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5 1人、100人、50万人の現実

数字が真実だとしても力にならない?

 フェイクの現実に生きることも可能な世界。現実なのに真実ではなく本当でもないとしても、人生を楽しく生きることができるかもしれない。
 そもそも、本当とか事実といった世界を支えている数字に、かつてのような力が失われている気がする。いや、そもそも、数字に力を与えていたことそのものが、虚構だったのかもしれない。それを信じなくなったというほど決定的なことは起きていないが、人生にとっては軽い存在になってしまったのではないか。
 たとえば、ニュースでときどき取り上げられる光景。店舗の防犯カメラ映像。1人が入ってきて商品をカバンに入れる。支払わずに出て行く。無人店舗なので映像だけが残されている。
 今朝は、SNSで流れていたフィラデルフィアで若者たちが100人規模で、店を次々襲っている。
 昨日とか一昨日とか、日本では50万人も集まった署名活動について、その無力感が話題になっていた。
 2万人規模で一度に死者が出た災害、400人規模で一度に死傷者が出た結婚式の火災……。数字と事実。その現実について、私の中では以前ほど重く感じられないのだ。
 これが現実だとして、そこに事実としてあるはずの数字は、いったいどれほどの意味を持っているのだろうか。そこに実感が伴わない数字は、1だろうと50万だろうと、同じぐらいの重みに見えてしまうのではないか。
 あるいは軽みとして見えてしまうのではないか。

『アメリカ紀行』(千葉雅也著)を読み終える

『アメリカ紀行』(千葉雅也著)を読み終える。日本に戻ってきた著者は日本の儀礼、「所作から所作へ」、そして包装を実感する。
 儀礼、所作、包装によって現実は虚構としての力を持つのではないかと感じた。解説(佐藤良明)は、小田実『何でも見てやろう』と比較していた。そして「切断の倫理」と言う。
 この解説を書いた人は、もしかすると千葉氏の小説に出てくる人なのかもしれない、と勝手に想像する。たとえば、一緒に音楽をつくる人として。違うかもしれない。だけど、私の中では勝手に結びつけていく。もちろん事実ではないしそれを確認する気もない。
 日本は儀礼、所作、包装に重きを置く社会との指摘は、たとえば若者が「自由になりたい」と叫ぶときに、最初にぶつかる不自由かもしれない。意味の無い校則が、社会問題にでもならない限り何十年と生き延びるのである。この現実のウソっぽさといったらない。
 中高生の時代は、もっともファンタジーに近い世代(ファンタジーの多くは学生向けで、登場人物たちも子どもや学生が多い)である。それは自分になんらかの包装をしなければならないことに気づいているからだろう。そして同じようなものを食べて生物として成長していく中で、ある人は何億円もの価値があるとされる選手になって、ある人は新宿のトー横に立つ。
 それは、包装の違いのはずはないと思いたいが、それぞれの儀礼、所作の違いから本質的な違いへと拡大し、とうとうそこにあった包装紙を自分にまとってしまうからかもしれない。

利益の出ない事業は潰れろと豪語する人

 世の中にはかなりの数の人たちが「利益なき事業は去れ」とか「利益を出せない人はいらない」といった考えを持っていることが、SNSをウォッチしていて感じる。
 利益とは数字であり、事業とか人は、包装されている。
 ただ生きているだけで利益を出せる人はいない。なにかしら包装を施し、つまり商品化することで利益を出すのだ。「利益を出す事業」とか「利益を出す人」という包装紙を自分でまとうときに、「それは違うな」と思えば、そんな包装を拒絶するだろう。
 資本主義なんだから、自由競争なのだから、利益こそが勝利の条件なのだ、と言ってしまえば、それはそうだろう。それは否定できない。ただ、帳簿の上の利益は、帳簿の数字を操作するとかなりの幅で調整できるのも事実だろう。黒字にするか赤字にするかは、リアルな話なのに、調整ができる点で虚構の世界に片足を突っ込んでいる。
 利益を出す事業や利益を出せる人を、丁寧な包装によって装うことができる。これも事実だ。
 数字は化粧できる。
「ウソをついても、いずれバレますよ」と訳知り顔で言うのは簡単だけど、このセリフそのものが虚偽かもしれない。バレるといっても、明日バレるのと、3年後にバレるのと、30年後にバレるのとでは、まったく意味が違う。
 明日バレるウソは犯罪だ。3年後にバレるウソは下手くそだ。30年後にバレるウソは、もうウソではない。
 


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