マガジンのカバー画像

新MiUra風土記

27
この連載では、40年以上、世界各地と日本で20世紀の歴史的事件の場所を歩いてきた写真家の中川道夫さんが、日本近代化の玄関口・三浦半島をめぐります。
運営しているクリエイター

#ほんのひととき

逗子、写真家中平卓馬への路(中川道夫インタビュー)|新MiUra風土記(番外編)

編集部(以下、――):2023年夏に「挑発関係=中平卓馬×森山大道」展が開催された際、中川さんが森山大道さんにお話を伺いました。森山さんから中平卓馬さんについての貴重なお話を伺うことができましたが、2003年の「中平卓馬 原点復帰―横浜」展(横浜美術館)から20年、今回の展覧会を見ての率直な感想はいかがですか。 中川(以下、省略):展覧会タイトルの「火ー氾濫」を見たとき、一瞬「否−叛乱」と読み違えそうになりました。美術館があるのはかつて帝都の近衛師団司令部ゆかりの地で、竹橋

山本周五郎、もう一つの横浜山手|新MiUra風土記

白亜の崖の上で過ごした作家がいた。その仕事場からは海水浴場や別荘、料亭、海苔の養殖をする海が見えた。彼は午前中の執筆をおえると着物に下駄姿で崖と坂で連なる尾根道をたどり巷に下りて散歩することが日常だった。 隣の台地に棲家がある遊歩人の僕としてはこの作家の足跡をたどってみたい。   ここ横浜の本牧、根岸はかつての武蔵国久良岐郡、この尾根道は相模国の三浦半島につながる鎌倉文化圏だ。 横浜にはブラフ(絶壁)クリフ(断崖)の名を冠したマンションや店舗が多い。いわゆる横浜山手は同じ

木古庭、葉山の奥へ|新MiUra風土記

三浦郡の葉山町はマリンスポーツの人気地で、御用邸や保養地文化の歴史もあり「湘南」のイメージを喚起する町だが、それらは海浜なのになぜ地名は葉山なのだろう? その昔、隣の逗子市で過ごした筆者は浜風にあたるだけでも至福にひたれる。やはり海の力はすごいものだ。ただ思えば葉山でも海の側ばかりに居た気がする。 葉山町は相模湾に沿って南北4キロ、大半は山と丘陵で逆コの字形に山地が海に迫っている。山の端、そこで端山から葉山へという説がある(*1)。 葉山のもうひとつのおもしろさはその地