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【エッセイ風】文庫本・愛!

 文庫本を綺麗なままで読みとおすことができない。鞄の中に、背表紙を下にして持ち運ぶのだけれど、ふとした折に、たとえば切符を探して無造作に放り込む、自分でも驚いてしまうような不注意の一瞬のため、哀れな私の連れはのちに無残な姿で発見されることになる。ページの耳を痛々しく折って、または背骨を非常な形に湾曲させ、カバーまでだらしなくはだけていることもある。そんな事態を避けるためにさまざまな策を試みてきた。かたい帆布のカバーの、ページを横切るフラップがついたものを被せてみたり、通学バッグの内側ポケットに定位置を作ってみたり。しかし私の一瞬の油断癖がなおらないことにはどうしても同じことが起きた。申し訳ないと思いながらも、本のほうでも窮屈そうに、大判の教科書や雑誌の類の下に潜り込んでいってしまうので彼をぞんざいに扱うやましさも次第に和らいでくる。開き直ってしまえば文庫本というのは、手軽に持ち運べるのが売りなのだから少しばかり粗略にあしらっても罰は当たらないのではないか。以前、出版社の広告文句に「ポケットに一冊を」というのがあった。ポケットに押しめられることを想定されているのなら、鞄の中での少々の窮屈には耐えてもらわなければ。そんな尊大な考えまで廻らせて、今日も彼を伴って通学する。
 文庫本だって書店に並んだ当時は輝かしい新しさをもっている。刷りたての表紙は鮮やかに、中紙は切断する刃の思い切りの良さをうかがわせる潔い小口を誇る。背表紙には作家ごとに、あるいは表題ごとに違った配色が割り当てられていて、その色が書店の幾列もの書棚を塗り分ける光景には心が弾んだ。その一冊を抜き出して手に取ると、形状は見事な長方形を保って緊張している。素朴ながらも巧みな木工品、ちょうど美しく組まれた箱根細工の小箱を扱っている気持ちになるのはその時だ。裏面に印字された小説のあらましや作者の概歴をしらべ、試しにページをめくり、気に入った一品を探り当てると鄭重ていちょうさを保ったまま会計に持ちこむ。
 彼が私のものになった後もしばらくはそんな特別な扱いが続く。表紙に指の脂をつけないようにするし、栞をはさむ時も跡が紙に食い込まないよう、紐の結び目が本の頭から出るように気を配る。それでも、そう、ふとした時、降りるべき駅に着きかかってあわてて荷物をまとめる時などに、ふとした不注意から彼はぺしゃんこに変わり果ててしまうのだ。何ともいえない彼の姿を悲しんで、刻まれてしまった皺を伸ばして撫でつけ、甲斐なく世話を焼いていると、失望の後に情けない笑いがこみあげてくる。しゃちほこばった正装を脱いで決まり悪そうにくつろいだ文庫本の姿がそこにある。だって、どんなに贔屓目ひいきめにみても、所詮は文庫本だもの。えもいわれぬ親しみと、愛着が芽生えるのはその時だ。文庫本が私に心を許してくれたと感じ、うれしくなる。いや、そんな状況を招いてしまったのは私なのだけれど。
 その日を境に文庫本の扱いも妥協を孕んだものになり、その結果、傷や折れ目も増えていく。それと同時にその一冊は私の掌に確かに馴染んでゆき、臆することなくページを自在に繰っては気に入った一節を読み返したりする。祖父の蔵書棚から借りてきた古い一冊を開いて思い当たったのだが 文庫本に一種の、愛着から来る気安さを感じるのは私だけではないらしい。私が手に取った「仮面の告白」の見返しには我が家の壮麗な蔵書印の下に、よく見ると別の捺印がある。四角い枠に折りたたまれたような篆書てんしょに目を凝らすと、秋田蔵書と読み取れた。古本屋で手に入れたのだろう、裏表紙をめくった最後の一枚の右上に「50」という値段と「ラインあり」、の鉛筆書きが見いだされた。私は秋のそぞろ歩きのさなかに、ふと立ち寄った神田の古書店で袂から小銭入れを取り出し、三島由紀夫の文庫本を買う祖父を思い描いてみる。中を捲って読み進むうちに私は、行間の書き込みに二種類の筆跡があることに気付いた。ひとつは丸文字の鉛筆書き、もうひとつは之繞しんにょうのはらいに癖のある青い万年筆の文字。難解な言葉に線を引き、二つの筆跡がかわるがわる登場して意味を書き添える。「韜晦(とうかい)」という印字の脇に「才能を隠す」、という具合に。おかげで読み進む私はめったに字引に頼らなくてよい。それもこの一冊が文庫本だからだろう。上質な、滑りのよい紙を糸綴じした文学全集の一巻に蔵書印を捺すのは少しためらわれるはずだし、まして鉛筆でそのページに書きこむことなどできない。文学全集が品の良い老教師だとすると、文庫本は軽い遊びも気負わない少年だ。同じ物語を語ってくれるとしても、こちらの気持ちの持ち具合が全然違う。私は文庫本の飾らない気安さが好きだ。
 新潮文庫の三島は鮮やかな朱、太宰治は輝く漆黒の背表紙だ。私の書棚に揃えたささやかなコレクションの中の朱は丹塗りの鳥居を思わせるまっすぐな鮮やかさを失っていつのまにか日に灼けて黄色くくすみ、機関車のような誇り高い光沢をいろどった黒は角が白く擦れてまるで錆ついてしまったようだ。私は時折、繊細な工芸品に自分の刻印をつけてしまったようでいささか申し訳なくなる。ページには開き跡がつき、ぱらぱらとめくると印象的な場面のところでひとりでに止まるようになっている。たしかに文庫本は私の形跡を留めてしまっているのだ。本を蒐集しゅうしゅうする人が少なくなり、一冊の値段も安くなった今のご時世ではとくに、読み終えたからといって人に譲ったり中古本屋に売りに行くのもはばかられるような風体だ。それでも良いのかもしれない。大切にした文庫本は買った当時から無二の一冊となり読み手に寄り添ってくれるのだから。

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