マガジンのカバー画像

「ひととき」の特集紹介

91
旅の月刊誌「ひととき」の特集の一部をお読みいただけます。
運営しているクリエイター

記事一覧

[有田焼]開国を契機に世界へ|幕末・開化期、佐賀の万博挑戦

 有田の人々の目が、ふたたび海外に向いたのが幕末だった*。通商条約が結ばれて自由貿易が始まり、ジャポニスムのブームや万博への出展も相まって、有田焼は世界に返り咲いていく。  1870(明治3)年にはドイツ人技術者のワグネルが有田に招かれ、西洋の先端技術を伝えた。鮮やかな青や緑、桃色、黄色など、発色のいい西洋絵具が導入され、有田の人々の製作意欲は上がった。  幕末のパリ万博の次が、1873(明治6)年のウィーンだった。明治政府は新生日本をアピールしようと、威信をかけて大規模

福井・北前船と夢の町(南越前町)|北陸新幹線開通記念特集

海運と商才と──南越前町 風を受けていっぱいにふくらんだ白い帆の力で、がっしりとした木組みの船体が海を滑るように進んでいく。「どんぐり船」とも呼ばれるでっぷりした腹の中には、各地の自慢の産物がぎっしりと詰め込まれている。  江戸時代の半ばから、1897(明治30)年ごろまで、こうした「北前船」が日本海を数多く行き来した。当時の船絵馬や錦絵には、入港してくる大小の白帆や、帆を下ろして停泊する船がいくつも描かれ、湊のにぎやかなようすが伝わってくる。水軍力抑止のため、大型船建造を

社会学者・中井治郎さんが見つめる観光都市「京都」の今昔|「そうだ 京都、行こう。」の30年

【ポスター ’96 冬】 【ポスター ’05 春】 【ポスター ’12 夏】  京都の歴史を、観光都市の側面から振り返ると、この街が初めて「伝統」を意識したのは、「都」を江戸に譲った時だったのではないかと思います。政の中心を江戸、商の中心を大坂が担う中、京都が拠り所にしたのは天皇を擁していること、すなわち「伝統」でした。よそから訪れる人に向け、いかにこの伝統をプレゼンしていくかを考える過程で、京都の観光文化は洗練されていったのでしょう。  明治の時代になり、天皇も京都

常盤貴子さんと桜色の京歩き|「そうだ 京都、行こう。」の30年

 京都を舞台とする数々の作品出演はじめ、昨今は京都府文化観光大使としても、古都の魅力発信に貢献する俳優の常盤貴子さん。京都好きは10代の頃からで、デビュー以来、わずかな時間を見つけては新幹線に飛び乗っていた、という筋金入り。 「冬の京都の、キーンと冴えた空気感も好きですが、ふらっと来たくなるのは、やっぱり春かな。あのCMの名コピーに何度、誘われて来たことか(笑)。ね? お誘いいただいているのならば……って、気分になるでしょ?」 【ポスター’10 春】  そんな常盤さんと

【どぜう飯田屋】伝えたい老舗の小鍋|浅草鍋めぐり

 池波正太郎さんは隅田川の畔、待乳山のある聖天町*で生まれ、浅草、上野で育った。著作には鍋も登場する。記念文庫がかっぱ橋道具街の北端にあり、観覧してから鍋めぐりといけば興趣が深まるというもの。池波さんは「江戸風味の酒の肴」*というエッセーに「……江戸湾には隅田川や神田川がながれ込んでおり、その川水と海水とが混じり合った特殊な水質に育まれた魚介は、独自の味わいをもっていたのである。……貝類は、葱をつかって鍋にもする」と書いている。 「ともかくも、さっぱりと手早く調理をして出す

浅草のすき焼き文化を牽引する名店「ちんや」へ|浅草鍋めぐり

 食いしん坊の父は、外食で覚えた味を家で蘊蓄を傾けながら家族に食べさせるのが好きだった。鍋もよくやり、すき焼きともなると、肉やねぎはあの店で買えと指令を発し、大晦日も正月もすき焼きを囲んだ。食を通じての団欒にはひとつ鍋を囲む鍋ものがいいが、とくにすき焼きはおすすめ。肉を入れるや、座は静まり、誰もが鍋を見つめ、このとき心はひとつになる。肉、脂、ねぎの風味が醤油と砂糖にくるまれて放つ香りに、人は誰も抗えない。わたしがすき焼きこそ日本の最高のごちそうだと思い、“すきや連”を主宰する

奈良、癒しのお湯5選|ととのうお湯めぐり

[入之波温泉]山鳩湯安時代開湯の入之波温泉にある。吉野杉の森とダム湖を望む露天が秘湯感を演出する温泉だ。毎分500リットルも自噴するお湯は濃い黄金色で、湯に含まれるカルシウムがケヤキで造られた湯船に堆積して、鍾乳洞のような質感に。宿泊も可能で、ジビエやアマゴを使った鍋もいただける [十津川温泉]神湯荘享保年間に発見されたと伝わる十津川温泉は、熊野古道の小辺路や大峯奥駈道の途中にある温泉で、多くの旅人や行商人がその足を休めた。旅館・神湯荘では、山々の景色を眺められる露天風呂や

【洞川温泉】かくも良き、レトロ温泉郷|奈良、ととのうお湯めぐり

湯の語源は斎であると言われている。斎は神聖であること、清浄であること、という意味を持つ。湯は身体を清潔にすると同時に罪、穢れを洗い清めるためのものであり、宗教性を帯び、古くから信仰と結びついている。奈良にも信仰と深く結びついた温泉がある。世界遺産に登録された地域にある吉野郡天川村の洞川温泉である。  天川村は奈良県中央部のやや南に位置し、洞川地区はその東の端にある。標高約820メートルの高地で村の東に大峯山系が連なる。山上ヶ岳や弥山は霊山として信仰の対象とされており、古くか

若冲と並ぶ“奇想の絵師”芦雪が南紀に残したもの(和歌山県串本町)

串本で芦雪に出会う無量寺境内にある「串本応挙芦雪館」には、別記事でご紹介した虎と龍の襖絵のほかにも芦雪作品を14点、常設展示しています。その中から厳選して3作品をご紹介いたします。 串本応挙芦雪館芦雪の襖絵をはじめ、「寺宝を大切にしたい」という思いを共有する、地域の人々の支援のもと設立された。重要文化財の襖絵などを保管する収蔵庫と展示室(写真)がある 1.布袋・雀・犬図3幅でひとつの場面を描く。中幅は、大きな袋の上に座る布袋が唐人人形を操っている。右幅には、袋からこぼれ出

「奇想の絵師」の才能が開花した地へ|南紀と長沢芦雪(和歌山県串本町)

串本町 本州最南端へ 江戸時代後期の天明の世、ひとりの絵師が本拠地である京都をあとにして紀伊半島の南部へと旅に出た。その名を長沢芦雪。写生を重視した円山派の祖、円山応挙の門弟である。  旅の目的は届け物だった。本州最南端の地、串本町の無量寺は地震による大津波で流失する悲運に遭ったが、およそ80年後に当時の住職だった愚海和尚が再建した。愚海は応挙と長年の親交があった。ずっと再建に奮闘する愚海に応挙はつねづね言っていた。 「あなたの寺院が完成したときは、前途を祝い必ずわたしの

七つの浦を巡って出会う、もうひとつの宮島|歴史が生んだ佳景(後編)

7つの浦の神社を巡る  厳島には、ほかにもたくさんの神々がお鎮まりになる。島の周囲約30キロ、その浦々にも神々が祀られる。船で島を一周しながら、そのうちの7つの浦を拝する嚴島神社の神事が「御島廻り」だ。 「七浦巡り」とも呼ばれるこの神事のいわれが、嚴島神社御鎮座の伝説である。  紅い帆を揚げた船に乗ってやって来た女神は、厳島で鎮座する場所を探していた。地元の有力者と一緒に船に乗っていると、島内からカラスが現れる。神の使いであるこの「神鴉」が一行を導き、ある場所で姿を消し

【宮島】神住まう、島の祈り|歴史が生んだ佳景(前編)

神の島の祈りの歴史 「安芸の宮島」とも呼ばれる厳島は、古名を「いつきしま」という。「神を斎き祀る島」ということだ。  島そのものがご神体である。常緑の深い森に覆われた山々が峻厳にそそり立つこの島の姿を、古代、船で行き交う海の民は畏れ崇めた。神域を侵すなど思いもよらず、瀬戸を隔てた対岸から遥拝、あるいはわずかに岸辺に上がって祈りを捧げた。  島には地元のひとびとにそのように祀られた、たくさんの神がいた。なかでもよく知られる嚴島神社は、縁起によれば593(推古天皇元)年に創

【小田垣商店】黒豆一筋、300年の老舗(丹波篠山市)

 丹波篠山市には、老舗の黒豆専門店がある。1734(享保19)年、鋳物師の小田垣六左衛門が金物商として始めた小田垣商店は、丹波の黒豆の歴史に関わってきた。  1868(明治元)年、6代目店主となった小田垣はとが、金物商から種苗商に転業。黒大豆の種を農家に配り、栽培法を教えて、収穫された黒豆を生産者から直接仕入れ、俵に詰めて販売を始めた。1941(昭和16)年には、当時の兵庫県農事試験場によって、黒大豆の優れた品質と特性調査が行われ、「丹波黒」と品種名が定められた。ところが、

【丹波】土を見極め、土から生み出す古窯の里へ

 約800年の歴史を持つ丹波焼は、素朴な土の風合いが生きた焼き物です。丹波篠山市の中心街から南西に20キロ弱、立杭と呼ばれるエリアでは、今も50軒あまりの窯元が、個性と温かみあふれる器を焼いています。 歴史と焼き物の町、丹波篠山へ 仰ぎ見れば多紀連山の濃い緑と青い空。風が田畑を吹き抜け、水路ではシラサギがゆっくりと動きながら獲物を狙う。穏やかな山里の景色が広がる丹波篠山は、古くから京都への交通の要所として栄えた。  戦国期には、織田信長の命を受けた明智光秀の丹波攻めの舞台