見出し画像

旅の巡り合わせ ある書物との得難い出会い 伊藤 聡(大学教授)

小説家、エッセイスト、画家、音楽家、研究者、俳優、伝統文化の担い手など、各界でご活躍中の多彩な方々を筆者に迎え「思い出の旅」や「旅の楽しさ・すばらしさ」についてご寄稿いただきます。笑いあり、共感あり、旅好き必読のエッセイ連載です。(ひととき2021年7月号「そして旅へ」より)

 ある書物の旅について取り上げよう。私は日本宗教の研究をしている。研究の一環として、各地の寺院に残されている古い写本などを調査することが多い(コロナのために去年からできないでいるのだが)。そのために、1年に何度となく旅をする。新幹線からローカル線を何度も乗り継いで行くところもある。私にとっての旅とは、このような調査がらみのものがほとんどである。

 今から数年前、香川県三豊市仁尾にある覚城院(かくじょういん)というお寺で、『密宗超過仏祖決(みっきょうちょうかぶつそけつ)』という写本を見せていただいたことがある。それは、正安4年(1302年)に癡兀大慧(ちこつだいえ)という禅と密教とを兼ね修めた高僧が、伊勢国安養寺(あんようじ・現三重県明和町)で行った講義を、弟子の寂雲が書き留めた書物だった。これを見たときたいへんに驚いた。なぜならこの書物は、私が学生時代から何十年も通って仲間たちと調査を続けている名古屋市の真福寺宝生院(しんぷくじほうしょういん・大須観音)に、本来あるはずのものだったからである。真福寺は、『古事記』の最古写本をはじめ、中世の仏教・神道の古文献を数多く蔵している寺院である。建立したのは能信という人で『密宗超過仏祖決』を書写した寂雲の弟子にあたる。

 真福寺ができた鎌倉時代の終わりころに、この書物もそこにやってきていたことは、当時の蔵書目録から分かるのだが、現在は見当たらない。長い年月の間にはよくあることである。ところが、その失われた書物が、海を隔てた香川県で見つかったのである。私は最初、にわかには信じられなかった。

 そこでいろいろと調べていくと、次のようなことが分かった。真福寺と讃岐国(香川県)とは、鎌倉末の創建当初より室町時代にかけて何十年も交流があって、何人もの讃岐出身の僧侶が真福寺で学びまた戻っていたのである。特に応永年中(1394~1428年)には信源という学僧が、真福寺と覚城院の間を何度も行き来し、何十冊もの真福寺の書物を書写していた。『密宗超過仏祖決』の写本自体には、信源の痕跡はないけれど、おそらくこの人が、真福寺で『密宗超過仏祖決』を譲られ、讃岐に持ち帰ったのだろう。

 覚城院がある仁尾は、かつて瀬戸内有数の港だった町である。また真福寺は今は名古屋市の真ん中にあるが、ここに移ったのは江戸時代初めのことで、以前は尾張国中島郡大須(現岐阜県羽島市桑原町大須)にあった。そこは木曽三川の中洲であり、人の移動や物の輸送に川をよく利用していた。『密宗超過仏祖決』はもともと14世紀はじめに伊勢の安養寺で書かれたものだった。それが数十年後に尾張の真福寺に移り、さらに15世紀のはじめころ讃岐の覚城院に移されたのである。つまり、この書物は伊勢から尾張に向かい、しばしの時を経たのち海を越えて讃岐へと旅したわけである。

 そして、そのまま寺院の蔵の中で長い眠りについていたこの書物に、600年の時を超えて、同じ旅路を歩んだ私が出会ったのである。古い文献を調査する旅にも、こんな得がたい出会いがある。だから、旅はやめられないのだ。

文=伊藤 聡 イラストレーション=林田秀一

伊藤 聡(いとう  さとし)茨城大学人文社会科学部教授。1961年、岐阜県生まれ。専門は日本思想史。『中世天照大神信仰の研究』(法藏館)、『神道とは何か 神と仏の日本史』(中公新書)、『神道の中世─伊勢神宮・吉田神道・中世日本紀』(中公選書)など著書多数。

出典:ひととき2021年7月号


最後までお読みいただきありがとうございます。いただいたサポートは、ウェブマガジン「ほんのひととき」の運営のために大切に使わせていただきます。