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新MiUra風土記

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この連載では、40年以上、世界各地と日本で20世紀の歴史的事件の場所を歩いてきた写真家の中川道夫さんが、日本近代化の玄関口・三浦半島をめぐります。
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#フォトエッセイ

藤沢宿の飯盛女と「小鳥の街」|新MiUra風土記

 知ったようでいて知らない町が藤沢だった。  人口の減少がつづく三浦半島の玄関口、藤沢市は増加中で県内の第4位。そして藤沢駅—大船駅間にJR東海道線の新駅ができるという(藤沢域2032年頃)。いま何が藤沢に人を呼んでいるのだろうか?    藤沢はこの東海道線が町の中心部を南北に分け、南は鵠沼や辻堂の湘南ビーチで、あの江の島も藤沢市だ。駅南口にはJRに小田急江ノ島線と江ノ島電鉄の駅舎が集まり、観光客もいて賑わっている。  僕が知るのは、冴えない時代の駅北口だった。藤沢のほん

追浜、トンネルを抜けると海鷲の記憶が|新MiUra風土記

 トンネルだらけの町、横須賀。  鉄道も道路も険阻な山をつらぬき谷戸と湊をつないでくれる隧道。なかでも北端の追浜にはそれがいちばん多く隧道めぐりが町おこしになるという。*  明治以来のタイムトンネルを抜けるとそこは昭和20年以前の追浜だった。改札口をでるとDOCK OF BAYSTARS YOKOSUKA の蒼い文字が目についた。横浜DeNAベイスターズだ。DOCKは船渠。艦船を造り、修復し再船出させる。近代造船発祥の地の横須賀らしい。追浜には横須賀スタジアムと改名した球

天然うなぎのいた森 小網代|新MiUra風土記

 毎夏、相模の海の入江に奇跡と呼ばれる森を歩いてきた。  初めてその小網代の森を知ったのは、海岸線の魅力を知ってほしいという神奈川県主催の見学船に乗せてもらったとき。  このクルーズは、三浦の南端三崎港から城ヶ島を回遊して、相模湾の油壺沖へと向かうという。僕の思いは、この半島で鎌倉幕府を立ち上げて、ここ油壺の新井城で滅亡した三浦一族にあった。その落日を沖合から追想してみたかったのだ。  航海を終えて、小網代湾のシーボニアマリーナの桟橋に上がると、待っていた案内係が湾の奥

いざ鎌倉!消えた白山道をたどる|新MiUra風土記

 金沢八景駅の風通しがよくなってきた。  駅前は拡幅されて、京急本線と逗子線の駅は新交通システムの金沢シーサイドラインの駅舎と立体的に結ばれて、より利便になったものだ。  周辺の再開発も進み、復元工事がつづいた駅裏にある江戸期の茅葺屋根の旧木村家住宅と金沢八景権現山公園も完成して、この四月に公開されたばかり。この山上には平潟湾からの浜風も届いていた。  横浜市最南端の金沢区はかつて六浦荘と呼ばれた。  干拓された今の地形は、かつて内海、湾と入江と川に侵食された海岸線で

葉山コーストパス|新MiUra風土記

 知り慣れたはずの海町を、視点をかえて歩いてみたら、もうひとつの葉山が見える。 「きょう逗子の駅で天皇陛下を見たよ!!」と興奮ぎみで話したのは大正生まれの母だった。それは昭和40年中頃のこと。当時、天皇が葉山の御用邸へ出かけるのは、原宿駅からお召し列車で逗子へ。その駅頭からは御料車で葉山の一色に向かうと聞いていた。  母が駅で出待ちしていたのか、ただの偶然だったのかは分からない。  母が昭和天皇に拝謁するのは2度目だったが、敗戦をはさんで逗子で天皇と再会したときの気分は

「三浦ガンダーラ」の新世紀巡礼|新MiUra風土記

この連載「新MiUra風土記」では、40年以上、世界各地と日本で20世紀の歴史的事件の場所を歩いてきた写真家の中川道夫さんが、日本近代化の玄関口・三浦半島をめぐります。第5回は、三浦半島の北部・鷹取山をめぐります。  はじめに石ありきだった。  神武寺と鷹取山。逗子市と横須賀市をまたぐ霊場と聖地。 鷹取山頂上から、東京湾  三浦半島の北に位置するこの山稜からは、明治から昭和にかけて、池子石や鷹取石と呼ばれる良質の建築石材が切り出されていた。関東大震災で千葉の房州石や栃

観音崎要塞めぐり|新MiUra風土記

灯台と砲台 いつも三浦半島の観音崎を眺めている。  僕のマンション(横浜市)の階段の踊り場からは、南に横須賀市が望め、その背後には千葉県の房総半島が重なる。そのすき間が東京湾の浦賀水道で、そこに突き出ているのが観音崎の岬だ。  三浦半島は「要塞半島」とも呼ばれてきた。  幕末の招かざる異国船から、海防の城塞として江戸、東京湾の西岸を守ってきた。半島と湾上には27箇所の沿岸砲台を設けて、「東京湾要塞司令部」が横須賀におかれていた(*1)。  その西洋式築城技術による砲