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幻と消えたもう一つのシンガポール:アジア初の共和国「蘭芳共和国」

はじめに 

新天地は、はるか海のかなたに

羅芳伯の建国譚

アジア最初の共和国

皇帝への国家承認要請

押し寄せたグローバリゼーション

共和国の黄昏

新たな希望

結びに

はじめに

世界各地に中国人コミュニテイや、中国人移民社会がある中、中国系が主流となっている国は決して多くありません。シンガポールは中国系移民が多数派となっている国ですが、歴史の中に消えたもう一つの中国人移民が立てた国を知っている方は少ないではないでしょうか?
100年にわたって存在した大統領制を敷いた国、「兰芳公司-蘭芳共和国」について今回まとめさせていただきました。

(シンガポールと同様の中国人移民が建国した蘭芳共和国)

新天地は、はるか海のかなたに

中国系の移民やその社会というとサンフランシスコのチャイナタウンや、横浜中華街が頭に浮かびがちですが、その実態ははるか古代から続いていました。
日米の中国人移民は近代特に150年前からの発展となっていますが、東南アジア-南洋地域への移民は古くは2000年近く前からの現象です。 

(現代の東南アジア全土にわたる地域が南洋と呼ばれており、初期は中国からの貿易商人が移民となることが多かった)

 散発的な移民が長く続く中、400年前の中国明王朝時代。中国本土の戦乱から逃れるための移民組織が、インドネシアのボルネオ島にやってきます。

(400年前に中国北部から南下した清王朝と明王朝の戦争は、中国全土での難民を生むこととなった)

ボルネオ島にやってきた中国人移民たちは、その後も故郷から親類縁者などを呼び寄せるのと、農業や鉱山開発など労働力を必要とする産業に資本投下を始めました。
羅芳伯という青年がやってくることで、この中国人社会は大きく変わることになります。

(地図中央がボルネオ島。現在のマレーシアとインドネシアにあたり、西部地域に中国人移民の社会が作り上げられ始めた)

羅芳伯の建国譚

羅芳伯は1738年、現在の広東省梅州市に生を受けます。梅州市は客家人が現在も多く暮らす地域で、客家人自身も中国国内外を問わず、移住を繰り返してきた集団です。

羅芳伯は読書人=学識高い人物として注目をされており、34歳の時、1772年に客家人の移民団を率いてボルネオ島西部の坤甸=Khuntienに上陸しました。Khuntienは当時から金をはじめとする鉱山が多くある地域です。

(羅芳伯の晩年時の肖像画)

羅芳伯は金の採掘や周辺地域の農場をまとめる顔役として徐々に頭角を現していきました。中国人移民のみならずボルネオ島にもともと住んでいたジャワ人(ボルネオ島は多民族社会)もその噂を聞きつけ、現地勢力のの王であるスルタンも羅芳伯の勢力に目を付けます。

当時のボルネオ島は統一政権が存在せず、各地に武装勢力が割拠。羅芳伯は客家人やその他の中国人を組織し自警団や民兵団を作り上げ、スルタンとの協力体制を作り上げました。
最終的に14の公司(現代中国語では会社組織を意味するが、18世紀当時は結社や組合を意味する)をまとめ、羅芳伯公司を作り上げました。3万人程度だった当初の配下も、20万人まで膨れ上がります。

1777年にはスルタンとの盟約に支えられ、羅芳伯公司は蘭芳共和国へ生まれ変わりを宣言し、ここにアジア-亜細亜で最初の共和制に則る国が誕生しました。この蘭芳共和国はその後も勢力を広げます。

(緑色が蘭芳共和国の最大勢力範囲。)

アジア最初の共和国

蘭芳共和国の最大時の面積は約11万平方キロメートル、韓国とほぼ同じ面積まで広がり、人口も中国人を中核に400万人まで増加を見せました。農業と鉱業を中心に、東南アジアでも影響力を拡大し続けました。

(現在もKhuntienに残る中国寺院)

従来の移民社会と共和国の最大の違いは、国の代表である「大唐総長」や大臣などを投票による選挙で選んでいたことです。
選挙制を選んだのは、住民である中国人が様々な地域の出身であり、全体の意見を採用する必要があったためと考えられています。

当時代表を選挙で選出していた国は東アジアは勿論、インドを中心とする南アジア、中近東を中心とする西アジアでも存在しておらず、アジア圏で最初の共和国は蘭芳共和国であるという学説もあります。
蘭芳共和国の独立宣言は1776年のアメリカ独立宣言と時を同じとします。

(中国人やオランダ人、ジャワ人などの多民族を抱える国だった)

皇帝への国家承認要請

共和国は成立の当初から中国人同士の出身地域ごとの派閥競争や、現地のジャワ人勢力との妥協などに直面します。国家としての後ろ盾を必要とした共和国は遠く離れた中国本土、清王朝へ使節団を派遣します。

使節団派遣の目的は、清王朝の冊封体制下に共和国を加えてもらうことです。冊封体制は中国王朝へ臣従を行う代わりに、経済的または軍事的に中国王朝から支援を取り付けることになります。
日本や朝鮮、さらには東南アジアの多くの国々も中国とこのような関係性を結ぶことで、安全保障や交易をおこなっていました。

(東アジアのみならずモンゴルなどの遊牧民、東南アジアの諸国、遠く西アジアの国家も冊封体制に参加していた)

時の皇帝である乾隆帝は交易関係の樹立などを承認します。一方で中国本土から船で2ヶ月以上ある距離で、共和国が求めていた安全保障をどのように維持するかが問題となりました。

押し寄せたグローバリゼーション

ボルネオ島でジャワ人と複数の中国人移民たちによって運営された共和国は、地球の反対側からの勢力、グローバリゼーションの危機と向き合うことになります。
現在のインドネシアを中心に勢力を広げつつあったオランダ東インド会社がボルネオ島にも本格的に進出してきたのです。

(海運国としてのオランダは、のちの時代までインドネシアを統治する)

東インド会社は植民地政府の運営から徴税、軍隊の組織までオランダ本国政府に承認されている組織です。ボルネオ島での鉱山資源や南洋貿易をめぐって共和国との対立を深めるていきました。

共和国の黄昏

これに対し共和国は一致団結をすることが出来ず、東インド会社との軍事的政治的な競争で追いつめられることになります。
中国人社会に中心となる勢力が存在せず内部抗争が頻発したこと、さらに頼りにしていた清王朝からの軍事的な支援に恵まれなかったのが原因といえます。

清王朝は中国北部の半遊牧生活を送っていた満州人が、打ち立てた王朝です。満州族は中国の支配階級となっていましたが、人口の大多数を占めるのは漢民族です。
外海に打って出る海軍力が貧弱だったのと、イギリスとのアヘン戦争で国家が弱体化しつつありました。

(中国本土もグローバリゼーションの波に巻き込まれていった)

徐々に国土を切り取られることになった共和国は、1884年に全土をオランダによって占領されます。アジア初の共和国は107年の歴史をもって幕を閉じました。
宗主国である清王朝も1912年に滅亡をし、中国本土は戦乱の時代を迎えることになります。

新たな希望

南洋に散らばることになった中国人達。共和国の滅亡から39年後、1923年。共和国の建国者と起源を同じくする客家人「李光耀-リークワンユー」が、産声を上げました。
彼は「シンガポール」の建国の父となり、共和国と同じように大国間のパワーバランスに苦労しながらも、もう一つの中国人国家を発展させる運命をまだ知りません。

結びに

東洋のグローバリゼーションによって生まれ、異郷で花咲き、西洋のグローバリゼーションによって飲み込まれた蘭芳共和国。どこかで運命が少し違えば、もう一つの華人社会-中国人社会を私たちは見ることが出来たかもしれません。

参考文献

https://zhuanlan.zhihu.com/p/337788764

https://www.163.com/dy/article/F72G9S780515F3H1.html

蘭芳国www.360doc.com/content/18/1119/21/276037_795964705.shtml


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