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托鉢のお坊さんと山奥のお寺

 Vol 15   日本の山奥のお寺 仏教僧侶 

2020年の年末、愛知県豊田市の小さな山村にあるお寺の住職を取材したことがあります。その住職から中国の仏教僧の最も古い姿を垣間見ることができました。当時書いた中国語の記事が「客観日本」に掲載されました。

「客観日本」は、科学技術振興機構(JST)中国総合研究センターが運営する中国向けポータルサイトです。

3年経って、その文章を日本語に訳し、ここで掲載します。 


托鉢修行 

毎年12月のある日、豊田市の山奥にある綾渡という地域に、寒風の中、頭に網代笠、足に脚絆、手に頭鉢を持ち、チリリンと鈴を鳴らす一人の僧侶が、曲がりくねった山道や山村の小道を歩いています。

草履を履いて歩く托鉢の道

2~3軒で形成される田舎の住宅地は、静寂に包まれています。僧侶の経を読む声と鈴の音が聞こえた住人は、玄関を開け、経を聞きおえ、僧侶に布施をします。 

留守や、返事がなかった家の前に、僧侶は、経を唱えてから、観音坐像の絵図をその宅の郵便ボックスに入れておきます。それは、この家の人たちが自宅で観音様をお参りできるようにするためと僧侶が来たことを示すのです。

 澄んだ鈴の音とともに、僧侶の姿は次の住宅へと素早く移動していきます。

玄関の前で読経

山の中の家々はまばらに広がっていて、しばらく歩いてから次ぎの家が見えます。丘には冷たい風が吹き、森には鳥のさえずりが響きます。僧侶は腕を上げ、鉢と鈴を持ち、スピードを保って闊歩で進みます。森と冬の野原の景色がどんどん後ろに置かれていきます。 

映画のワンシーンでもなく、はるか昔の歴史的映像でもありません。これは、日本の豊田市の山間部にある地元の寺の禅僧が托鉢をしている最中の場面です。 

地元の人たちは、毎年12月中旬のある日の朝、その和尚さんが托鉢にやってくることを知っていますが、正確な日時は事前に告知されないのです。

偶然に会えば、住民は布施をしますが、多くの場合、和尚さんが来たと気づいたときには、彼はすでに風のように次の目的地へと向かっているところです。 

佐藤住職 

托鉢とは、仏教の出家者の修行形態の1つで、仏教とともに中国から日本に伝わってきました。

釈尊の時代から、僧侶の修行は世俗を離れたところで行っているため、衣食住や薬など生活に必要なものを托鉢によって獲得します。つまり、信者の家々を巡り、最低限の食糧などを乞うことです。 

托鉢という行為は、僧侶が財を蓄えることなく、貯蓄のための貪欲さや、それに伴う傲慢さを避けることができるのです。これは、釈尊の賢明な教えであり、僧侶が欲望を抑えて満足することを実践するための最も基本的な方法です。 

また、托鉢の過程で、僧侶は信者に近づき、交流することができ、一般人の布施は善業を実践する機会にもなります。

托鉢途中、村民と交流

冒頭の僧侶は佐藤一道といい、出家時に「普現一道」という戒名を与えられ、村民は「和尚さん」「佐藤住職」と呼んでいます。佐藤さんは、今年(2020年)は72歳の誕生日を迎え、初心を忘れないようにと、綾渡地区での托鉢は32回目になったそうです。 

托鉢の出発時にご本尊への報告儀式 (右图 平胜寺提供)

毎年12月中旬托鉢の日に、佐藤さんは、出発前に本堂のご本尊に「今から托鉢に行きます」と報告します。「道中、旅の安全を願ってお経を唱え続けます。私は京都のお寺で習った托鉢を続けています」と報告し、托鉢を始めます。

お寺から出発

托鉢については、佐藤さんは次のように話しました。

「本当なら、すべての僧侶は毎日托鉢を行うべきですが、今はやっている僧侶をあまり見かけません。私も年に一度だけにしています。

私が修行した京都のお寺の住職は、生涯托鉢をし続けていて、私はその方をとても尊敬しています。ですから、私も僧侶になったとき、京都の街で托鉢をしていました。 

その後任の住職である私の師匠は、『大地から托鉢をしよう』と教え、私たちは山に移り住み、農業と坐禅の自給自足の生活を送っていました。 

こうして私たちは、唐の時代の禅僧百丈禅師が提唱した『一日不作、一日不食』の精神と禅の日常生活で実践を学び、体験しました。」 

若い頃、佐藤さんはコンピュータエンジニアでした。日本社会が科学技術の光で輝いていた1970年代、「生活を豊かにするには科学技術を発展させるしかない」という揺るぎない信念があった時代でした。 

佐藤さんはソフトウェア開発技術者として、「IBMに追いつけ追い越せ」のスローガンのもと、懸命に働いていました。 

しかし、そんな状態が5年も続くと、不安の増大からやる気や生きる意欲を失い、混乱の中で一冊の本で「坐禅」に出会いました。坐禅によって心の平安を得るため、これまでの人生をリセットし、僧侶になるための修行をはじめました。

坐禅修行

10年間の修行の後、佐藤さんは豊田市綾渡町にある曹洞宗の古刹、平勝寺に派遣され、地域の人々は新しい住職を迎えることになりました。 

平勝寺には8年間住職がいなかったので、佐藤さんの赴任により、平勝寺は地域の人々の生活の中の一部になりました。

佐藤住職と村民

豊田市綾渡町と平勝寺 

豊田市は、自動車産業を中心とした工業都市でありながら、平地やなだらかな丘陵のほか標高1,000メートルを超える山々もあります。

世界をリードする自動車の製造工場や賑やかな都市、山や谷の中にある農地や点在する村々が混在しています。現代的なライフスタイルの中にも、何世紀にもわたって宗教と密接に結びついた古くからの習慣が残っています。 

豊田市の標高500mの丘陵地に、20世帯ほどが点在する綾渡という山村があります。50年以上前まで、綾渡の人々は主に農林業で生計を立て、長年にわたって自然との共生の中で相互扶助と共同活動の伝統を守ってきました。 

このような伝統的なライフスタイルが続けられたことには、その地域に平勝寺というお寺の存在が大きな役割を果たしたと思われます。

俯瞰平勝寺 (華豊影視提供)
道の奥の建物は平勝寺

平勝寺は、平安時代(794~1185年)末期に創建された古刹で、古来より綾渡に根付いています。1159年にヒノキで彫られた高さ1.5mの観音坐像があり、本尊の化身として多くの信者を集めてきました。 この観音坐像は現在、国の重要文化財に指定されています。 

平勝寺の本堂と観音堂は明治時代の再建(1868~1912年)、山門(鐘楼)は江戸時代後期の建立、表と裏庭の石仏13体と裏山の88体弘法大師の石像群は大正時代にできたものです。 

これらの建物や石像は、平勝寺が約900年もの間、信者の信仰を集めた重要な寺院であった歴史を物語るだけでなく、地元の人々の仏教に対する深い信仰を反映しています。

本堂
鐘楼門      観音堂
平勝寺の前や裏山にある石佛、弘法大師の石像群

日本の経済・産業構造の変化に伴い、山村の人口減少や高齢化により、平勝寺の運営はますます困難になりました。 

1982年に先代住職が去った後、寺の管理は地域住民が行い、宗教活動は隣村の住職の代行を依頼することになりました。 

しかし、世話をする僧侶がいない空っぽの寺は活気がなくなり、一部の宗教活動も次第に衰退していきました。 

地域の人々の生活中のお寺と住職

 日本の寺院には、檀家寺院、信者寺院、観光寺院の3種類があります。 

一般民衆である檀家は特定の寺院に所属し、葬祭供養の一切をその寺に任せ、布施をします。個々の檀家が寺院の経済的な支援者となり、葬儀や先祖の命日法要、墓の管理を自身の家のお寺に委託します。日本のお寺の多くは檀家の寺院です。 

綾渡町には、曹洞宗檀家が18軒しかなく、寺を維持するための財政が十分でなかったため、平勝寺は長い間住職がいませんでした。 

1988年、佐藤住職が赴任してきたとき、檀家の人たちは「収入が少なすぎて、住職を置くことができないではないか」と心配しました。 

一方、佐藤さんは、農業と坐禅修行の経験があるため、専任の住職として平勝寺を運営できると考えていました。妻と一緒に畑を耕し、地域の人々から食料や野菜をもらうことも多く、「一日不作、一日不食」の精神で清貧自給自足の生活で、綾渡に30数年定住していました。

綾渡町の朝

佐藤さんは、檀家の負担を増やさないために、檀家から修繕費を募らず、檀家の善意的な労働援助を受け、お寺の維持に必要な修繕を行ってきました。

 長年の修行を経て、心身の平和と統一の境地に達している佐藤住職は、人々に寛容的な接し方と自らの善徳を積み上げて行く修行で、地元の人々から尊敬され、平勝寺を「お寺と檀家の互助・つながり」の場にしました。

檀家たちは定期的にお寺と裏山の清掃を行う

お寺と住職の意義について、佐藤さんは次のように述べました。

「綾渡の人々は、亡くなった先祖の霊を祀るために平勝寺にやってくるのです。

平勝寺は、人生の意味を考えたり、自分に合った生き方を見つけるための場所でもあります。仏教はお釈迦様が説いた最も洗練された生き方だと私は考えています。ですから、私はお釈迦様の教えを人々に伝えています。

また、人が亡くなると、故人の家に行って葬儀を行い、遺族と話し、悲しみの嘆きを傾聴することで、彼らの精神的な安らぎや平安を得る手助けをしています」。 

人が亡くなった後、葬儀のほか、一定の期間内に、故人をあの世に送る法要が数回行われます。佐藤住職は儀式を執り行うことを通して、残された人の喪失感や悲しみ、後悔や自責などの負の感情を流し、精神面のサポートする役割も果たしています。 

佐藤住職は、故人の家族にとって、大事な人を失った悲しみに寄り添う伴走者と言えるでしょう。

毎朝のお勤め、読経と礼拝を行う

綾渡の住民は、佐藤住職について、このように話しています。

「佐藤住職が来てから、ここが大きく変わりました。彼はよく外に出ていきます。托鉢のようなことも平気で、裸足でわらじを履いて村々を歩き回ります。

佐藤住職は、仏教活動を積極的に展開し、衰退しつつあった寺の行事をとても積極的に継続、発展させました。

僕らにとしては、とてもありがたい住職さんが来てくれたのです。」

注:本文は、2021年01月13日 本サイトのオーナーが「客観日本」に提供した記事の日本語訳です。
日本語添削 佐藤一道

本文の中国語バージョン


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