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【ブックレビュー】超越と実存:アウトサイダーが語る仏教
今回は南直哉さんの『超越と実存―「無常」をめぐる仏教史』の感想です。
曹洞宗僧侶であり著作も多く、つい先日この作品が第17回小林秀雄賞を受賞されたとのことでした。
内容はちょっと難しめかもしれません。
いわゆる「お勉強」のための本ではないので、読むためは事前に仏教史を知っておく必要があります。
目次
あらすじ
学問でない仏教史
裏テーマ:言語
親鸞と道元
超越と実存の歴史
アウトサイダー 南直哉師について
まとめ
あらすじ
この世界の思想には「仏教」と「仏教以外」しかないという挑発ともとれる内容からスタートします。
「実存」を「超越」との関係性で捉える仏教以外と、「超越」を抜きにした「無常」つまり「実存」そのもので捉えようとする仏教という区分けです。
しかし、ブッダが無明を発見してから、現代に伝わるまで「実存」に徹しきった仏教は意外にも少ない。
部派仏教・インド大乗仏教・中国・日本と伝わるなかで、その多くの思想にも「超越」の影が見て取れる、といいます
その中で、「実存」に目を向け続けたのは何だったのか。
仏教史を「実存」と「超越」という軸で大胆に考察したのが本書です。
学問でない仏教史
「仏教史」というと学者が資料を丁寧に読み込み、整合性を取りながら作り上げていくもの、と思われがちですが、この本は違います。
仏教内の「超越」を指摘、批判したものは、以前にも「批判仏教」と呼ばれて仏教業界の中で行われていました。
本書もよく似ている思索を行っていますが、それらは大きく違います。
「無常」という言葉に学校の教科書で出会った著者が、その後の自らの「実存」をもとに仏教史を見ていく、というものです。
自身が実践してきた仏教というものをベースにしているため、内容は「正しさ」を求めるものではありません。
あくまでご本人の「私とは何か。死とは何か。仏教とは何か。」という問いからの軌跡がつづられています。
裏テーマ:言語
この本の裏テーマとして掲げられるのが、「言語」です。
私は、仏教思想の革新にある問題は言語、より正確に言えば言語において意味するものと意味されるものの間にあると考えている。
事実上、本稿で議論の軸をなすのは、表立って言及するかどうかは別として、言語なのである
認識、判断の元となるものは「言語」である、ということはこの本でも評価されている竜樹の思想と相性がよく、著者が仏教の核としているテーマです。
もっといえば「仏教」の実践はそれの解体にこそある、とされてます。
ブッダは菩提樹の下での禅定においてその解体を成し遂げ、日本では道元が「身心脱落」においてそれを表している、といいます。
親鸞と道元
また本書では、ブッダからの「無常の系譜」ともいうべきものは、日本では親鸞と道元において受け継がれているとしています。
いかなる超越性ともつながらない念仏をただ唱える親鸞と、成仏を坐禅ひいては行為の中に解体した道元を「観無常」の仏教として捉えています。
そして、仏教のユニークさは、形而上学でなく、「無常」の形而「外」学とでも言うべきものであって、
「超越」的な形而上学を取り入れることはそれを損なうとしています。
超越と実存の歴史
本書を読んで、もし本当に仏教が「実存」のみの宗教であると思うのならば、「超越」のしぶとさ、には驚かられるでしょう。
ブッダが教えを説いてから、「超越」は幾度となく介入してきます。
これを見ると、本当に厳密に「超越」を取り除いてしまったら仏教は何も残らないのではないか、という気さえします。
むしろ考えるべきは、歴代の祖師が「実存」に「超越」を取り入れようとした理由、
もしくは「超越」を語ろうとした理由について考えてもいいかもしれません。
この本を読んでみて、仏教は「超越」抜きの「実存」のみである、という主張に完全に同意はできなくても、
「超越」と「実存」の軸を揺れ動くのが、仏教の歴史であるということは言えるのではないでしょうか。
アウトサイダー 南直哉師について
最後にすこし著者の南直哉さんについて触れておきたいと思います。
実は私はお坊さんになる前、まだ大学生のころに東京の赤坂にある豊川稲荷で行われていた、南さんの「仏教・私流」という講義に参加したことがあります。
(ちなみにこの本はその「仏教・私流」をまとめたものらしいです。)
たしか弘法大師空海の言語観がテーマだった気がしますが、一番印象に残ったのは南さんの話し方や雰囲気でした。
話す内容は硬派な仏教なのに、聞き終わったら落語を聞いたかのような気持ちになります。
(ご本人の話し方が落語家のような感じだからかもしれませんが笑)
そして永平寺に安居しているときも、南直哉さんの全山講義があり、参加しました。
そこでも変わらず軽快な話しぶりで、「仏教に興味がない僧侶」の人も聞き入っていて、
講義の後部屋に戻ってからみんなで内容について話し合ったことを覚えています。
昨年には永平寺内で希望者を募り、月に一回正法眼蔵を読む「サークル」を開こうとされていました。
「サークル」での南直哉さんはいい意味で「老師」とは思えない雰囲気をもっていて、
ご本人がいうように曹洞宗内では「アウトサイダー」なのだな、という印象を受けました。
これからも活躍してほしい数少ない僧侶のお一人です。
まとめ
自らの体験から仏教を語った「南流仏教史」
仏教とは何か、という問いに興味がある方はぜひ。参考になります。
スキされると鼻いきあらくして記事書きます。