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ニッポンの馬の話――対馬へ

馬と聞いたら、どんな動物か、すぐに思い浮かぶことでしょう。でも、そのイメージの多くはきっと競走馬のサラブレッド。だったら、ニッポンの馬って……? 乗用に、運搬に、農耕に、軍事に、また神事や競技、それに食用にも。馬はほんの少し前まで、今よりも、もっともっと人に身近で、暮らしや産業を支える存在でした。けれども近代化が進む中で、ニッポンの馬のいくつかは種が絶え、今も危機的状況にあります。天高く「馬」肥ゆる秋、今の私たちがあるのは彼らのおかげと、ニッポンの馬たちに会いに対馬と今治へ行ってきました――。(ひととき2021年9月号特集「ニッポンの馬の話」より一部抜粋してお届けします)

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長崎県対馬市の目保呂〈めぼろ〉ダム馬事公園にて。対州馬保存会の面々。左から吉原知子さん(獣医師)、田中絢子さん、小口幸男〈おぐちゆきお〉さん(調教師)、糸瀬靖希さん、小宮一三〈かずみ〉さん

ニッポンの馬の話 対馬編

現在、日本在来馬*1は、北海道和種馬[わしゅば](道産子)、木曽馬(長野県)、対州馬[たいしゅうば](長崎県)、野間馬[のまうま](愛媛県)、御崎馬[みさきうま](宮崎県)、トカラ馬(鹿児島県)、宮古馬・与那国馬(沖縄県)の8品種が残っているのですが、北海道和種馬以外の7品種は絶滅が心配されています――*2

*1 外来の馬とほぼ交雑することなく残ってきた日本固有の馬であり、現在8種ある馬の品種の総称。単に在来馬などともいう
*2 日本馬事協会の資料によれば2020年度の日本在来馬の頭数は、北海道和種馬1,083頭、木曽馬138頭、野間馬51頭、対州馬39頭、御崎馬111頭、トカラ馬107頭、宮古馬49頭、与那国馬105頭

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青海(おうみ)の里。海と段々畑との取り合わせが気持ちいい

 馬は家族。かつて日本にはそんな時代があった。

 人とともに暮らしたのは、この国に古くからいる在来馬たちだ。体高110〜140センチ前後と小型で性格は温厚。粗食にも耐える。100キロ以上の荷物を運ぶ働き者の馬たちは貴重な労働力として、家々で大切にされてきた。馬はもともと日本にいたわけではなく、5世紀頃、朝鮮半島から人の手で導入された外来の生き物だ。草地の少ない半島と比べ、火山性土壌の草原が多い日本は馬の産地として適していた。馬は全国に広がり、やがて輸出もされる。そして長い年月を経て各地で独自の個性を持つ在来馬として枝分かれしていく。

馬が拓いてきた 日本の古代から近代

 馬は、日本の歴史を大きく変えた。

 蒲池(かまち)明弘さんの著書『「馬」が動かした日本史』によると、巨大な古墳が奈良よりも大阪に多いのは、河内地方が古代馬の産地で、須恵器や鉄器なども生産する、労働力と経済力を持つ豊かな土地柄だったからだという。また、関東は「黒ボク土(くろぼくど)*3」の草原が多く、馬の生産が盛んになった。利根川流域で反乱を起こした平将門、「いけづき」「するすみ」2頭の名馬を愛した源頼朝、「鵯(ひよどり)越え」に挑んだ源義経、最強の騎馬軍団を率いた武田信玄……東日本の武家の強さの秘密は、馬だったのだ。

*3 日本の国土の約3割を占め、主に火山帯に重なっているが火山のない地域にも見える。植物の成長に欠かせないリン酸と強く結合して栄養不足にしてしまうため農地化に苦労した歴史がある。森林も形成されにくく、草原環境が千年単位で続く。日本の馬産地はこの黒ボク土地帯と重なるという

 東北も名馬の産地となった。江戸時代、南部藩(盛岡藩)は現在の青森県東部を中心に多くの牧場を設け、在来馬としては大型の「南部馬」を育てた。近隣の八戸藩と合わせ、一時は南部馬が10万頭も飼育されていた。南部氏は、河内源氏の源頼義の三男・義光を先祖とする甲斐源氏の一族で、馬は河内から甲斐を経由して東北で栄えたとも考えられる。南部の人々が出稼ぎなどで里馬を連れて津軽海峡を渡ったとすれば、北海道の馬たちも、海を越えて渡来した古代馬とつながることになる。

 明治以降、在来馬は軍馬にするため、大型化を目指して外国産の馬との交配による品種改良が進められた。20世紀に入って車社会になると、農耕や運搬などの需要がなくなり、頭数も激減。南部馬や福島の三春駒などは絶滅した。

 時代とともに生きてきた在来馬の「今」を知るため、まずは長崎県の対馬へ――。

かつて対馬では誰もが馬を扱えた

 九州最北端。本土から132キロ、韓国までわずか49.5キロの対馬は、日本で初めて馬が入った地で、ここから全国に広まったとの説がある。739年(天平11年)には、対馬から聖武天皇に馬が献上されたとの記録も残る。街中にはハングルの看板も多い。島の北端には、韓国風に造られた「韓国展望所」があり、天気がよければ釜山の町並みが見える。私が出かけたときは雲が多かったが、それでもぼんやりと異国のシルエットが浮かんで見えた。

 対馬は約9割が山間部という森の島だ。

 地元の人は8の字を細長く描いたように途中でくびれた地形という。空から見ると、リアス式の海岸線まで樹木に覆われ、こんもりと茂った緑の塊が海にぽこぽこと並んでいる。平らな砂浜や岩場は少ない。今は道路も橋もトンネルも整備されているが、それまでは船で移動するか、森の中の小道を行くしかなかった。

 江戸期には対馬藩主・宗義智(そうよしとし)*4によって放牧場が設置され、対州馬は数を増やした。明治から大正時代には飼育頭数は4500頭にのぼった。男たちが漁に出ている間、農家の女性は馬に農産物や飼料、炭などを背負わせて歩いたり、馬に乗ったりして山道を移動する。当時の嫁は馬を扱えて一人前と言われたという。だが、島のどこにでもいた馬たちは、70年代以降急減。約30年前、絶滅を心配した人たちが、途絶えていた「初午祭(はつうままつり)」を復活させて「馬跳ばせ」(馬のレース)などを企画し、保存活動が本格化した。現在は40頭ほどが暮らしている。

*4 [1568~1615]安土桃山時代~江戸時代前期の大名

 最初に訪ねたのは、8の字のてっぺんに近い上対馬町の「東横INN対馬比田勝(ひたかつ)」。2019年(令和元年)に開業したこのホテルの敷地内には、市から預かった対州馬のための厩舎と馬場があり、一般客が馬と触れ合えるのである。

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日本の渚百選の浜辺を福桜と優雅に散歩?

 そっと厩舎をのぞくと、いたいた! 靴底を消毒して中に入る。ちょうど朝の掃除と食事タイムで、3頭が干し草の飼料を食べていた。飼育員の緒方善積さんが、馬たちを順番に外につなぎ、床の汚れたおがくずを掃き出して、新しいものと入れ替える。地元特産の檜や杉のおがくずの香りが爽やかだ。汚れたおがくずも畑の肥料などに活用される。

「福ちゃん、出るぞ~」

 福桜(ふくざくら)が出てきた。22歳のメス。つやつやの栗毛。真っ黒な目でじーっとこっちを見る。体高は160センチの私より小さいが、腹がどっしりして足も太く、しっかりしている。近づいても嫌がらず、そっとなでても平気な顔。緒方さんによると、食いしん坊ではしこい(気が強い)子だそうだ。ブラッシングされると、気持ちいい顔。馬にはしっかり表情がある。地元出身の緒方さんもこどものころ、自宅に馬がいて、家族と世話をしたという。

「それが当たり前でしたからねえ。縁あって、こうしてまた馬と働けるのはうれしい」

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東横INN対馬比田勝で飼育されている対州馬の福桜。ブラッシングがとても気持ちよさそう

 ふと見ると、厩舎の床にカニがいた。ホテルのすぐ近くに三宇田浜海水浴場の砂浜があり、3頭もときどき散歩に出かけるという。なんとか雨がやんだので、午後の散歩に同行することにした。

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三宇田浜の福桜と緒方さん。馬にも個性があり、福桜は神経質なのか波の音が苦手らしく、海側を嫌がっていたのが印象的だった

 歩くペースは、犬の散歩より、ずっとゆるい。手綱を持たせてもらった。人気のない砂浜をゆっくりと優雅に進む福桜と私……と思ったが、何のことはない。彼女はスキを見ては足元の草を食べようとするから進まないのである。1日に3キロほどの栄養豊富な飼料を食べる福ちゃんにとって、ここのフレッシュな草はデザートみたいなものらしい。

 とことことこ、むしゃむしゃむしゃ。馬に合わせて歩いてみれば、いつものせかせかした自分の早足はなんだったんだろうと思える。首に触れると生き物のあたたかさが伝わって、気持ちがほわほわとした。

構成・文=ペリー荻野 写真=荒井孝治

ペリー荻野 (ぺりー・おぎの)
コラムニスト、時代劇研究家。1962年、愛知県生まれ。時代劇主題歌オムニバスCD「ちょんまげ天国」のプロデュースなど、時代劇企画に携わること多数。近刊に『テレビの荒野を歩いた人たち』(新潮社)、『脚本家という仕事 ヒットドラマはこうして作られる』(東京ニュース通信社)など。

――この旅の続きは、ひととき本誌でお読みになれます。「自分の人生には馬がいたほうがいい」と島に移住した女性獣医師さん、対州馬に魅了されて北海道から移ってきた調教師さんのお話を伺ったのち、かつて在来馬の中でも一番小さい野間馬がたくさん暮らしていたという愛媛県今治に向かいます。愛らしい馬たちのグラビアと共にお楽しみください。

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【特集】ニッポンの馬の話
●巻頭エッセイ 地名から見える馬の日本史
文=蒲池明弘
●紀行 対馬編
●コラム ニッポンの馬はどこからやって来た?
談=戸崎晃明
●紀行 今治編
【特集】ニッポンの馬の話〔案内図〕

出典:ひととき2021年9月号




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