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落ち葉を踏みしめる音|文=北阪昌人

音をテーマに、歴史的、運命的な一瞬を切り取る短編小説。第7回は、俳諧の聖地・京都の金福寺で、学生時代に出会ったある人との思い出を振り返る「落ち葉を踏みしめる音」です。(ひととき2021年11月号「あの日の音」より)

 私は、俳諧の聖地、京都の金福寺にいる。

 大学の講義を終えて、そのまま来てしまったので、黒いハイヒールだった。「来てくれるだろうか……」。心の中で何度もつぶやく。 

 俳人・与謝蕪村は、この寺の芭蕉庵を再建し、自らも背後の墓所で眠る。枯山水の庭園の周りには、色づいた木々と、薄紅色のサザンカが控えていた。私は、20年前と同じように、耳をすます。「カサカサカサ」という落ち葉を踏みしめる音がしないかと……。

 20年前、私は京都市内の高校生だった。

 大学生に混じり、俳句の会に入っていた。今、思い出すと、赤面してしまうくらい、生意気で、世の中をわかったような気持ちになっていた。高校の俳句部の顧問が、私の句を絶賛し、自分の恩師に紹介して、その句会に参加することになったのだ。当時の私は、その時期特有のセンチメンタリズムとペシミズムにどっぷりつかり、悲劇のヒロインを気取っていた。

 確かに家庭環境は複雑だった。両親が離婚して、私は母に引き取られ、母は再婚。継父は、優しく、よくしてくれたが、勝手に厭世観を増していた。

 俳句の会の先生は、京都の大学で国文学を教える柿内十郎さんだった。柿内先生は、全く私の句を褒めない。それがなんだか気に食わなかった。

 ある日、金福寺での句会のあと、居残っていた私は、柿内先生に聞いた。

「私の句の、どこがダメなんですか?」

 先生は、頭をぽりぽり掻いて、言った。

「そうですねえ……確かにあなたの句は、うまいです。ですが……なんというか、まあ、これは私の持論なんですが、日本人の良さというのは、己を消すことにあると、思うわけです。あなたの句は、消せてない。それどころか、私を見て! と言っている。人間は、自分を客観視できて、初めて一人前になるんだと思っています。与謝蕪村は、詠みました。『待人の足音遠き落葉かな』。自分を出しているようで、ちゃんと消している。私は、そこが好きなんです。ああ、答えになっていますか?」

 私は、無言で席を立った。失礼を省みずに。落ち葉を踏む、ガサガサという耳障りな音が、虚しく響いた。それ以来、句会には参加しなかったけれど、ずっと気にかかっていた。

 いつか柿内先生に会って、報告したい。今、私は、京都の大学で国文学を教えている。それは全て、先生の影響であり、私がなんとか真っすぐ生きて来られたのは、先生のあのときの言葉のおかげです。甘えている自分に気づかせてくれた、あの言葉。よかったら、金福寺に来てください。日時を伝え、私は待った。

 まだまだ客観視はできていないけれど、少しは、わかってきました。先生のおかげで。今なら、どんな句を詠むだろうか……。

 遠くから、落ち葉を踏みしめる音が聴こえた。それは、優しい音。あのときの私が踏んだ落ち葉の音とは、違う。先生だ、先生が、来てくれた。

 「カサ、カサ、カサ……」

 庭園に、懐かしい顔が現れた。視界は潤み、ぼやけ、赤や黄色が優しく滲んだ。

北阪昌人(きたさか まさと)
1963年、大阪府生まれ。脚本家・作家。「NISSAN あ、安部礼司」(TOKYO FMほか38局ネット)などラジオドラマの脚本多数。著書に『世界にひとつだけの本』(PHP研究所)など。

※この話はフィクションです。次回は2022年1月頃に掲載の予定です

出典:ひととき2021年11月号



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