ふしだらフラミンゴ考察

フレデリック「ふしだらフラミンゴ」の考察。

去年のホムパ以来、ずーっっっと解釈をぐりぐりとこねくり回してきたのだが、ようやく、これだ!と思うものに辿り着いたので書いていく。苦節1年のオタクの戯言にお付き合いください。


ふしだらフラミンゴって、何?

まず、ふしだらフラミンゴってなんぞや?というところから。ふしだらを辞書で引くと、以下のように出てくる。

1 けじめがなく、だらしないこと。また、そのさま。「生活が—になる」

2 品行が悪いこと。身持ちが悪いこと。また、そのさま。「—な関係になる」

https://dictionary.goo.ne.jp/word/ふしだら/

つまり、ふしだらフラミンゴとは、けじめがなく、だらしないフラミンゴ、ということになる。

フラミンゴは群れをなして生活する鳥。動物園のフラミンゴを思い浮かべてもらえるといい。

しかし、この曲中で描かれるフラミンゴは群れではなく、一羽でいると考えられる。けじめがない、だらしない、故に群れに馴染めずに一羽でいる、ふしだらフラミンゴ。そんなフラミンゴと「僕」が出会い、「フラミンゴだ こっち向いてくれよ」と呼びかけて曲が始まる。

「僕」の「フラミンゴ」への執着

曲を聴いていくなかで、「僕」が「フラミンゴ」にあまりに執着していることが気になった。結局、最後までフラミンゴはこっちを向くことがない。こちらに興味を見せる素振りもない。それでも僕は、他のどの鳥でもなく、フラミンゴに呼びかけ続ける。そこまでしてフラミンゴに執着する理由は何なのか?

結論から言うと、「僕はフラミンゴに過去の自分を重ねており、フラミンゴを攻撃することで過去の自分への嫉妬と決別したいと考えている」ということに落ち着いた。

まずは、過去の自分とフラミンゴを重ねている、というところから説明する。

揺れない 消えない 死なない過去は
どこにいっても嫉妬しちゃうな

「過去」は僕自身の過去のことであり、その過去に僕は、「どこにいっても嫉妬しちゃう」と感じている。

嫉妬には純粋な憧れだけではなく、妬みや怒りも含まれる。僕が今嫉妬している過去は、揺れない、消えない、死なない。つまり不変のものであり、今後も変わることはない。

「嫉妬しちゃう」という表現から、本当は嫉妬なんてしたくない、嫉妬している現状が僕にとって不本意なものであることが伺える。僕は過去の僕への嫉妬から抜け出したい、そのために過去の自分の象徴ともとれるフラミンゴを攻撃しよう、と思っているのではないか。

続いて、フラミンゴを攻撃する、ということについて。

攻撃、というとなんだか物騒だが、歌詞に出てくる僕からフラミンゴへのアクションの総称として「攻撃」という言葉を選んだ。以下の3箇所が「攻撃」の内容。

ほらほら押しつぶしたげる カスタネットを準備して

僕はそれでも一回食べたい

ほらほら消したげるからね 修正ペンを準備して

実際に行動に移している訳ではないが、僕からフラミンゴに対して、押しつぶす、食べる、消す、といった行動を起こそうと、少なくとも考えている。

嫉妬を抜け出すことへの執着が、フラミンゴへの執着へと映っていったと考えられる。

雨の仕返し

サビで繰り返される、「雨の仕返し」というフレーズ。先述した「攻撃」が「仕返し」なのではないだろうか。雨の降る中、フラミンゴを攻撃することは、僕にとっては過去の自分に仕返しをするのと同義であり、僕のなかにある嫉妬と決別できる手段である。そう自分に言い聞かせる僕の姿が目に浮かんだ。

僕の一番の目的は嫉妬から逃れること。フラミンゴと出会った茜の木の下も、嫉妬から逃れるために辿り着いた場所だったのではなかろうか。どんな場所でも過去の自分に嫉妬してしまう、何ら関係の無いフラミンゴに自分を重ねてしまう。それほど、嫉妬は僕の中で根強いものだった。

まとめ

フラミンゴの持つポップでカラフルなイメージとは対照的に、僕のなかにある「嫉妬」という重くドロドロとしたものを描いている曲。ふしだらフラミンゴを聴くと、わたしは得体の知れない怖さを感じるが、その正体がわかった気がする。フラミンゴ、茜の木、雨など、外の様子を現す言葉を使いながらも、内面に向き合い、もがく一人の僕という人物を浮き彫りにする。相反するものを一曲の中で表現する、とてもフレデリックらしい手法だと思う。こういう「らしさ」が初期の頃から貫かれているの、やっぱりかっこいいなあと思う。

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