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260 ストレス解消の場がストレスになる

苛立つことも人生の一部

 最近、気に入っている言い回し。大谷選手が球場のブーイングについて「それも含めて野球の一部。楽しんでくれれば」と言ったそうなのだ。正確な引用ではないけれど。「それも含めて●●の一部」は、いいフレーズじゃないだろうか? いろいろ応用できそうだ。
 今朝、noteを眺めていたら、この記事に注目した。ケンヂさんの記事。

 詳細は読んでいただくとして。
 ネットの時代になってとくに顕著になったことのひとつとして、せっかくのいい雰囲気がいつの間にか殺伐としてしまう、といった「荒れる」話。これは、PCVANやニフティとかやっていた頃から生じているし、2ちゃんねるでもお馴染みだったし。掲示板やコミュニティではつきもののことだった。
 つまり、それも含めてネットの一部というわけだ。いや、もちろん、当事者たちは感情的になるから、そんなことを言って収まる話ではない。私はそれほどパソコン通信にのめり込んでいなかったが、友人はあるグループの管理責任をやっていて相当、大変だったらしい。ネットでの論争はそのままリアルでの仲違いになっていったから実害もあったようだ。
 風呂屋さんとかサウナでもある。
 せっかくいい雰囲気だった。いつもの人たちによるいつもの感じ。リラックスして楽しんでいたところに、なんだかマナーを知らないやつが入ってきてしまい、すべてをぶち壊す。この時、ぶち壊す側はほぼ意識していないので「なにが悪いの」となりがち。
 こっちは、ストレスを解消したくて、そういう場所を利用しているのに、それがストレスになってしまうなら本末転倒。原因に対してめちゃくちゃ腹が立ってしまうだろう。
 私の乏しい経験でも、市営プールで自由に遊泳できるコースが四レーンあって、その時間は自由。そこにバタフライをやる体格のいいオヤジがやってきて、ばさーん、ばさーん、とやったものだから利用者はたまらず苦情。しばらくして自由遊泳の時間にバタフライ禁止になった。いやあ、禁止なの。それはどうかな、と思いつつ。平穏を取り戻したプールで泳いだ。
 不穏分子ひとりを出禁にすることで守られた平和である。

寛容なら解決するのか?

 仲裁に入る人の多くは「大目に見てあげて」といったいわば「寛容さ」を期待することだろう。確かに、当事者ではない者からすれば、「もうちょっと大人になって」とか「もう少しお互いに話し合って」とか言いがち。同じことを、国際紛争でも言えるのか。実際、そういう態度を示している人たちもいる。現実としては、そもそもみんな大人だし、話し合うとしても、話し合いが成立しない。だから紛争になってしまう。
 寛容さで解決することもあることは事実だが、それをどこまで拡大して寛容さを武器にして解決を図れるのか、私にはわからない。ただ言えることは寛容さの限界を迎えた側は、より寛容な人からは「狭量な人」と思われてしまう。不利なのである。
「そんな目くじら立てるようなことですか」とか「あなたも理解してくれないと」といった言葉をもしかけられたら、いま自分は不利なのだ。いつの間にか世間を敵に回しているってことだ。ああ、ヤバイな、どんな解決策でもこっちが不利になるんだろうな、と感じている。そういう状態に追い込まれた人と交渉するのはとてもデリケートで困難だろうと想像できる。
 より寛容な側が優位に立ったとたん、わずかに寛容さが足りない側は窮地に追い込まれてしまう。だとすれば、寛容さを発揮して追い詰めない。孫子の兵法ではないけど、退路をつくってあげなければならない。そこまでやれる人は、現実にはあまりいない。人格として優れている人はけっこういるだろう。ただその件について介入できる立場に、そうした人がいたらとてもラッキーなのである。滅多にいないのだから。
 結果、運不運の話にしてしまうのは私としては忍びない。誠に残念だ。なにかいい方法がきっとある。あるとは思うけど、その件について物が言える立場でその方法を思いついてくれるのかどうか。それは運としか言いようがない。
 世の中は、ときどき、私たちに奇妙な罠を仕掛けてくるのである。それも含めて人生だ。

いまは上の方をちょこちょこと。


 

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