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2 そういえばスタバに長く行っていない

 もちろんスタバぐらいは知っている。タリーズも知っている。モスバーガーも知っている。だけど、この数年、そのどこにも行っていない。そもそもそういうチャンスが以前は毎日あったのに、いまはゼロだ。SNSに流れてくるそうした店舗のお知らせやPR記事などを眺めるだけだ。
 自分の身を、都市にあるそうした店の中に置く、いわば都市と自分の間のニュートラルゾーンに置く行為をしなくなって久しい。かつては、そこが必要だったし、そこだけしか安らぐ場所はないかのように通っていたのに。
 そんなことを、とても涼しくなった明け方にふと思う。

なぜか変化する日常

 スタバだけではない。日曜日の夕方の過ごし方がいま変化しつつある。かつては、「相葉マナブ」という番組を楽しく見ていたのだが、それもこの数週間、ほとんど見なくなる。見尽くした感がある。見尽くすことなどあるのか、という気もするけど、そう思うしかない。澤部があまり出なくなり、ハナコの岡部が出るようになった頃には、実はすでに見尽くし感があった。いや、それ以前、小峠が出るようになってからそれは始まっていたのかもしれない。番組そのものの問題というより、見る側は勝手に見尽くすのである。
 見尽くすと日常は変わる。
 その変化はとくに、自分にはなんの影響もないような気もするのに、実は自分の変化が表象的に出現しているに過ぎないのかもしれない。些細なことの積み重ねこそが、人生であろう。

インタビューの問題

 大相撲で決定戦の結果、貴景勝が、破竹の勢いだった熱海富士をあっさり破って優勝した。相撲ってそういうところがあるよね。ただ、気になったのはインタビューだった。負けた相手の熱海富士についてどう思うか、勝者に聞いたのである。どう答えればいいのか、という質問だろう。貴景勝は無難にこなしていたので、それも驚いたが、相撲では「準優勝」の表彰はない。
 テニスでは準優勝者も表彰されインタビューを受ける。それも、一種の文化なのだろう。しかし多くのスポーツでは、2位以下はそれだけのことである。勝者に敗者について述べさせるのは、なんだか醜悪な気がした。
 醜悪といえば、何気なく見たザ・ノンフィクション「あの日 僕を捨てた父は2~孤独な芸人と家族の再生~ 後編」も、ドキュメントを撮影している者が、痴呆症の父親を焚きつけるような質問を繰り返す醜悪さに驚いた。ノンフィクションと言いながら、そこにフィクションが見て取れる。おもしろくしたいのだろう。そんなことしたら、ドキュメントではない。当事者になにかをさせる、仕向けるのは卑怯な手で、メディアの力を使ったパワハラでもある。そういう醜悪さ。

誠と偽り

 大河ドラマ「どうする家康」。於愛の方(広瀬アリス)を中心にしたドラマ。彼女はここで急逝してしまう。誠と偽り。偽りでも笑っていよう。彼女の人生は偽りである。一方、誠ばかりを求める男の世界こそ偽りではないかと思える。偽って生きている人がホンモノで、誠を求める生き方がニセモノということもあるはずだ。
 その意味で、ノンフィクションと言いながら偽りを描くのも、表現としてはありかもしれない。
 では、自分の人生はホンモノかニセモノか。
 そんなこと、いままで気にしたこともなかった。自分の価値観の中に「誠」を求める気持ちがゼロではなかったのはわかる。だけど、誠を絶対的な価値基準としてこなかったのも事実だ。現にこうして日記みたいなものを書いている。タイトルは「微睡みの中で恋をして」とした。
 いったいどこに恋などあるのか。
 恐らく、いまの自分から最も遠い概念が恋だから、そうしたのだろう。
 しかし、こういうタイトルにすれば、なにかの間違いが起きて自分は恋するかもしれないではないか。ストーリーとしてはむしろ恋しなければならない。
 だが、それはニセモノである。偽りである。


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