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えいやっと飛び出した、春

2005年、大学3年の春休み、私は手製本と出会った。

大学でロシア語を学ぶ学生だった私は、留学を目前に控えており、後はビザが下りれば準備万端、という時期だった。
これから始まる生活への期待に胸膨らんでいた…かと言えば、実はそうではなく、日に日に留学したくないという気持ちが強くなっていた。
自分で選んで決めたはずの留学なのに…

理由はいろいろあった。要するにそれまでのツケが回ってきてしまったのだ。
大学1年次から私はサークルで劇団に所属しており、その年はサークルの幹事長として、舞台監督として、様々な大学から集まる学生をまとめる立場にあった。年末の本公演までの道のりは波乱に富んだもので、芸術監督との意見の食い違いや、メンバーの降板、本番に向けてのテクニカルな課題などなど、山積していた問題をなんとか乗り越え、困難な一年を終えたところだった。
一種の燃え尽き症候群だったかもしれない。タイヘンだったけれど充実した一年を終えて、サークルの皆には、今度は自分のために時間を使って!留学楽しんできてね!と言ってもらっていた。
それなのに。
何となく選んでしまった専攻。周りの友人たちの半分が留学をする環境。せっかくなら、というような理由で留学まで決めてしまったのだ。このまま進んでよいものか。劇団で舞台美術を担当する中で、手でものを作ることを続けてやってみたい、という思いも生まれていた。その気持ちに背を向けてしまってよいものか。モヤモヤは強くなるばかり。

「国連公用語を話せるようになって、国際組織で働きたい」という、大学入学当初の野心は、早々に萎んでいた。
(今ではこう書いているそばから恥ずかしくてたまらない。)
上京したての田舎者だった私は、大学に入って、語学の才能や勉学意識の素晴らしい人々に出会い、上には上が、さらにはその上がいる、ということを理解した。

そして、1年次の夏休みに一人で参加した、ネパールでのボランティアで、自分には国際組織で働くのは無理だ、と本能的に知ってしまった。
別にひどい目に遭ったわけではなく、道路工事のボランティアは過酷ではあったが楽しかったし、色んな国の友人もできて充実した旅ではあった。
が、人には努力ではどうにもならない向き不向きがやっぱりある。
私には、国際的な場でやり合えるコミュニケーション能力が圧倒的に足りなかった。(今では、国際的な場どころか、ご近所やママ友とのコミュニケーションにも難しさを感じるけど…)
そしてそれ以来、大学でのエネルギーのはけ口を求めるように、演劇サークルに没頭していたのだが、それも終わってしまった。

さあどうしよう?

加えて、この留学を目前に控えていた春、それまで約1年間、モラトリアムを一緒に過ごしてきた恋人が、本当にやりたいことを見つけ、華麗に転職してしまったのだった。

私は、取り残された思いでいっぱいだった。
私も、人生をかけてやりたいことを見つけなければ。
そう、焦っていた。
そしてそう思えば思うほど、目前に迫ったロシア留学は違うものに思えた。
留学を辞める口実を、探していたのかもしれない。

きっかけは、本当に些細なことだった。
どうして足が向いたのか分からない。確か彼と散歩をして、別れた後に、時折きていた神保町の古本屋に入った。
あの人は、私を置いて、夢に向かって進んで行くんだなあ、とうらぶれた気持ちだったように思う。
そんな時、棚に差さっていた本の背に、「手製本を楽しむ」という文字を見つけた。
何か自分の中でうずくものを感じて、手に取り、めくって読み進めていった。
て、せ、い、ほ、ん?

その本の中には、自分の好きな本を好みの装丁に仕立てたり、壊れた本を修理したり、様々な記憶をまとめたり、、手製本を通して広がる魅力的な世界が開けていた。

これをやってみよう、と思った。
後から考えればそれにつながる理由は色々と思いつくが、その場で決めたのは直感だったように思う。
国際協力が本能的に自分に無理とわかったように、この手仕事はきっと私に向いている、と本能的に分かったのかもしれない。

その日のうちに、留学センターへ断りの電話を入れ、両親にも気持ちを伝えた。もう迷うことはなかった。
両親は、もちろん電話で話を聞いただけでは納得せず、後日話し合いの場を設けることにはなったが。
私の心は決まっていた。

この一年は、大学を休学して、手製本と出版について徹底的に学ぼう。
アルバイトをしながら生活費を工面してでも、やっていける。
やっと、自分の「まんなか」にあるやりたかったことに一歩近づいた気がして、周囲の動揺をよそに、私はとても晴れ晴れした気持ちだった。

大学への休学手続き、教授や友人たちへの報告、そして4月から学ぶ場探しに私は奔走した。
神保町で出会った本の著者、栃折久美子さんは、日本にヨーロッパの製本工芸を紹介した第一人者。その栃折さんの作った教室が池袋にまだあった。

まずはその教室の展覧会を観に行き、自分の気持ちに間違いがないことを確かめた。そしてすぐにいくつかの工房にアポイントを取り、見学をして、最終的に2つの工房を掛け持ちで通うことに決めた。

ずっとものを作ることに興味があったけれど、それに没頭することをずっと避けてきた。
高校の時、仲の良い友達が美大に行くことに決めた、といって晴れやかに話していて、とても羨ましかった。私も本当はそっちなの、と心の奥で言っていた。高校までずっと優等生で通してきたからか、それまでと違った選択をするというのがとても怖かったのだと思う。

けれどこの時ばかりは、優等生的な道は選ばなかった。
本当に、この日留学を辞めていなかったら、よくも悪くも今の私はない。

子どもの頃から、唯一と言っていいほど丸ごと自分を忘れてのめり込める存在が、本だった。本の中に入って溶けてしまいたい、と子どもながら思っていた。
そして憧れのしっぽをつかんだものづくりの世界。
この二つが手製本を通して、私の中で出会った。

それまでの決められない自分にえいやっ、と背を向けて新しい世界に飛び出した、春だった。


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