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自分は変われると信じて

最近、己の未熟さゆえに自分自身にとって大切な存在を失ってしまった。思い返せばそれらしき兆候はあり、気がつき、改善することはできたはずだった。

「御社の製品で、お客様の業務の改善を」なんて言っているのが嘘のようだ。自分自身の改善すらできていない。

「私自身の強みである、相手の立場に立って物事を考えるという特性を…」我ながら、なんと素晴らしい冗談。エイプリルフールはとっくに終わっている。相手の立場に立つことも、物事を考えることもしていなかった。

そんな具合だから、就職活動がうまくいっていないのは当然だ。

とにかく、自分自身が苦しい状況に置かれている、これを理由にして周りへの配慮を欠かし、自分勝手に振る舞っていたことは全くの事実だ。また、自分自身が正しいと信じて疑わず、「正義」を周囲に押し付けていたのも事実だ。この二つの事実をもっとも避けたかった形で認識させられた。これは前々から、散っっっっっっっっっっ々指摘されていたのにも関わらず、だ。すべてが遅かった。

自分でもこの記事を書いていて、なんと救いようのない人間なんだと悲しくなってきた。世間様からも、(元)パートナーからも、必要とされなくて当然だ。もういっそ、首を括って自ら現世にさよならしようと考えた。だが、そんなことはしなかった。いや、できなかった。考えてみて欲しい。自分自身を変える勇気のない人間が、自分自身を殺めることができるだろうか。

そんなわけで何日か生き延び(死に損ない、か?)こんな記事を書いている。しこたま自分に失望しているが、希望もある程度持っている。自分自身は変わることができると信じている。以前、変わることができたからだ。

高校生のあたりから、世間に対して非常に冷笑的であった。全てに対して斜に構え、世間のメイン・ストリームを見下していた。しかし、あることがきっかけで、大学2, 3年あたりに冷笑主義をやめることができた。当時の自分からはまったく想像ができないだろう。しかし、やめることができた。飲みサーではしゃいでいる大学生も、サラリーマンも、ドカタのにいちゃんにも、敬意を持って接することができるようになった。

私は一度変われることができた。だから、今度も変わることができるはずだ。枕を涙で濡らし、自分の顔を鏡で見て辟易し、己の無力さにうんざりしながら、それでも、ちょっとずつ、でも、確実に変わることができるはずだ。

そして、誰かを幸せにし、自分も幸せになれるような、かつて思い描いた「理想の自分」にかならずなれるはずだ。ときどき絶望に襲われることもあるだろうが、希望をもって明日を生きようではないか。失ったことを嘆くよりも、これからできることをちょっとずつ、ちょっとずつ、でも本気でやっていこうじゃないか。

さらば読者よ、命あらばまた他日。元気で行こう。絶望するな。

太宰治『津軽』

すべてが落ち着いたら、青森にでも行ってみよう。いや、落ち着かせて見せる。それじゃあ、読んでくださった皆さん、ありがとう。お元気で。


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