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知られざるインドの中国人社会   【南アジアでかつて栄えた華僑達】

はじめに 

インドの中国人社会

国際関係に翻弄されたインド中国人社会

インドの大地に根を下ろす

インドへの道筋

再進出の時代へ?

インドから去り行く日

結びに

はじめに

世界人口の30%以上を占める中国とインド。この2国は現在国境紛争から端を発した対立が日々多きくなっております。その一方で両国は国際貿易や外交関係などで、深い関係を築いていました。

(2022年にはインド人口は中国人口を超えるとされている)

国民1人単位でも両国の関係は深いものがあり、多くの中国人がインドで生活や活躍をしておりました。今回は知られざるインドの中国人社会、【インド華僑の歴史】について紹介させていただきます。

(中華社会と同じく、1つの文化圏を構成するインド社会)

インドの中国人社会

インドの中国人社会中国人社会とひとくくりにされることが多いですが、出身地によって特徴や文化背景が大きく異なります。インドにいる華人-中国人達も3種類に分類することができ、海外の華人社会の縮図ともいえる社会構成です。
1つ目は客家人と呼ばれるグループです。彼らは中国の中でも広く分布している集団で、2000年以上前の習慣と言語を保持しています。インドの客家人たちは広東省の梅州という地域から一族全体でインドに移民してきました。

(中国南方の山岳地帯を中心に、客家人は集住していた)

2つ目は広東省全土からやってきたグループで、話す言葉も広東語系ですが多種多様です。広東省は中国の海の玄関口の一つであったので、海外移民がもともと盛んな地域でした。

(中国南方の玄関口といわれる広東省。海上貿易の中心地でもあった)

3つ目であり、最後は湖北省からやってきたグループになります。彼らは同様に歯科医として、インドで医療行為に従事していました。

(手に職を持っていた、湖北省の技術移民)

国際関係に翻弄されたインド中国人社会

規模はどのくらいなのでしょうか?1960年代には6万人前後になっていた在インド中国人ですが、2006年にはなんと2000人まで減少してしまいました。カルカッタ、ニューデリー、ムンバイそれぞれに中華街-チャイナタウンがありましたが、消滅の危機に瀕しています。

(消滅に向かいつつあるコルカタの中華街)

中国企業勤めでインドに赴任する中国人は、中国経済の発展とともにみられていましたが、インド現地の中国人社会と距離が置かれています。これは言語的な断絶が原因です。
多くの海外の華人社会では、標準中国語と方言が話されています。ですがインドの華人社会では方言のみが話されており、他地域の華人社会と大きく異なっています。

(インドには及ばないものも、広東語や上海語、客家語など多くの言語が中国には分布している)

インドへの道筋

インドに中国人がやってくるきっかけは、イギリス人が作り上げたものです。イギリスがかつて超大国であったことがよくわかりますね。
中国人は港湾の労働者として大都市に招かれることになりました。特に当時インド植民地の首都だったカルカッタで、インドから広州へ運ぶアヘンなどの運送に従事したといわれています。

(大英帝国の中心都市であったコルカタ。その繁栄に中国人達も招かれた)

多くの中国人たちは短期の出稼ぎとしてインドに来ましたが、イギリス人から高い労働意欲を評価されたことと、インド人との対抗勢力と期待され始めました。結果として中華街等も形成されていきました。

インドの大地に根を下ろす
根を下ろした中国人の中には、財を築き始めた中国人も現れました。楊大钊という中国人商人は、身一つでカルカッタに移民後、イギリス政府から製糖工場を買い取り、数百人の中国人を雇い入れるまでに成功しました。彼の成功を追うように多くの中国人もインドで商売を始めました。広東人は大工業、湖北人は歯医者などの生業を選びましたが、客家人が特に大きな成功をおさめます。

(吃苦耐劳。中国人移民の勤労意欲の高さは広く評価されていた)

客家人は皮革業に進出しました。これはインドの大多数のヒンズー教徒は牛を神聖視しており皮革業を行えない一方で、インドでの皮革の需要があったためです。客家人は成功をおさめ,TANGRAという街には1万人もの中国人が集まり、街も客家人が自治を行っていましたが、客家人のみならず中国人全体にいえる特徴として、海外現地社会とは一定の距離を置いていました。

(かつてはインド最大の中華街と知られていたTANGRA)

結果としてインドにありながら、客家人という中国の方言と文化が色濃く残る街が生まれることになりました。

インドから去り行く日
独自の文化と成功をインドで納めた中国人ですが、1960年に転機を迎えます。中国とインドの国境紛争を機に、カルカッタをはじめとする中華街はインド政府からの締め付けと監視下に置かれることになりました。極端な例ですと、中国からのスパイとして財産の没収や強制収容されることになり、1980年代までにインドの中国人は国外へ脱出を余儀なくされます。多くはインドやカナダなどの旧イギリス領への再移民を目指しました。

(国境紛争からの関係悪化が、インドからの中国人を大きく減らした)

結びに
伝統的な華人社会が消滅の危機にあるインドですが、近年の状況は変化もしつつあります。
インドで最も普及しているスマートフォンのメーカーは中国系のVIVOブランドですし、中国ショートムービーアプリのTIKTOKもインドでのユーザー数が中国本土を超えつつありました。
現在の関係悪化は残念としか言えませんね。インドに生活する中国人も今後のビジネス関係によっては大きく増加するかもしれません。

(インドで広く受け入れられたTIKTOKは、今後どのように扱われるのだろうか?)

参考文献
印度加尔各答“塔坝中国城”(组图)
“塔坝中国城”随笔
印度仅存的唐人街:在你消失前让我再好好看一眼(图)
印度的唐人街,很多人都为之心酸,当地华人生活非常的艰难

筆者連絡先
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