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【短編】火の鳥の街で

 滑走路の街には夜になると三連の赤い火球が轟音で堕ちてくる。田んぼのころを知っている祖母は耳を塞いで首を振った。
「あんなもの、じきに草原を燃やし尽してしまうよ」
  わたしは生まれてこのかた疑わずに来た光景だった。祖母には忌まわしいその火球が昼間の空をわが者顔で切り裂く銀翼だと気づいたのは学校に上がってからだ。夕方ごろは荒れ野の蛙が一斉に鳴いた。使い古しの自転車をこいで日没と争って帰った。
「ただいまいただきます」
 油あげのおみおつけ、さつまいもの天ぷら、鰈の煮つけ。祖母はわたしを甘やかした。父が怒鳴るのを不憫に思っていたのかもしれない。風呂上がりの髪を梳いてくれながら、
「あんたの髪は針金みたいにまっすぐだね」
 と鏡越しの口元に渋い皺が寄る。誰に似たかは言わない決まり事だった。

 年度初めに市街から赴任してきた若い女の担任は、矢鱈に訳知り顔でうなずくので好きになれない。薄い色のスーツと明るすぎる声が辛気臭い町で悪目立ちしていた。十年後の未来地図をつくるという宿題をやらずに行った。金切り声を立てられるかと思ったが、先生は膝立ちにわたしを覗き込んで言った。
「綾ちゃんは何になりたいの? 想像して描いてごらん。努力すれば何にでもなれるのよ」
 むっつりと首をかしげて答えないわたしに、つづけて、
「先生も、たくさん勉強して小学校の免許を取ったの。綾ちゃんは?」
 わたしは口角をぎこちなく上げて笑ってあげた。その夜、炬燵に画用紙を広げて、
「そんなお遊びなにになるんだよ」
 不機嫌にビールを呷る父の横でわたしが描いたのは、空から太陽が墜落する光景だった。祖母に言わせれば火の球の降る夜なんて思いもしなかったのだから、十年後の大地になにが降り注いでも、驚きはしないだろうと嫌に達観していた。
 

 二つ隣に住む美羽のローファーをもらい受けて高校に上がった。まじめ腐った眼鏡教師の英文法を聞き流しながら、十年なんてあっという間に経った。あいかわらずの蛙声の中を、夕方、自転車を押して帰る。
「綾、調書どうすんの」
「どうすんのって」
「美羽のこと聞いた?」
「ああ…」
 進学希望の調書が来ていた。授業はつまらないのに生半可に成績はよく、だからなのか、出来の悪い生徒よりも教師に毛嫌いされている。ローファーの前の持ち主は、市内で悪い友達とつるんで酷い生活を送っているとの噂だった。
「先生とかになればいいじゃん。別の県に就職したら、もう帰って来なくてもいいんだよ」
「絶対嫌だ」
 もはや時報のような轟音が三連の燈火を引き摺って降下してくる。
「上を向くなって、頭押さえつけられてるみたいな生活だよね」
 百子モモコが言った。夕闇のなかに機体はまだ紛れず、着陸に向けて斜めに姿勢を傾けたのが見えた。
「ここから飛び発つ人もたくさんいるのに。…ヒッチ・ヨアワゴン・トゥ・ア・スター。ってね~」
 偉人の引用ばかりする眼鏡教師がいつか黒板に大書きした名言を、いきなり百子が口にしたからわたしは笑い転げた。
「なになに、どうしたのそれ」
「星に馬車を繋げ。そうすれば、神々が仕事をやりおおせるだろうー」
「覚えてるって。英語のコジマが大好きな格言ね」
「意味わからなくない? 星に馬車を繋ぐって。でもさ、実感として尾翼にならわかるよ。ママチャリを尾翼にくくりつけて、離陸したら」
「レッカーかよ」
「そうすれば、神々が別の世界に連れて行ってくれるなんて。考えたことない?」
「…ない」
「やっぱりないか」
「太陽が落ちて、この村が滅亡すればいいのにと思ったことはある」
「それは世紀末」
 十一月の日はあっという間に落ちた。畦道をむやみに疾走する自転車の軋んだブレーキ音は蛙に交ざって独特の叫び声を上げるのだった。

 書き殴った進学希望調書を祖母に見せることはできなかった。かわりに、父の帰りを待って炬燵に投げ出した。黙ったまま、ハイボールの缶を開けて
不機嫌そうな父は、酔いが回ったころに初めて口を開いた。
「俺は巨船の設計士になりたかったんだ…コンテナを山ほど積むタンカーを…いや、船じゃなくてもいい、橋でも道路でも、大きな仕事をして、これは俺が作ったんだって、胸を張りたかった」
 奨学金の申し込みにもサインをもらい、わたしは、なぜか途方に暮れた。昔、寒さの忍び寄る夜は祖母に添い寝をしてもらった。煎餅布団に丸まって小さく眠っている祖母を襖の隙から覗いて、何も言えず、声も掛けずにそっと閉めた。

 馬車を星につなぐ、メルヘンチックな絵面には遠く及ばず、わたしはペダルの重みが増しつづける自転車を、風にむかって漕ぎながら、半ば気流におぼれるように、もがきつつ、あがきつつ。先を導く火の鳥は、後ろを振り返る慈悲も一切見せずに、まっしぐらに乱流を突っ切ってゆく…。

 その木曜日、職員室で電話を受けたのは三時間目の終わり際だった。
「盛山先生、至急だって」
 教頭が取り次いだ電話口で、父は妙に落ち着いた声をしていた。
「わかった、すぐ帰る」
 就職してから、いや大学2年目あたりから実家には寄り付かなくなっていた。明朝帰れば8年ぶりになる。電話を切り、忌引き届をもらいに行った。
「先生は明日とあさって、お休みすることになりました。清水先生の言うことをよく聞いてすごしてください。」
「えーなんで?」
「おれ、もり山先生のほうがいい~」
「うちはけっこう清水せんせいすきだけど。」
 二年生の反応は様々だ。素直な子たちだと思う。思ったことを口にせずにはいられないのだ。
「はいはい、いいから四時間目の支度して。」
 追い立てるように児童たちを図工室に送り込み、教室を後にした。

 小学校の教師はどう頑張っても作業が多い。四教科の教材づくり、体育のライン引き、発表会の準備。都会の八歳児は思ったよりヤワで、思わぬトラブルが授業や行事の行く手をはばむのが常だった。わたしは故郷へ戻る機内でも、次の保護者会の名簿を確認したり、授業の振り替え日程を考えたりした。
 目的地へ近づいてきたことを機長のアナウンスが告げる。着の身着のまま出発して来たが、さすがに顔を直してこなければと、化粧室に立った。

 黒い表面、流すと奈落の底へ引き込まれるような吸引をする便座はやはり居心地が悪い。手を洗って、鏡に向き合った。気流にバランスを崩したのか、足元がふわりと浮く感触がした。化粧ポーチを開く手が止まった。

 どんな顔をして、帰ればいい?

 知っているようで知らない自分が怪訝そうににらみ返している。
「綾ちゃんは? 綾ちゃんはどうなりたい?」
 いつかの大嫌いだった若い担任の顔と声で、わたしが問いかけている。首を振りたかったが体が硬直して動かなかった。ファンデーションで整えた肌がゆで卵の殻みたいに粉々に罅割ひびわれて、その中から昔の自分の顔が出てくればいいのにと、願いながら鏡を見つめ、当たり前だけれど何も起こらなかった。
 ぐちゃぐちゃな気持ちが溢れてきていた。
 わたしがふるさとに降り立つ時も祖母は耳を塞いで顔をしかめるだろう、と思って、祖母はもういないのだと思い出した。

 血の気が引いて目の前が真っ暗になった。ようやく手摺りにすがりついて個室のドアを開けたところで、へたりこむように座り込んでしまった。
「わたしは、わたしは…」
 なにも変わりたくなかった、でもすべてを後ろに残して燃やしてしまいたかった。閉鎖的な村もすぐに回る噂も大嫌いだった。じゃあ、針金の髪にパーマを当て、猫撫で声で児童に語り掛けるこの女は誰だ。
 その時、機械音と共に緑のシートベルトランプが灯り、火の鳥が降下しはじめることを告げた。     
    
(おわり)

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