銀河の果てに連れ去って!考察

フレデリック「銀河の果てに連れ去って!」(以下、「銀河!」)の話。

異常なまでの熱狂的なファン人気を誇る(と、わたしは思っている)この曲のとある考察について、一銀河!のオタクとして書こうと思う。

歌詞はこちら

あらすじ

わたしの主観を交えた、ざっくりとしたあらすじは以下の通り。

「僕」は「片道だけの特急券」を持って、駅にいる。それは「僕」にとってとても魅力的なもので、「煌びやかなインビテーション」に見える。片道だけ、というのがどういうことを意味するのか、それも理解している。「かったりーとこ」を抜け出したい「僕」は、自分と同じような願いを持っているように見えた「君」に、「僕と一緒に踊りませんか?」と声をかける。
二人は「あっちゅうま」に銀河の果てに向かう。それはもう、「誰も追いつけないスピード」で。「君」と「銀河の果て」に向かう道中で、「僕」の心境もまた、目まぐるしく変わる。

と、まあ、こんなところだろうか。

ここからは、
・「僕」と「君」のキャラクター
・「僕」の気持ちの変化
この二つの視点から考察していく。

「僕」と「君」のキャラクター

この曲の登場人物は二人。語り手である「僕」と、銀河の果てまでの旅路を共にする「君」である。

まず、「僕」のキャラクターから。

始めこそ「僕と一緒に踊りませんか?」と紳士的な誘いをしているが、その直前の言葉は「かったりーとこ」。さらにサビでは「あいつらには黙って置いていこうぜ」と強い口調で「君」に語りかける。「かったりー」「あっちゅうま」等、砕けた口調も多い。このことから、「僕」にはざっくばらんとした、強引なところがあると言える。そして他人を巻き込むことに躊躇がない。非常にパワフルな人物だ。その証拠として、「生涯添い遂げて」という歌詞が出てくるまでの所要時間が29秒しかない。とんでもないスピード感。

「僕」について、最も注目すべきは、厭世的な考えを持っている、というところだ。「かったりーとこ抜け出して」「こんな世界だって人生だって変えれるような気がした」という歌詞から、おそらく「僕」は現状に満足していない。だから「銀河の果て」に行くことを望んでいる。環境を変えることで現状を変えようとしている。

歌詞からは少し逸れるが、「優游涵泳回遊録」リリース時のグッズのタオルに"Take me away to the end of the galaxy"(訳:僕を銀河の果てに連れ去って)という英文がデザインされていた。これは、収録曲のロゴをあしらったものであり、デザインは銀河!の作者である我らが三原康司さんである。つまり、作者の意図するところは「連れ去られたいのは僕」なのである。

曲のタイトルだけ見ると「君を銀河の果てに連れ去ってやるよ!」と思いがち(実際この英文が世に出た時界隈がざわついた記憶がある)だし、先述した「僕」の豪快さが描かれた歌詞からも、そう考える方が自然である。

ただ、もう一度言うが、「連れ去られたいのは僕」なのである。

ここまでの内容をまとめるとこうなる。自分の現状に満足していない「僕」は「銀河の果て」で「こんな世界(人生)」を変えたい。「銀河の果て」にさえ行けば、「こんな世界」も変えられると思っている。そして、その手段として「君」に連れ去られることを望んでいる。

強引な印象があった「僕」だが、こうして考えると他力本願なところもある。「こんな世界(人生)」を変えたい、そう思う一方で、「君」に連れ去られたい、と大事なところを人任せにしてしまう。自分の人生を、他人に任せているようにも見える。冒頭の「僕と一緒に踊りませんか?」という歌詞も、紳士的なだけではなく、自分一人では「銀河の果て」に向かう覚悟ができない、臆病さの表れに思えてくる。

そんな、強引さと臆病さを抱えた「僕」と対照的なのが「君」である。

「君」は「僕」と同じ世界にいて、「僕」と同じく、「かったりーとこ」を抜け出そうとしている。しかし、「僕」ほどの強引さや勢いはないように思う。「僕と一緒に踊りませんか」「あいつらには黙って置いていこうぜ」などの「僕」からの呼びかけに返答している様子はない。

わたしが「君」のキャラクターをもっとも表していると感じた歌詞は、「君も見たことない宇宙へ行こうぜ」という、二回目のサビの一節。これは「僕」からの呼びかけであるが、「君も」という部分に注目してほしい。この「君も」には「(あらゆる景色を見てきた)君も見たことない」という補足ができる。

このことから、「君」はこれまでにいろいろな景色を見てきて、どんな景色のことも、例えば「銀河の果て」のことも、よく見ずに分かった気になっている人物、だと推測した。踏み出す前に想像しただけで、何かを諦めてしまうような。

「君」は「僕」がこの世界を「かったりーとこ」だと感じるのは「僕」自身のせいであり、決して環境のせいではなく、「僕」が「銀河の果て」に連れ去られたところで、「僕」自身が変わらないと意味がない。だから、「銀河の果てに連れ去って」とどれだけ頼まれても、最後まで「僕」を連れ去りはせず、最終的には「僕」に「君を銀河の果てに連れ去って」と言わせるのだ。

まとめるとこうだ。「僕」と「君」は、現状を「かったりーとこ」だと感じている。だから抜け出して、変えたいと思っている。この点では共通した意識を持っている。しかし、「僕」は、「銀河の果て」に行く=周りを変えることを求め、「君」は、「銀河の果て」を知ったつもりになり(もしかしたら訪れて実際に見たこともあるのかもしれないが)、「銀河の果て」に行くこと自体が目的なのではなく、あくまでも自分自身が変わることを求めている。同じ目標を持ちながら、その手段が根本的に違う、もどかしいすれ違いがある。

「僕」の気持ちの変化

「僕」の視点でこの曲のストーリーは展開していく。曲が進むにつれて、「僕」の気持ちに起こった変化について書いていく。大まかな流れとしては、曲が進むにつれて「僕」の気持ちの揺らぎが小さくなり、より強い決意が感じられるようになっているのだ。そう思う描写が3箇所ある。

一つ目は
1サビ「たった3分間の愛唱歌」
2サビ「ずっと何光年 未来想像」
3サビ「ほんと何千回も何万回」
曲が進むごとに「3分間」→「何光年」→「何千回も何万回」、と、どんどん数字も単位も大きくなっていく。これは「僕」から「君」への気持ちが時間の経過とともに強くなっていった、という描写だと捉えられる。

二つ目は
1.2サビ「今夜銀河の果てに連れ去って」
3サビ「君を銀河の果てに連れ去って」
1.2回目のサビでは銀河の果てに連れ去る対象を示す目的語がなく、3回目のサビでようやく「君を」連れ去ることが仄めかされる。先程、「連れ去られたいのは僕」だと書いた。初めは他力本願で、「君」に連れ去られたいと思っていた「僕」が、長い旅路で「君」の考えに共鳴し「君を銀河の果てに連れ去って」と言った。他力本願だった「僕」が、初めて自分自身を変えようと決意したのが、この歌詞なのではないだろうか。

三つ目は
1サビ「僕は誰にだって何にだってなれるような気がした」
2サビ「こんな世界だって人生だって変えれるような気がした」
3サビ「僕は誰にだって何にだってなれるから」
1.2サビでは「なれるような気がした」、とあくまでもふんわりとした「僕」の気持ちが、3サビでは「なれるから」とはっきり断言される。
先述のとおり、「僕」は、まず周囲の環境を変え(そのために銀河の果てに向かっている)、それに伴って自ずと自分も変わることができると考えている。
それとは反対に、「君」は、周囲の環境をいくら変えようが最終的には自分が変わらないといけないと悟っている。そんな「君」と「銀河の果て」までの旅路をともにするうちに、「僕」は「君」の考え方に共鳴するようになった。その結果、「僕は誰にだって何にだってなれるから」と「君」に力強く宣言したのだと思う。

まとめに代えて

結局のところ、「銀河の果て」とはなんなのか。「かったりーとこ」「こんな世界」を抜け出した先にある、ある種の理想郷のようなものだと、わたしは思う。
「銀河の果て」という理想郷に行けば、何もかもが煌びやかに映り、「かったりーとこ」から抜け出せるのだと希望に満ち溢れる「僕」。そしてどんなに理想的な「銀河の果て」に行ったとしても、自分が変わらないとなにも変わらない、だから自分を変えたいと願う「君」。同じ場所を目指しながら、全く同じでは無い。周りを変えたいのか、自分を変えたいのか、対を成すような「僕」と「君」という人物は、とてもフレデリックの楽曲らしい二人だ。

生きていく中で、何かしらで現状を打破したい時に、自分が変わるのか、はたまた周りを変えるのかどちらがベターか?という壁にぶつかったことはないだろうか。わたしは自分を変えることが、過去の自分を否定する自傷行為のように思えて、つい今上手くいかない、息苦しい現状を周りのせいにしてしまいがちだ。かと言って、周りを変えるほどのバイタリティも持ち合わせていない。そんな悶々とした気持ちが常に頭の中を渦巻いている。
そんな時に銀河!を聴くと、「僕」と「君」がわたしの悩みなどすっ飛ばして、銀河の果てに連れ去ってくれたような気持ちになる。悩みに寄り添ってはくれないし、背中を押してもくれない。それでもこの曲は、いつだってわたしを連れ去ってくれる。だから、大好きなのだと思う。

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