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「ひととき」の特集紹介

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旅の月刊誌「ひととき」の特集の一部をお読みいただけます。
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記事一覧

和魂洋才、モダンな津山|倉敷・津山ユニーク建築探訪特集

 城東地区は、1階の庇がそろった町家が並び、なまこ壁や出格子などの建築様式が見られる。このエリアには、幕末、ペリーが持参したアメリカ合衆国大統領の親書を翻訳、プチャーチンの長崎来航時には対ロシア交渉使節に同行するなど、日本の近代化に大きく貢献した洋学者・箕作阮甫の旧宅がある。その敷地隣には現在、「津山洋学資料館」が建てられている。  津山藩と洋学は縁が深い。  津山に初めて洋学を紹介したのは、江戸詰の藩医・宇田川玄随だった。以降、江戸期にベストセラーとなった解剖書「医範提

[大原美術館]日本初の西洋美術中心の私立美術館が生まれた背景|倉敷・津山ユニーク建築探訪特集

大原家から始まった町 歴史ある建物の中に身を置くと、ふわっと気持ちが豊かになる。角がとれた柱やペンキが塗り重ねられた壁。磨かれたガラス。扉や棚に施された小さなデザイン。どこか微笑ましく、あたたかい。 「それは昔の建物が、人の手で設計され、人の手で造られ、人の手で守られてきたからです」   上田恭嗣さんは、一級建築士・大学名誉教授として地元の学生たちに地域の建築や町づくりについて教えてきた。上田さんによると、機械化や規格化が進んだ現代と違い、明治・大正・昭和の建造物は、ひと

ひと粒の命を輝かせる人々|真珠のゆりかご 伊勢志摩へ(ひととき6月号特集)

“ハネ珠”に価値を与える 尾崎ななみさんにとって、志摩市英虞湾にある祖父・中北敏広さんの真珠養殖場は遊び場だった。学校が休みになると、両親に連れられて伊勢市から会いに行ったのだ。祖父の操る船が軽快なエンジン音を立てて、青い空を映した穏やかな海をすべっていく。入り組んだリアス海岸で水平線は見えないけれど、どこまでも続く緑の海岸線と、その間に浮かぶ真珠養殖の筏を眺めていた。船に乗るのは楽しかったし、日に焼けた頑健な祖父は頼もしかった。筏に着いて船が停まると、小さな波が音を立てるの

日本人と真珠──白珠に託す想い|真珠のゆりかご 伊勢志摩へ(ひととき6月号特集)

 真珠に何かの役割があるとすれば、その第一は贈物ということになるのではないか。他者への礼を表すのに、この小さな、深い輝きを持った珠はまことに相応しい。円いかたちは見る人を穏やかな気分にさせ、白い色は純粋な好意を感じさせる。掌に置いて眺めれば、贈り主の心情がほのぼのと伝わってくる。  古代の人々もこのことを思っていただろうか。『魏志倭人伝』には倭から魏に白珠が贈られた記録がある。藤原道長の日記『御堂関白記』によれば、宋に帰朝する僧の進物に毛皮や螺鈿と並んで「大真珠五顆*1」を

[有田焼・香蘭社]ジャポニスムブームがアメリカに広がった時代|幕末・開化期、佐賀の万博挑戦

 ウィーンへの派遣団の中に、納富介次郎という男がいた。もともと絵が巧みな佐賀藩士で、幕末には上海に渡った経験を持つ。  納富は万博閉会後に、フランスのセーブルなどヨーロッパ各地の焼物の地におもむいた。そこで石膏型を用いて、粘土液を流し込むなど、同じ形の器を量産する方法を習得。ろくろほど手間がかからず合理的で、帰国後は有田に技術を伝えた。  美術史家の森谷美保さんによると、納富は次のフィラデルフィア万博用の図案集を、新政府に提案したという。  それが実現して「温知図録」が

[有田焼]開国を契機に世界へ|幕末・開化期、佐賀の万博挑戦

 有田の人々の目が、ふたたび海外に向いたのが幕末だった*。通商条約が結ばれて自由貿易が始まり、ジャポニスムのブームや万博への出展も相まって、有田焼は世界に返り咲いていく。  1870(明治3)年にはドイツ人技術者のワグネルが有田に招かれ、西洋の先端技術を伝えた。鮮やかな青や緑、桃色、黄色など、発色のいい西洋絵具が導入され、有田の人々の製作意欲は上がった。  幕末のパリ万博の次が、1873(明治6)年のウィーンだった。明治政府は新生日本をアピールしようと、威信をかけて大規模

福井・北前船と夢の町(南越前町)|北陸新幹線開通記念特集

海運と商才と──南越前町 風を受けていっぱいにふくらんだ白い帆の力で、がっしりとした木組みの船体が海を滑るように進んでいく。「どんぐり船」とも呼ばれるでっぷりした腹の中には、各地の自慢の産物がぎっしりと詰め込まれている。  江戸時代の半ばから、1897(明治30)年ごろまで、こうした「北前船」が日本海を数多く行き来した。当時の船絵馬や錦絵には、入港してくる大小の白帆や、帆を下ろして停泊する船がいくつも描かれ、湊のにぎやかなようすが伝わってくる。水軍力抑止のため、大型船建造を

社会学者・中井治郎さんが見つめる観光都市「京都」の今昔|「そうだ 京都、行こう。」の30年

【ポスター ’96 冬】 【ポスター ’05 春】 【ポスター ’12 夏】  京都の歴史を、観光都市の側面から振り返ると、この街が初めて「伝統」を意識したのは、「都」を江戸に譲った時だったのではないかと思います。政の中心を江戸、商の中心を大坂が担う中、京都が拠り所にしたのは天皇を擁していること、すなわち「伝統」でした。よそから訪れる人に向け、いかにこの伝統をプレゼンしていくかを考える過程で、京都の観光文化は洗練されていったのでしょう。  明治の時代になり、天皇も京都

常盤貴子さんと桜色の京歩き|「そうだ 京都、行こう。」の30年

 京都を舞台とする数々の作品出演はじめ、昨今は京都府文化観光大使としても、古都の魅力発信に貢献する俳優の常盤貴子さん。京都好きは10代の頃からで、デビュー以来、わずかな時間を見つけては新幹線に飛び乗っていた、という筋金入り。 「冬の京都の、キーンと冴えた空気感も好きですが、ふらっと来たくなるのは、やっぱり春かな。あのCMの名コピーに何度、誘われて来たことか(笑)。ね? お誘いいただいているのならば……って、気分になるでしょ?」 【ポスター’10 春】  そんな常盤さんと

【どぜう飯田屋】伝えたい老舗の小鍋|浅草鍋めぐり

 池波正太郎さんは隅田川の畔、待乳山のある聖天町*で生まれ、浅草、上野で育った。著作には鍋も登場する。記念文庫がかっぱ橋道具街の北端にあり、観覧してから鍋めぐりといけば興趣が深まるというもの。池波さんは「江戸風味の酒の肴」*というエッセーに「……江戸湾には隅田川や神田川がながれ込んでおり、その川水と海水とが混じり合った特殊な水質に育まれた魚介は、独自の味わいをもっていたのである。……貝類は、葱をつかって鍋にもする」と書いている。 「ともかくも、さっぱりと手早く調理をして出す

浅草のすき焼き文化を牽引する名店「ちんや」へ|浅草鍋めぐり

 食いしん坊の父は、外食で覚えた味を家で蘊蓄を傾けながら家族に食べさせるのが好きだった。鍋もよくやり、すき焼きともなると、肉やねぎはあの店で買えと指令を発し、大晦日も正月もすき焼きを囲んだ。食を通じての団欒にはひとつ鍋を囲む鍋ものがいいが、とくにすき焼きはおすすめ。肉を入れるや、座は静まり、誰もが鍋を見つめ、このとき心はひとつになる。肉、脂、ねぎの風味が醤油と砂糖にくるまれて放つ香りに、人は誰も抗えない。わたしがすき焼きこそ日本の最高のごちそうだと思い、“すきや連”を主宰する

奈良、癒しのお湯5選|ととのうお湯めぐり

[入之波温泉]山鳩湯安時代開湯の入之波温泉にある。吉野杉の森とダム湖を望む露天が秘湯感を演出する温泉だ。毎分500リットルも自噴するお湯は濃い黄金色で、湯に含まれるカルシウムがケヤキで造られた湯船に堆積して、鍾乳洞のような質感に。宿泊も可能で、ジビエやアマゴを使った鍋もいただける [十津川温泉]神湯荘享保年間に発見されたと伝わる十津川温泉は、熊野古道の小辺路や大峯奥駈道の途中にある温泉で、多くの旅人や行商人がその足を休めた。旅館・神湯荘では、山々の景色を眺められる露天風呂や

【洞川温泉】かくも良き、レトロ温泉郷|奈良、ととのうお湯めぐり

湯の語源は斎であると言われている。斎は神聖であること、清浄であること、という意味を持つ。湯は身体を清潔にすると同時に罪、穢れを洗い清めるためのものであり、宗教性を帯び、古くから信仰と結びついている。奈良にも信仰と深く結びついた温泉がある。世界遺産に登録された地域にある吉野郡天川村の洞川温泉である。  天川村は奈良県中央部のやや南に位置し、洞川地区はその東の端にある。標高約820メートルの高地で村の東に大峯山系が連なる。山上ヶ岳や弥山は霊山として信仰の対象とされており、古くか

若冲と並ぶ“奇想の絵師”芦雪が南紀に残したもの(和歌山県串本町)

串本で芦雪に出会う無量寺境内にある「串本応挙芦雪館」には、別記事でご紹介した虎と龍の襖絵のほかにも芦雪作品を14点、常設展示しています。その中から厳選して3作品をご紹介いたします。 串本応挙芦雪館芦雪の襖絵をはじめ、「寺宝を大切にしたい」という思いを共有する、地域の人々の支援のもと設立された。重要文化財の襖絵などを保管する収蔵庫と展示室(写真)がある 1.布袋・雀・犬図3幅でひとつの場面を描く。中幅は、大きな袋の上に座る布袋が唐人人形を操っている。右幅には、袋からこぼれ出