「自分で自分をケアするので手伝ってください」と言える人間になろう

読んだ。

しかし、そもそも「ケア」というものが「苦しみを分かち合うこと」や「相互に愚痴を言い合うこと」としてばかり語られるのは、めちゃくちゃ共感至上主義的である。ASD側から言わせてもらうとぶっちゃけ定型発達者の悪習そのものだと言っていい。

発達障害というほどでなくても、ひとりが好きで、人よりモノ相手にするほうが楽しくて、コミュニケーションが苦手な人もいる。

そういう人は「相互にケアをする」ことを目指すより「自分のことは自分でケアするので、あなた手伝ってください」というスタンスでいたほうがいいと思うんだよね。

たとえば私は感覚過敏なので、仕事中耳栓をしている。これは上司に許可を取っている。話しかけられても気づきにくくなるから一応言っておかないとならないのである。

「仕事中耳栓をしている」というのは自分で自分をケアすること、「許可を取る」というのはケアすることを手伝ってもらうこと。

これは相手に「うるさいから近くで話さないで」とケアを強要するより角が立たないし、何より簡単である。

それと同じように「家事ができないから家事代行を頼む」とか、「悩みがあるからお金を払ってカウンセリングに通う」とかも、立派な「自分自身のケア」だと思うんだよ。もちろんお金を払っているからといって「助けてもらって当たり前」と思ってはいけないが、善意ではなくお金や取引、交渉を媒介として人とつながったっていいんじゃないかな。

そして私自身がカウンセリングや認知行動療法を受けた感想だが、「自分で自分をケアする」ことで「相手と助け合う」ことのハードルも下がる。誰かに依存しなくなることで誰かを助ける余裕も出てくる。

別に「助け合う」ことを否定するわけではないが、「共感」「共有」「分かち合うこと」だけが生きづらさを解決するわけではないのだ、ということは主張しておきたい。