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【超短編】砂子(いさご)のさまよい

 海のある国に生まれてよかった。座席自由の社員食堂でも、集合写真の位置取りでも決まって壁際や後列の端をえらぶ、片隅とは縁の切れないわたしが、いよいよ現世うつしよの重苦しいこと、ままならないことに追い立てられてたどりついたのは、外海に張り出した半島だった。海辺の商いに栄える町も、いよいよ陸地の細くなる岬のほうになれば人の気配も少ない。血流をあきらめられた盲腸みたいに、せいにぶら下がっている死のにおいがそこらには漂っていた。ガードレールの錆びついた断面の向こうには南端の崖が海まで急峻な落下を遂げていた。
 たどりついた者へのささやかな報酬のように、岬には簡素な宿が一軒だけ営業している。五月のある日、わたしは気の抜けた愛想笑いを引っ提げてそこへチェックインした。
 606号室といいつつ平屋の海側に面した一部屋だった。紫陽花の季節に開業したその日付を冠したんだそうな。障子をあけはなてば赤茶けた崖とその果てにのっぺりと敷かれた海が見わたせた。温泉は湧かないのに隣室の娯楽部屋には卓球台が置かれていた。
「好きに使っていいのよ」
 若い女将さんは微笑むが、わたしは誰が見ようとも女の一人旅。その日は他に宿泊客もいなかった。
 荷ほどきをして岬へ出てみた。歩いて二分ほどの位置がすでに切っ先だった。鐘の吊り下がった小さなお立ち台がある。薬玉のような紐をひくとチリンと他人行儀な音がした。チャペルは写真を撮るべきところ、恋人同士の墓石になるはずの場所。わたしは供するべきものをもっていなかった。胃の少し上が、とっさに歪んだ。ぐぐぐぐ、と下顎を食いしばってうなった。
 わたしは、誤魔化しようがないくらいに、ひとりだった。それだのに海風はチャペルの鐘を引けと煽る。卓球台は桜色の亡霊とピンポンし合えとそそのかす。嚥下しきれない憎しみと、怒りと、ままならなさと、わたしを切っ先に追い詰めたすべてが、ぐぐぐぐとくぐもった擬音語になる。
 気づけば声を上げて星を投げていた。ひかるものが手のひらから発し、びゅんと風を切って崖の先から海へ飛び出した。荒ぶった流星は漫画の効果音を曳いて水底へ引き摺り込まれた。それからは茫然。

 夜風が障子の隙間を癒すころには、わたしは冷酒と梅の実のゼリーにほだされて、赤目のなき狐。女将がきれいな瞳でのぞきこむ。
「今日はほんとに、つかれたでしょう。」
 うべなう用意もできないほどに、見境なく霧に飲まれて、ふうんわりと和らぐ口角。そこへ、みみざわりな掘削音が響いた。
 
 海の方から、崖の方から、それは金属で心底を掻く、眉をひそめたくなる音色だった。
「ああ、今夜も始まった。」
 女将は、遠浅で観光花火がはじまった、というほどに、驚く素振りもなく外を振り向く。
「小豆洗いよ。あなたも投げたのね、真珠のピアスを」
 最果てを祝福したがるのは、惑星の隅々までも支配したがる傲慢の、一つの形態かもしれなかった。その岬には、心の断片をまき散らさずにはいられない人たちが、吸い寄せられるらしい。木綿真珠コットンパールのブレスレット、安い色石の指輪、彼にもらった銀のロケット。苦い声を吐きながら、海に放たれたきらめきの数々は、その後どうなるとお思いですか。
「見捨てられた宝石たちはしばらく海を漂って、切なる情念の粘りをぎ落としてゆく。穿孔はまろやかに、ぎらつく自意識のジルコニアも、するどい爪に鎮座した天然石も、すべて柔らかな波にほぐされて素直なまろやかさを取り戻し、最後にはぼうっと温もる、蛍石の燐光になって、岸辺へと還ってくる。その長旅の禊をいたわって、小豆洗いは夜な夜な、竹の笊でその温かく薫る残滓を研ぐんだよ。しょきしょき、しょきしょき、運命を洗い流して、ふたたび歩くための道を、岩を動かす途方もない念力で、清めるのだよ。」

 洗っているのは小豆じゃないと文句をつけようなら、
「靴を入れても下駄箱、仕舞っても筆箱」と笑って首を振り、
「あのひとたち、なんでも洗うわけじゃないのよ。たいして高価じゃない装身具が、愛や恋のたどたどしい終止符と知ってこそ、重い腰を上げて小豆洗いに従事するの」
 思えば規則的に繰り返される音色は今や、川底の小石をくすぐるような優しさ。
 ほら、と息を吐いて女将さんが障子を開け放つ。濃紺をした夜のもと、わたしは蛍石の光が、無数の羽虫のいのちのように、拍動しながら飛び発ってゆくのを見た。いくつも灯った天然の燈火ランタンが空高く舞い上がり、嘘のように宇宙へ融け込んでゆくのを。
 
 しばらくしてまともに向き合った女将さんは、懐かしそうにわたしを見る。無からなにも立ち現れることがないように、鮮血がまったくの無に還ることもないと綺麗な目は諭していた。蛍石の光がまなうらにぼんやりと灯っている。女将さんはやっぱり微笑んだ。
「こんな無害な妖怪はないわ」


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