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【薬師三尊像】他に例のない姿をした“至高のほとけ”(奈良・薬師寺)―『仏像に会う』

仏像は見るものではなく、出会うもの――仏像にはそれぞれ、作った人、守り伝えてきた人の願いが込められています。仏像一つ一つに込められた願いや、背景にある歴史物語を知ることで、仏像との本当の出会いが訪れることでしょう。2014年まで奈良国立博物館の学芸部長を務めていた西山厚先生の新刊書籍仏像に会うー53の仏像の写真と物語(2020年10月20日発売)の内容を抜粋してお届けします。

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 680年、天武天皇は、皇后の病気平癒を願い、藤原京に寺を造り始めた。これが薬師寺である。程なくして幸いに皇后の病は癒えた。

 686年になると、今度は天武天皇が病み、そのまま亡くなった。皇后(鸕野讃良皇女<うののさららのひめみこ>)は、あとを継いで即位(持統天皇)し、未完成だった薬師寺の造営を続けていく。

 698年には、薬師寺の構作がほぼ終わり、衆僧を住まわせたと『日本書紀』にみえる。本尊の薬師如来像は、遅くともこの時までに完成していたということになるだろう。

 710年に、藤原京から平城京へ都は遷る。

 薬師寺も、藤原京から平城京へ遷った。本尊の薬師如来像も、平城京へ移されてきた。旧京に放置するはずがない。平安時代における古老の伝えでは、7日をかけて曳いてきたという。

05薬師寺薬師如来005-3

◉薬師三尊像(やくしさんぞんぞう)
奈良・薬師寺 国宝
銅造 像高(中尊)254.7cm
白鳳時代 7世紀

 銅で鋳造された薬師如来は、四角い宣字座(せんじざ)にゆったりと坐っている。東塔の銘文に「巍巍蕩蕩(ぎぎとうとう)」(大きくておごそかで広くてゆったり)とあるのにふさわしい。衣の裾が台座にかかり、美しく流れ落ちている。手のひらと足の裏には特別な模様があり、台座に聖なる動物や不思議な人物が表わされているなど、この薬師如来像は他に例のない姿をしている。

 12世紀に奈良を巡礼した大江親通(おおえのちかみち)は、大安寺の釈迦如来像(乾漆造<かんしつづくり>/現存しない)を除けば、諸寺の仏像と粧厳(しょうごん)に勝ると記している。

 古代の人々は薬師寺の建物は他寺とは違い、「龍宮の様」に学んで造られたと考えていた。そして金堂に入ると薬師三尊像。中央に薬師如来、向かって右に日光菩薩、左に月光(がっこう)菩薩。これ以上はない、至高の金銅仏(こんどうぶつ)の群像である。

 薬師如来は堂々とした体に薄い衣をまとい、衣を通して肉体の柔らかな起伏がうかがえる。

 気品のある理想的な体つき。うねりをつけて刻まれた両眼。形のよい力強い鼻。引き締まった唇。高貴な顔立ちは優しそうにもきびしそうにもみえる。手足に文様があるのは千輻輪相(せんぷくりんそう)といい、仏の特徴のひとつである。右手は、親指と人差し指の先を合わせる印を結んでいる。

 台座には、葡萄唐草文(ぶどうからくさもん)や、東西南北を護る四神(青龍・朱雀・白虎・玄武)が表わされており、アフロヘアの不思議な人物が顔を出す。

 当初の金堂は、室町時代に兵火で焼失した。

 日光菩薩と月光菩薩はそれぞれ中央に向かって倒れ、薬師如来にもたれかかっていたという。焼失した光背は江戸時代に木で新造された。

文=西山 厚  写真=許可を得て著者が撮影したもの

西山 厚(にしやま あつし)
奈良国立博物館名誉館員、半蔵門ミュージアム館長、帝塚山大学客員教授、東アジア仏教文化研究所代表。徳島県鳴門市生まれの伊勢育ち。京都大学大学院文学研究科博士課程修了。奈良国立博物館で学芸部長として「女性と仏教」など数々の特別展を企画。奈良と仏教をメインテーマとして、人物に焦点をあてながら、さまざまなメディアで、生きた言葉で語り、書く活動を続けている。主な編著書に『仏教発見!』(講談社現代新書)、『僧侶の書』(至文堂)、『別冊太陽 東大寺』(平凡社)、『語りだす奈良 118の物語』『語りだす奈良 ふたたび』(いずれもウェッジ)など。

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