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『アニメと戦争』を読んだ。

藤津亮太氏の『アニメと戦争』を読んだ。
前々から気になっていた本だが、取り上げられているであろう戦争アニメを全部見ている自信はなかったので、そのままになっていた。そこに、我が子が図書館で見つけて借りてきた。ハイ、子どもより親が一生懸命読んだね。

この本は、日本のアニメ作品における戦争の描かれ方について、あの戦争の「証言」「記憶」「記録」の時代に分けて、論じられている。
冒頭の『ゲゲゲの鬼太郎』における「妖花」のストーリーの描かれ方の違いによく表れているように、戦争が我が事であった第1シリーズから、時代を経るごとにどんどん遠ざかっていく様が、よくわかる。
そういった描き方の変化は、そのまま制作陣の年齢層(戦争を記憶している世代、団塊の世代、新人類の世代など)を表し、制作陣よりさらに若い観る世代は、その世代の空気感で見ている。そういうようなことを、戦時中のプロパガンダ作品から、『ヤマト』『ガンダム』『マクロス』、冷戦後を描いた『パトレイバー2』、『風立ちぬ』と『この世界の片隅に』までを取り上げ、論じている。
私が観ていないアニメもたくさんあったが、なるほどと納得してしまうし、読んで良かった一冊だった。

そんな、この本の中で、思わず抜き書きメモしてしまった部分がある。
『風立ちぬ』の描き方に対するもやもやを、映画監督・伊丹万作氏の言葉を引用しながら記した部分だ。

映画監督の伊丹万作は「戦争責任者の問題」の中で「だまされたものの罪は、ただ単にだまされたという事実そのものの中にあるのではなく、あんなにも造作なくだまされるほど批判力を失い、思考力を失い、家畜的な盲従に自己の一切をゆだねるようになつてしまつていた国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任などが悪の本体なのである」と記した。これもまた「時代の中で精一杯生きる」ことの一断面である。表層的に「時代の中で精一杯生きる」を肯定してしまうと、この陥穽に足をとられてしまう。これはハンナ・アーレントが『エルサレムのアイヒマン』で指摘した「命令に従っただけ」と非人道的行為を行ってしまう「凡庸な悪」の問題にも通じる。

伊丹万作監督は故・伊丹十三監督の父親で、大江健三郎氏の義父にあたる。
上記で引用した監督の言葉は、1946年の著作から来ている。
75年前の文章。なのに、非常に現代の我々を言い当ててやしないだろうか。
目の前の毎日に一生懸命になる、ただそれだけで、凡庸な悪への道を突き進んでやしないだろうか。

たかがアニメ。されどアニメ。
アニメと現実を紐づけするな、という意見があることも事実だけど、アニメをつくるスタッフも観る我々も、現実の人間であることに変わりはない。だから、100%現実から乖離した作品など、存在しようはずもなく。
アニメに映し出される世界は、我々の深層心理の裏側だから、そこを論じる必要がある。論じた先に、我々の姿の一端がある。

そういうことを考えながら2021年の夏を過ごしていると、サブカルを理論的に読み解いていく研究は、現代日本を振り返り、これからより良い社会をつくっていくためにも、とても重要なことなのではなかろうか。
気づきのための一歩から始めていけばいいんじゃないか、と、この本のAmazon口コミを読みながら思う次第。







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