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【御城番屋敷】いまも末裔たちが住む武家屋敷 (三重県松阪市)

日本全国の“地域の宝”を発掘する連載コーナー「地元にエール これ、いいね!」。地元の人々に長年愛されている食や、伝統的な技術を駆使して作られる美しい工芸品、現地に行かないと体験できないお祭など、心から「これ、いいね!」と思える魅力的なモノやコトを、それぞれの物語と共にご紹介します。(ひととき 2018年9月号より)

 戦国武将・蒲生氏郷(がもううじさと)が築いた松坂城。城郭は失われ、いまでは堅固な石垣を残すのみだ。その石垣の上から、搦手門(からめてもん)(裏門)方向に目をやると、石畳の道をはさんで立つ2棟の瓦葺の建物が見える。国の重要文化財「御城番屋敷(ごじょうばんやしき)」だ。

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松坂城二の丸跡から見た御城番屋敷。石畳に映える槇垣(まきがき)の緑が美しい

 松坂藩廃藩後、松坂は紀州藩の飛び領地となり、松坂城には城代役所をはじめとする紀州藩の出先機関が置かれた。城の警護を任務とする御城番藩士の住居として、文久3年(1863)に建てられたのがこの組屋敷(長屋)だ。2棟の建物には、間口5間・奥行き5間の住居がそれぞれ十戸(西棟は現在九戸)入っている。

 御城番屋敷を維持・管理する「苗秀社(びょうしゅうしゃ)」の今村結美さんに話をうかがった。

 「御城番として、この地に入った紀州藩士は20名。そのうち4名の子孫の方が現在もお住まいです。お殿様から拝領したこの屋敷は、子々孫々守っていかなければならない大切なものだったんです」

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松阪市は西棟北端の一戸を借り受け復元整備、公開している

 御城番藩士たちの先祖は、徳川家康のもとで数々の武勲をあげた武士集団・横須賀党*である。家康による天下統一後、彼らは家康の10男・頼宣(よりのぶ)の家臣として紀州に入り、紀州徳川家の御付家老、田辺城主安藤家を助ける「田辺与力(よりき)」として、代々紀州田辺に居住した。それから230年あまり後の安政2年(1855)、与力衆に対して、突然、安藤家家臣(陪臣)となるようにとの通達が出された。藩主直臣(じきしん)であることを誇りとしてきた与力衆はこれを不服として、藩士の身分を捨て脱藩、放浪の身となった。

「それでも藩士たちの結束は揺らがず、文久3年、全員直臣として藩への帰参が認められました。そして松坂城御城番という役職が与えられたんです」(今村さん)

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20名の署名血判が付された契約状(複製)。苗秀社・今村さんの先祖の名も見える

 しかし慶応3年(1867)、大政奉還によって徳川の時代は終わりを告げた。時代に翻弄されながらも、与力衆は資産が散逸しないようにと「苗秀社」を創設、その維持・管理に努めてきた。

「田辺与力」の矜持は、いまも受け継がれている。

文=秋月康  写真=森武史

ご当地◉INFORMATION
●松阪市のプロフィール
三重県中部に位置し、東は伊勢湾、西は奈良県吉野郡に接する広いエリアを持つ。天正12年(1584)、南伊勢12万石の大名として入った蒲生氏郷は、松坂城築城をはじめ、街道の整備、楽市楽座の振興、近江商人の誘致などのさまざまな施策を行い、松坂発展の礎を築いた。江戸時代には商都として大いに栄え、三井、小津、長谷川といった豪商が江戸や京都、大坂に出店を構えた。国学者・本居宣長の生まれ故郷でもある。

●松阪市へのアクセス

東海道新幹線名古屋駅から関西本線に乗り換え松阪駅下車

●問い合わせ先

松阪市観光交流課 ☎0598-53-4406 
苗秀社 ☎0598-21-2520
一般社団法人松阪市観光協会 ☎0598-23-7771
https://www.matsusaka-kanko.com/

出典:ひととき2018年9月号
※この記事の内容は雑誌発売時のもので、現在とは異なる場合があります。詳細はお出かけの際、現地にお確かめください。


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