後に出版されたヴァージョンをぶっ込んできた。

山本 事件というわけだね。

吉川 どれを『エセー』の決定版にするかというのは、ほかの古典についてと同様に文献学上の争点がいろいろとあって難しい問題ではある。でも、今回の新訳『エセー』には、少なくとも読者であるわれわれにとっては重大な意義がある。なにより大事なことは、パスカルやラシーヌが読んだ『エセー』も、この一五九五年版だったということ。われわれも彼らと同じ『エセー』が読めるということになる。

山本 うん。後世の目からすると、モンテーニュ研究において決定版とされてきたボルドー本のほうがありがたいように感じがちだし、実際ありがたいものなんだけど、それとは別に、実際に歴史において人びとに影響を与えた版というものもあって、それがこの一五九五年版なんだよね。

吉川 モンテーニュ研究という観点からすれば、厳密・詳細な校訂版がぜひとも必要。でも、歴史的に重要な版を読むことで、ルネサンスから連綿と続く人文主義の流れに自分もダイヴできるんじゃないかという気分を味わえる。アガるよね。

山本 今日はやけに若者言葉を使うね。

吉川 さっき卓球の教え子たちの試合の応援に行ってきたせいかもしれない。適切に使えているかどうかは知らんけど。(註:吉川は都内某中高一貫女子校の卓球部コーチをしている)

山本 さて、『エセー』という作品なんだけどね。

吉川 人間についてあらゆることが書かれています。というか、いまさらわれわれごときがこの人文学史上最大の名著にたいしてなにか言うことがあるかどうかわからないけど。

山本 まあ、まずはタイトルそのものに注目してほしい。「エセー essai」、つまりエッセイ(essay)という言葉は、日本語になってからは原義から遠く離れてしまった言葉だよね。なんというか随想というか、心象風景を書きつけましたというイメージがあるかもしれない。でも、そもそもモンテーニュがエセー(エッセイ)と言うときには、「試みに考えてみる」という営みを指している。「知 science をめぐって、知によってなにを考えうるか」を考えてみましょうという含意がある。一種の「サイエンス・フィクション」と言ってもいいかもしれない。この場合の「サイエンス」も、原義の「知」という意味です。

吉川 ジル・ドゥルーズが『差異と反復』(河出文庫)で言っていたような意味での「サイエンス・フィクション」ね。

山本 学術的な論証や実証はいったん気にしないで遊歩してみる、知のうえで遊んでみるという感じかな。これは時代が変わっても有益なスタイルだよね。そういう発想であり方法なんだということ自体が、われわれにも自由を与えてくれる。

吉川 モンテーニュを初めて知りましたという人も、そういうつもりでこの『エセー』に臨んでもらえたらと思います。

山本 モンテーニュ以降、現代にいたるまでエセー/エッセイという言葉は、哲学や人文学はもちろん、科学においても用いられている。私が好きな本にアンペールの『知の哲学についての試論』(未邦訳)という学術大系を総覧するのがあるけれど、あれもエセー(Essai sur la philosophie des sciences)と題されている。やはり「試しに行う考察」「試論」というのが原義であり魅力なんだよね。

吉川 自動的に「随筆」と翻訳してしまうと、ただ心象風景を綴ったものかと思ってしまう。「窓を開けたらヒグラシの鳴く声が〜」みたいな。

山本 それこそ単にエモいだけの文章だ。エッセイにたいする誤解だね。そういえば昔、養老孟司さんが書き物に「エセー」という言葉を使ったら、編集者から「エッセイの間違いですか」と訂正されてしまったという話がある。

吉川 二重の誤解!

山本 モンテーニュのエッセイの魅力は、いろいろあって一口に言うのは難しい。まずは全七巻の目次を眺めてみればわかるけれど、相互に関連のありそうなものからなさそうなものまで、さまざまな話題が自由に展開されていて、これが楽しい。なんでも放り込めるし、いくらでも続きが書けるというスタイル。二世紀ごろにアテナイオスが書いた『食卓の賢人たち』(※1)なんかも彷彿とさせます。

吉川 哲学者のテオドール・アドルノが「形式としてのエッセー」というエッセイを書いている(『アドルノ 文学ノート 1』みすず書房、二〇〇九年)。エッセイにとっては方法に反するということが方法である、と。

山本 ほんとそれね。

吉川 たとえば「レジュメを切る」ということがほとんど意味をなさない文章だよね。要約できない。というか要約しても意味がない。

山本 いわば思考の足跡を辿るのが楽しみどころだから、そんなことをしたら台無しになっちゃう。要約が役に立たない思考のモードという感じかな。ある前提から出発して、そこからどんな思考の道筋がありうるかということを辿っていくというのは、邦訳が出たドゥルーズの書簡集じゃないけど(『ドゥルーズ 書簡とその他のテクスト』河出書房新社、二〇一六年)、「思考とは怪物である」というかさ、自分が思ってもみなかった場所に連れていかれてしまう可能性に身をゆだねるという、そんな思考のモード。

吉川 たとえば今回出た最終巻でも、「足の悪い人について」という文章が収められているんだけど、これがまたじつに味わい深い。モンテーニュは全部そうなんだけど、読んでいくうちに、いろんな人の文章が出てくる。おもにギリシア・ローマの古典なんだけど、それ自体がおもしろいもんだから、読んでいるほうも思考があらぬ方向に行ってしまう。

山本 まさに散策なんだよね。モンテーニュ自身、頭のなかでかつて読んだものを呼び出しながら散歩をしている。それは脱線ですらない。そもそも本線がないんだから。

吉川 後世にはプルーストのような人も出てくるわけだけど、たとえば前回(第4回)紹介した『神聖喜劇』(大西巨人、光文社)の主人公の東堂二等兵なんかがおっさんになって田舎にひっこんだらこんなの書くのかな、みたいな。

山本 まさにまさに。というか、それこそ大西巨人のエッセイもこういうスタイルだね。

吉川 たしかに。

山本 で、この『エセー』を導いているのが、有名な「クセジュ? Que sais-je?」 ──フランス語で「わたしはなにを知っているのだろうか?」の意──という疑問なんだよね。新訳『エセー』を刊行した白水社の新書シリーズ(もとはフランス大学出版の叢書)の総題にもなっているけれど。

吉川 わかったふりをしない。懐疑してみる。そうしたときになにが見えてくるのか。そういう態度で、これがモンテーニュの駆動力になっている。底流にあるのは懐疑主義。


〔懐疑の効用〕

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『懐疑主義』(松枝啓至著、京都大学学術出版会、二〇一六年)


山本 懐疑主義といえばさ、この夏、松枝啓至さんの『懐疑主義』が出ました。

吉川 これはいい本だね。懐疑主義というのは、モンテーニュにおいてだけでなく、ある意味で哲学の歴史そのものを駆動してきたエンジンだったわけで、こんなふうにコンパクトな解説書が出る意義は大きい。類書がありそうでなかったから。長大な『エセー』とちがって全二四七頁の小さな本です。

山本 さっきエセー/エッセイについて解説したけど、「懐疑主義」についても補助線が必要かもしれない。

吉川 ほう。

山本 専門学校や大学の教室で「懐疑」という言葉を使うとね、こんな質問がくるんだよ。「先生、人を疑っていいんですか」って。

吉川 あはは。

山本 なんだか、疑うことは悪いことだっていうイメージをもっている人が少なくない。まずはその辺から解きほぐしていかないといけないかも。

吉川 なるほど。そっからか。

山本 もちろん懐疑というのはそういう意味ではなくて、「それは本当なのか」とあらためて問うことなんだよね。

吉川 「クセジュ?」(わたしはなにを知っているのだろうか?)と。

山本 そうそう。そういう知にたいする態度を言っているのであって、「あいつはどうも疑わしい」とか「嘘をついているにちがいない」とか、そういうことを指摘するのではない。

吉川 読者のみなさんにも実際に『エセー』を手にとってもらいたいんだけど、賢人が世界についての正解を与えてくれるというような、そういう本ではない。有名な古典ということで、そういう確固たる指針みたいなものを期待する人もいるかもしれないけれど。読んでみると、いつまでもあーだこーだと言っている。同じひとつのことについても、こういう場合にはこうなって、でもああいう場合にはああなって、というように思考が揺れる。

山本 すぐに役立つようなものではないけれど、なにかを考えるときに、視線を固定しないための技法と言ってもいいかもしれない。ああでもあるかもしれないし、こうでもあるかもしれない、そういう可能性を探るというのが懐疑主義のありかただ。

吉川 松枝さんの本は、懐疑主義についての本邦初の包括的な解説書かも。考えてみれば不思議だけれど。

山本 こんな本がほしいと思っていたけどなかったからね。

吉川 もちろんこれまでにも、本家ヘレニズムの懐疑主義についてや、デカルトの方法的懐疑についてや、ヒュームの懐疑論についての本などあったわけだけど。松枝さんも前著はデカルト論だし。包括的な解説というのがありがたい。

山本 ぜひとも読まれるべきだよね。なぜかというと、懐疑がないと、知においても創作においても、新しいものが生まれてこないから。定説をそのまま鵜呑みにするのでは、次なる新しい説や知見も生じない。いまのゲーム業界にもそういう傾向があるけれど、「ゲームってこういうものだろ」と決めつけて自明視しているかぎり、新しいゲームは生まれてこない。たとえば、「あれ、ロールプレイングって本当のところ、なんだったっけ?」という疑問から出発するだけで随分ちがってくるよ。

吉川 「わたしはロールプレイングについてなにを知っているだろうか?」と。

山本 そうやって問いなおしてみれば、角度を変えて物事を見る自由度が得られる。そうすれば、いままで見落としてきたものが見えてきたりする。みなさんも懐疑という方法を意識すると、クリエイティヴになれるかもしれない。

吉川 さらに言うと、懐疑にもさまざまな目的や機能がある。たとえば、ヘレニズム期の懐疑主義哲学者たちがなんのために懐疑をしていたかというと、なによりもアタラクシア(心の平安)のため。時代がくだって近代以降、デカルトを代表とする懐疑論は、確実な知識を得るためのステップボードとして懐疑を用いた。方法的懐疑というやつだね。そして現代に近くなると、懐疑論というのは闘いを挑むべき仮想敵のような役割を果たすようになる。

山本 この本を読めば、そういう事情を一覧できるよね。かたや、懐疑主義にかんしてつきまとってきたネガティヴな側面、つまり結局それは相対主義なんじゃないかという嫌疑についても考えることができる。

吉川 一口に懐疑主義と言っても一枚岩ではない。

山本 そう。この本を読んで「懐疑主義っておもしろいじゃん」って思った人は、本家本元ヘレニズム期の懐疑主義に挑戦してもいいかもしれない。昨年(二〇一五)、アナス&バーンズの名著『古代懐疑主義入門──判断保留の十の方式』が岩波文庫に入ったばかりだし。

吉川 あの本は最高だね。さらに、セクストス『ピュロン主義哲学の概要』(京都大学学術出版会、一九九八年)まで行けば、ほとんどコンプリートかな。ピュロンというのは紀元前四世紀から三世紀に活躍した古代ギリシアの哲学者で、懐疑主義のゴッドファーザーというかラスボスみたいな存在。それを紀元二世紀から三世紀ごろのセクストス・エンペイリコスという医者が解説したのがこの本で、松枝本と同じ京都大学学術出版会から出ています。世紀の偉業・西洋古典叢書の一冊。

山本 エンペイリコスというのは経験主義者という意味だった。ここまでくればマニアの仲間入りだ。

吉川 そういうわけで、秋の夜長はモンテーニュと懐疑主義で決まりだね。

山本 よい旅を。ご機嫌よう。

〈註1『食卓の賢人たち』 二世紀ごろの古代ギリシアの文人、アテナイオスの唯一の著作と言われる。全十五巻。ローマを舞台にソフィスト(賢人、通人)たちが当時の食や日常生活について薀蓄を披露する。失われた千以上の劇からの引用を含む。邦訳は『食卓の賢人たち 1〜5』(京都大学学術出版会 西洋古典叢書、柳沼重剛訳)。五分冊に完訳を収録、人名&出典索引付き。〉


第10回 〔人文書のなかの人文書〕

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『言葉と物──人文科学の考古学』
(ミシェル・フーコー著、渡辺一民、佐々木明訳、新潮社、一九七四年)


吉川 ところでさ、いまさらなんだけど、人文書って、なんなんだろうね。

山本 ほんとにいまさらだ。そういえば、この連載では人文書とは何ぞやという話をしていなかったかも。

吉川 うん。今回は初心にかえって、その辺のところから話してみようか。

山本 まず、「人文」という言葉の来歴を確認しよう。もともと「人文」というのは、ヨーロッパ由来の、英語でいう「ヒューマニティーズ」を表すためにおそらくは明治期につくられた言葉なんだよね。

吉川 ヒューマニティーズ。

山本 そう、語源はラテン語の「フーマーニタース」。ルネサンス期の知識人は、神の研究に代わって人間の研究の重要性を唱えたんだよね。その際にお手本となったのがギリシア・ローマの古典。だからフーマーニタース研究というのは、人間の研究であると同時に文物、特に古典の研究でもあった。

吉川 もとをたどればやっぱり古典ギリシアに行き着くと。

山本 でね、当時の日本の知識人がヒューマニティーズの概念を受け止めようとしたとき、これをうまく表す日本語がなかったものだから、中国の古典に助けを求めた。

吉川 うん。元号と同じだ。

山本 古来より中国では、この世界の森羅万象を「天」と「人」のふたつの要素で考えてきた(場合によっては「天地人」)。天というのは、大きく宇宙・自然一般を指している。で、人というのは文字どおり人間のこと。そして「文」というのは「あや」、つまり有様や形のこと。これを参考にして、ヒューマニティーズを人文と訳して言い表した。

吉川 ふむ。

山本 だから、日本語の「人文」を考える場合、それが古代中国語とヨーロッパ語のハイブリッド語であることを理解するのが大事。

吉川 なるほど。ヨーロッパの概念を中国語で表し、日本語として用いると。近代日本らしいアクロバットだね。それに天/人の対比がキャッチーなところもいい。

山本 天の文が「天文」で、人の文が「人文」。「天文」学はいわゆる自然科学と重なると思うけれど、それが人間の営みであるかぎりにおいては「人文」学の対象でもある。

吉川 そう考えると数学史や科学史も一種の人文学と考えることができる。どんな分野の対象であれ、それを「人の文」の相の下で見れば人文学になる。理系/文系の区分よりも使いでがあるよね。

山本 うん。そういえば先日、『現代思想』の特集「美しいセオリー」のために原稿を書いたんだけどね(※1)。

吉川 おお。私も書いた。なに書いたの?

山本 アインシュタインが友人への手紙に書いた図を紹介したよ。題して「理論の理論」。彼はそこで、観察された経験から公理が発想され、公理から命題が演繹されて、命題が経験と照合されるという自然科学のあり方を説明してるんだけど、それを考察して図にしたりすること自体は人文的な営みだよね。

吉川 たしかに。まさに科学的認識論(エピステモロジー)だ。

山本 うん。吉川くんはなに書いたの?

吉川 えーと、「功利主義」。

山本 ほう。どうしてまた?

吉川 ちょっと思うところがあって、不用意にも……。

山本 読むのを楽しみにしよう(笑)。それはとにかく、この連載で扱う「人文」「人文書」は、以上のように「人文」概念を広くとらえて使っています。他方、歴史的事象としての「フーマーニタース」については、安酸敏眞さんの『人文学概論』(知泉書館、二〇一四年/増補改訂版、二〇一八)を参照してください。

吉川 さて、前置きが長くなっちゃったけど、人文がそういうものだとして、「これぞ人文書!」というものがあるとしたら、なんだろう?

山本 うーん。難しいけど、ミシェル・フーコーの『言葉と物』は外せないかな。

吉川 だよね。人文書のなかの人文書。

山本 ものすごく乱暴にいえば思想史に近い仕事。といっても、ただ昔の思想や作品を並べるというのではない。フーコーは、人びとが世界を見るときに拠って立つ知的な枠組(エピステーメー)を探究しようとしている。膨大な文献を渉猟しつつ中世以降のヨーロッパにおけるエピステーメーの内実と変遷を描いたのがこの本だと、とりあえずはそういえるかな。

吉川 彼は自分のやり方を「知の考古学」と呼んでいる。そして本物の考古学と同じように、知の考古学も時代の断絶を見出すことになる。

山本 フーコーはふたつの断絶を見ていて、ひとつは一六世紀、ルネサンス時代の終わりにあったという。それまでの時代のエピステーメーは「類似」(アナロジー)にもとづいていた。それが一七世紀になって、一切を数学的な原理にもとづいて「分類」したうえで秩序化するエピステーメーが登場した。これが古典主義と呼ばれる時代。

吉川 そして一八世紀末、ふたつめの断絶がくる。フーコーはこれ以降の時代を近代と呼ぶんだけど、そこで初めて「人間」が登場すると。

山本 おもしろいよね。もちろん、それまでにも人類は存在してきた。でも、知の主体であると同時に客体でもあるような人間、これは現在の我々も共有している人間観だろう
けど、そうした「人間」はこのとき初めて誕生したと。彼はこの人間を、カントに依拠しながら「経験的=先験的二重体」と呼んでいるね。

吉川 我々が自分でそうであると思っている人間というのは最近の発明品なわけだ。しかもフーコーは、その終焉もまた近いと予言してこの本を終える。格好いいから引用しようか。

〈人間は、われわれの思考の考古学によってその日付けの新しさが容易に示されるような発明にすぎぬ。そしておそらくその終焉は間近いのだ。
 もしもこうした配置が、あらわれた以上消えつつあるものだとすれば、われわれがせめてその可能性くらいは予感できるにしても、さしあたってなおその形態も約束も認識していない何らかの出来事によって、それが十八世紀の曲り角で古典主義的思考の地盤がそうなったようにくつがえされるとすれば──そのときこそ賭けてもいい、人間は波打ちぎわの砂の表情のように消滅するであろうと。(四〇九頁)〉


山本 原書が刊行された一九六六年、 フランスではたいへんな評判になったらしいね。バゲットのように売れたとか、ビーチで読むのがクールだったとか、いろいろいわれている。

吉川 バゲットってパンでしょ。どんだけ売れたんだ! ところで野暮をいうようだけど、こういう仕事を学問的な妥当性という観点から評価することはできるだろうか。たとえばフーコーによるルネサンス、古典主義、近代のエピステーメー規定の正否を判定できるような尺度ってあるだろうか。

山本 うーん。難しいね。フーコーの仕事は、学問というより批評に近いかもしれない。問いをつくりだしたり、考え方を提示して、読者のものの見方に変化を起こすような。

吉川 野暮ついでにいえば、グーグルNグラムなどのビッグデータを用いて文化事象を分析する『カルチャロミクス──文化をビッグデータで計測する』(エレツ・エイデン、ジャン=バティースト・ミシェル、草思社、二〇一六年)みたいな仕事と比較してもおもしろいかもね。

山本 あるいは、人間が日々生み出す厖大なデータとその統計的分析から意外な人間集団の姿をあぶり出す『ソーシャル物理学──「良いアイデアはいかに広がるか」の新しい科学』(アレックス・ペントランド、草思社、二〇一五年)のような試みとかね。いずれにしても、現在さまざまに行われている人間や文化にかかわる科学や技術を検討してみると、フーコーの偉大さを再発見できるかもしれない。

吉川 数年前に刊行されたフーコーのインタビューは興味深かったね(『わたしは花火師です──フーコーは語る』ちくま学芸文庫、二〇〇八年)。「歴史家ですか?」と聞かれて「否」、「哲学者ですか?」と聞かれても「否」、「では何者ですか?」と聞かれて「私は花火師です」と答えたという。なにをふざけたことを、と怒り出す人もいるだろうけど、たしかにそんな風に答えるしかないかもしれないとも思う。

山本 実際、巨大で美しい思想の花火を打ち上げて、我々に大きな影響を与えたわけだ。

吉川 まったく。これに比肩しうるようなスケールの人文書って、ほかになにがあるだろうか。

山本 うーん。古くはマルクスの『資本論』(国民文庫、岩波文庫、日経BPクラシックスほか)──今年は第一部刊行から一五〇周年──とか、ドゥルーズ=ガタリの『アンチ・オイディプス──資本主義と分裂症』(上下、河出文庫、二〇〇六年)とか?

吉川 おお、そうだね。あとはなんだろう。クロード・レヴィ=ストロース『野生の思考』(みすず書房、一九七六年)とか、アドルノ=ホルクハイマー『啓蒙の弁証法──哲学的断想』(岩波文庫、二〇〇七年)とか?

山本 そう考えるとけっして多くはないよね。

吉川 あと、この本は難解で長大な書物として有名だけど、面白ネタの宝庫でもある。

山本 有名なベラスケスの絵画の分析にはじまり、ボルヘスやサドやルーセルの作品、あとはこの本で初めて目にするような著者たちの忘れられた文物まで、おそるべき博覧強記。パッと開いたところをつまみ食いするような読み方でも十分に楽しめる。あるいは今なら、フーコーが図書館にこもって探し読んだ文献も、ネットの各種アーカイヴ(これもフーコーにとって重要な概念だった)で読めるから、自分の目でフーコーの見立てを検討しやすいかも。

吉川 この本をリソースにすれば、いくらでもブログ記事が書けそうだね(笑)。

〔ポスト・ヒューマニティーズの人文書〕

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『有限性の後で──偶然性の必然性についての試論』
(カンタン・メイヤスー著、千葉雅也、大橋完太郎、星野太訳、人文書院、二〇一六年)


山本 人間の終焉を予言した『言葉と物』だけど、昨年、まさにポスト・ヒューマンというべき哲学書が邦訳刊行されました。次はこれいってみようか。

吉川 カンタン・メイヤスー『有限性の後で』だね。

山本 この本も、『言葉と物』ほどではないにせよ、思想界にセンセーションを巻き起こしました。フランス語の原版は二〇〇六年刊行。メイヤスーは一九六七年生まれの(成功した哲学者としては)若い著者ながら、本書によっていわゆる「ポスト構造主義」以降最大の思想運動ともいえる思弁的実在論(Speculative Realism/SR)のリーダー的存在と目されるようになった。

吉川 フーコーは『言葉と物』で人間の終焉を予言したわけだけど、メイヤスーはもっと積極的に、近代のカント的な人間とは別の仕方で思考しなきゃいけないんだというんだよね。

山本 うん。カントは、我々は実在──カントはそれを「物自体」と呼ぶ──を直接認識することはできないと考えた。我々が認識しているのはあくまでも「現象」であって、それは徹頭徹尾、人間の感官や思考のあり方に依存して現れている。たとえば、目の前に六面体のサイコロがひとつあるとする。私たちはそのサイコロをつねにある角度から、ある光の下で見たり、その表面に触れて感じ取っている。サイコロという実在物をそのまま認識はできなくて、人間なら人間の目や耳や肌を通じて経験するしかない、というわけ。

吉川 どんな存在も人間の感覚や思考とかかわるかぎりにおいて存在すると想定するこの思考法を、メイヤスーは「相関主義」と呼んで批判する。

山本 もし人間が相関の外に出られないとすれば、たとえば人類が誕生する前の数億年前の化石とか宇宙の状態とか、彼はそれを「祖先以前性」と呼ぶんだけど、そういうものについてなにもいえないじゃないか、と。

吉川 うん。でも実際には祖先以前的な事柄についても我々は語りまくっている。つまり知ってか知らずかダブルスタンダードを用いているわけだ。哲学はそんな詐術を捨て、実在に直接アクセスする思考を立ち上げなければならない。そのために召喚されるのが……。

山本 数学! メイヤスーによれば、数学こそ相関主義と無関係に実在にアクセスできる手段ということなんだけど、私はこの点については正直ちょっと留保したい気がする。どう?

吉川 先の『言葉と物』とは別の意味で判断がつかないところがあるよね。実在に直接アクセスするということは、人間の思考とは無関係にアクセスするということだから、ちょっと取り付く島もない感じはする。

山本 その辺については本職の哲学者たちの検討を待つとして、ここではこの本の「人文的、あまりに人文的」な意義について考えてみようか。

吉川 人の文という観点からは、この本のモチーフはよくわかる気がするよね。

山本 うん、ほんとに。相関主義の閉域から出られない息苦しさ、あるいはダブルスタンダードを用いることの自己欺瞞に、我々──我々の範囲をどこまでとれるかはわからないけれど──は飽き飽きしてるんだよね。だからメイヤスーの相関主義批判はスカッと爽快なところがある。

吉川 ディープラーニング以降の人工知能ブームなんかを見てもそれはいえるよね。たとえば、GoogleのAIのアルファ碁が人間にはまったく予想できない手を打ったりするのを見て、我々はときめいちゃうわけだ。『銀河ヒッチハイク・ガイド』(河出文庫、二〇〇五年)のスーパーコンピュータが「究極の答え」として弾き出す「42」(※2)みたいな、人間的相関とは無関係なところからスルーパスがくるのを待望してたりするんだろうね。よしあしは別として。

山本 その意味では、この本が提起した祖先以前性の概念と相関主義批判は、ある意味パンドラの箱を開けたというか、そういうエポックメイキングな意義があると思う。

吉川 うん。それが出てくる前には思いもよらなかったかもしれないけど、出てきたあとで考えてみたら出るべくして出たとしか思えないような、まあ簡単にいえば、「そうそう俺もそう思ってた!」といいたくなるような、そんな作品。

山本 あと、この本を読んだとき、「これは一種のサイエンス・フィクションだ」と思った。といっても絵空事だ、という意味じゃないよ?

吉川 ほう。その心は?

山本 SFといっても人によって定義はさまざまだろうけれど、私の場合、「現実の世界に実際には存在しないもの(科学・技術にかかわる要素)を置いてみたり、差し引いてみたらなにが起きるか」を想像のなかで実験したりシミュレーションしてみるフィクションという具合。たとえば、タイムマシンとか人間の意識をデジタルコピーする技術とか。ただしメイヤスーの本の場合、「学問」という広い意味でのサイエンスが、もし「祖先以前性」という概念を頭に入れて世界を見なおしたら、なにが見えるか、考えられるか、という報告でもあると思うんだよね。まあ、あくまでもものの喩えだけれど。

吉川 人間にはどれだけのことが考えられるかという実験だね。概念をつくって提示することは哲学の大きな仕事でもあり、我々読者からしてみれば読む醍醐味でもある。そういう「人文的、あまりに人文的」な意味でも『有限性の後で』はおもしろい。

山本 メイヤスーの邦訳された単著は今のところ『有限性の後で』かな。(※3)論文は『現代思想』のバックナンバーでいくつか読めます。思弁的実在論については『思弁的転回(The Speculative Turn: Continental Materialism and Realism)』という論集を覗いておくと見取り図を得られると思います。同書はオープンアクセス版がネットでも公開されていましたね。(※4)

吉川 というわけで、今回は人文書ど真ん中の二冊を取り上げてみました。

山本 ご機嫌よう。

〈註1 『現代思想 二〇一七年三月臨時増刊号 総特集*知のトップランナー50人の美しいセオリー』、青土社、二〇一七年。

註2 42 「銀河ヒッチハイク・ガイド」一九七八年にBBCで放映されたダグラス・アダムズ作のラジオドラマ。人気を博し、小説、映画などに展開、世界的に愛されるSFコメディシリーズとなった。物語中、宇宙で二番目に優れたスーパーコンピューターである「ディープ・ソート」が「生命、宇宙、そして万物についての究極の疑問の答え」を750万年かけ計算、「42」という数字を弾き出す。この「42」をめぐって、SFファンを中心に数多の解釈が論じられている。

註3  二〇一八年七月、カンタン・メイヤスー著作の二冊目の邦訳『亡霊のジレンマ―思弁的唯物論の展開』(青土社、岡嶋隆佑・熊谷謙介・黒木萬代・神保夏子訳)が刊行。

註4 The Speculative Turn: Continental Materialism and Realism, edited by Levi Bryant, Nick Srnicek, and Graham Harman, www.re-press.org, 2011. http://www.re-press.org/book-files/OA_Version_Speculative_Turn_9780980668346.pdf 〉

【目次──『人文的、あまりに人文的』】


第1回
クレイジーな時代?
『啓蒙思想2・0──政治・経済・生活を正気に戻すために』(ジョセフ・ヒース)

叛逆かパターナリズムか
『心は遺伝子の論理で決まるのか──二重過程モデルでみるヒトの合理性』(キース・E・スタノヴィッチ)


第2回
「好奇心」の効果
『子どもは40000回質問する──あなたの人生を創る 「好奇心」 の驚くべき力』(イアン・レズリー)

人類学者かつ歴史学者として
『思索への旅──自伝』(ロビン・G・コリングウッド)

第3回
自由意志は存在しない?
『マインド・タイム──脳と意識の時間』(ベンジャミン・リベット)

自由は進化する?
『自由は進化する』(ダニエル・C・デネット)

第4回
歴史を論じる
『それでも、日本人は 「戦争」 を選んだ』(加藤陽子)

記憶を武器に理不尽と闘う
『神聖喜劇』(大西巨人)

第5回
エッセイの精神
『エセー』(ミシェル・ド・モンテーニュ)

懐疑の効用
『懐疑主義』(松枝啓至)

第6回
幾何学の精神と繊細の精神
『パンセ』(パスカル)

社会的現実とともに思考する
『哲学においてマルクス主義者であること』(ルイ・アルチュセール)

第7回
古代ローマ時代の人生相談
『人生談義』(エピクテトス)

世界をどう捉えるか──物体と非物体
『初期ストア哲学における非物体的なものの理論』(エミール・ブレイエ)

第8回
幸福に関する 「なに」 「いかに」 「なぜ」 の問い
『幸福はなぜ哲学の問題になるのか』(青山拓央)

夢破れた国の幸福論
『セカンドハンドの時代──「赤い国」を生きた人びと』(スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ)

第9回
インディーズでサヴァイヴする!
『これからのエリック・ホッファーのために──在野研究者の生と心得』(荒木優太)

どうすれば民主主義の原理が機能する国家の国民になれるのか?
『日本国民であるために──民主主義を考える四つの問い』(互盛央)

第10回
人文書のなかの人文書
『言葉と物──人文科学の考古学』(ミシェル・フーコー)

ポスト・ヒューマニティーズの人文書
『有限性の後で──偶然性の必然性についての試論』(カンタン・メイヤスー)

第11回
今日から使える人文書
『アイデア大全──創造力とブレイクスルーを生み出す42のツール』(読書猿)

立志から始めよう
『知的トレーニングの技術〔完全独習版〕』(花村太郎)

第12回
民主政を問い直す
『社会契約論』(ルソー)

可能性の条件を探る
『純粋理性批判』(カント)

第13回
能動でも受動でもない世界との関わり方
『中動態の世界──意志と責任の考古学』(國分功一郎)

アイロニーとユーモアによる変身のすすめ
『勉強の哲学──来たるべきバカのために』(千葉雅也)

第14回
シンギュラリティ論議は現代の神話?
『そろそろ、人工知能の真実を話そう』(ジャン=ガブリエル・ガナシア)

我々はハイパーヒストリーの時代に突入した?
『第四の革命──情報圏が現実をつくりかえる』(ルチアーノ・フロリディ)

第15回
天文と人文の出会い
『古代文明に刻まれた宇宙──天文考古学への招待』(ジューリオ・マリ)

宇宙はひとつではない
『マルチバース宇宙論入門──私たちはなぜ〈この宇宙〉 にいるのか』(野村泰紀)

第16回
思考はデザインとともにある
『アイデア第三七九号』「ブックデザイナー鈴木一誌の仕事」

デザインからリテラシーへ
『生きるための読み書き──発展途上国のリテラシー問題』(中村雄祐)

第17回
共感を増幅する贈与
『うしろめたさの人類学』(松村圭一郎)

人文学の情動論的転回
『情動の哲学入門──価値・道徳・生きる意味』(信原幸弘)

第18回
AIの危機、人間の危機
『AI vs. 教科書が読めない子どもたち』(新井紀子)

収容所でなにを話す?
『収容所のプルースト』(ジョゼフ・チャプスキ)

第19回
戦争とは、誤訳や食い違いの極端な継続にほかならない
『翻訳地帯──新しい人文学の批評パラダイムにむけて』(エミリー・アプター)

日本文学の輸出、流通、逆輸入
『日本文学の翻訳と流通──近代世界のネットワークへ』(河野至恩、村井則子編)

第20回
サイコロからはじまる知のグランドツアー
『知の果てへの旅』(マーカス・デュ・ソートイ)

知の果てから無知の知へ!
『知ってるつもり──無知の科学』(スティーブン・スローマン、フィリップ・ファーンバック)

【著者略歴】

山本 貴光 やまもと たかみつ
1971年生まれ。文筆家、ゲーム作家。慶應義塾大学環境情報学部卒業。著書に『コンピュータのひみつ』(朝日出版社)『文体の科学』(新潮社)『「百学連環」を読む』(三省堂)『文学問題(F+f)+』(幻戯書房)『マルジナリアでつかまえて』(本の雑誌社)『記憶のデザイン』(筑摩書房)など。

吉川 浩満 よしかわ ひろみつ
1972年生まれ。文筆家、編集者。慶應義塾大学総合政策学部卒業。国書刊行会、ヤフーを経て、現職。著書に『理不尽な進化』(朝日出版社)『人間の解剖はサルの解剖のための鍵である』(河出書房新社)など。

山本と吉川の共著に『その悩み、エピクテトスなら、こう言うね。』『問題がモンダイなのだ』(共に筑摩書房)『脳がわかれば心がわかるか』(太田出版)、共訳に『先史学者プラトン』(朝日出版社)『MiND
心の哲学』(ちくま学芸文庫)。「哲学の劇場」主宰。2020年より動画配信を開始。

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著者:山本貴光 吉川浩満
■四六判並製 ■304ページ
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