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わたしの20代

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旅の月刊誌「ひととき」の創刊20周年を記念した本企画「わたしの20代」。各界の第一線で活躍されている方に今日に至る人生の礎をかたち作った「20代」のことを伺います。
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#仕事について話そう

「努力なしには上がれない場所があることを知りました」小菅正夫(獣医師)|わたしの20代

 僕はね、ずっと目の前のことしか考えてこなかったんですよ。それで大学に入る時も出る時も苦労しました。  中学で柔道を始め、高校時代は北海道大学に通い大学生に交じって稽古するくらい入れ込んで。だから大学は北大に行くと決めていたんだけど、肝心の受験勉強を全然していなかった。てっきり就職するものと思っていた先生は、僕が「北大行きます」と言ったら「何しに?」って(笑)。結局2浪して入学しました。  大学でも柔道第一。獣医学部に進み、そこそこいい成績を収めていたんだけど、なにしろ授

「本、映画、旅…… 20代は仕込みの時期でした」(建築家・中村好文)|わたしの20代  

 大学時代は学生運動が激しく、2年生の夏休み以降はロックアウトで長期の休講状態になりました。それが僕にとっては有意義な期間になりました。将来は住宅設計をやろうと決めていたので、設計事務所でアルバイトをしながら名作住宅の図面をコツコツ描いたり、日本民藝館*に通って李朝の陶磁器やイギリスの家具を眺めて一日過ごしたり。雑司ヶ谷子母神堂や佃島など、江戸の風情と人の気配の感じられる下町を歩き回ったりしました。  住宅を志したのは、「小屋」や人の暮らしに関心があったからです。ル・コルビ

目の前のことにただ精一杯だった(映画監督・山下智彦)|わたしの20代

 学生時代は、毎日のように京都の河原町で3本立ての映画を観て、サークルで8ミリの自主映画を撮っていました。就職活動はしたんです。でも、父(東映の任侠映画で知られる山下耕作監督)が撮っていた「竜馬を斬った男」の現場を覗きに行ったり、やっぱり映画が気になっていたんですね。高校時代、父が連れ帰ったスタッフが大勢うちで雑魚寝して、寝ぼけた人が母に「奥さん、風呂!」って。なんちゅう奴や、人の家で……と呆れながらも、そういう人間関係が僕には面白かった。  将来について父に相談したところ

貪欲に学び、がむしゃらに生きた(漫画家・ヤマザキマリ)|わたしの20代|ひととき創刊20周年特別企画

 17歳でイタリアのフィレンツェに渡り、美術大学で油絵を学び始めた20代の私は、それからどんな目に遭おうと痛くも痒くもないと思えるくらいの苦労をしました。  留学して間もなく、大学で文学と作曲を学ぶ、自称詩人の彼氏ができましたが、彼にとって人生の優先順位はお金よりも芸術と文学。おかげで数カ月おきに住まいを追い出され、11年の滞在中にフィレンツェ市内だけで26回も引っ越しました。  当時は、たくさんの日本人観光客が押し寄せていたバブルの真っ只中。私には貿易の商談やお金持ちの