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父と母と翡翠のペンダント

私は北陸の海沿いにある町で育った。父は海岸で翡翠を見つけるのが得意だった。私が幼稚園の頃からずっと、気の向くままに父と私は海岸を歩いた。父は「石拾いに行くか」と私を誘い、私が中学生になるまで、その習慣を続けていた。

台風のシーズンがくると、海底にあった翡翠が大波で打ち上げられるので、早朝の海岸に行くと驚くような翡翠を見つけることがある。

そのうちの一つ、濃く明るい緑色で傷のない翡翠に、父は母の為に18金の飾りをつけてペンダントトップを注文した。長径3cmオーバル型にカットして磨きをかけた翡翠の周りに金色の繊細な飾りをつけたペンダントが届いたとき、私はその微妙な濃淡のある緑の透明感と、独特な光沢を持つ半貴石を夢中で眺めた。

このペンダントは長く母の手元にあったが、私が30歳を過ぎたころ母がそのペンダントをくれた。私には少し豪華すぎるものだったが、私のルーツ、父の思いごと受け取ったような気がして、とても嬉しかった。

その後、私が東京で結婚したあと、父が亡くなり、母は実家で一人暮らしていた。
私は実家と自宅のある東京を行き来しながら、たまには母を自宅に招待したりしながら様子を見ていたが、母は、徐々に買い物や、掃除、お風呂などが負担になり、ヘルパーの方をお願いすることになった。そして介護の認定をすると、認知症の兆候があるとわかった。

そうだったのか、と思った。冷蔵庫の中の管理ができていないことや、ひどいこだわり、暴言があったからだ。それらの症状が直接認知症と結びつかず、私は無駄に怒ったり、傷ついたりしていた。

週に何度かきてくれるヘルパーは、何人かが担当していて、買い物、掃除の手伝い、お風呂の見守りをお願いしていた。そんなある日、母からペンダントを返してほしい、と電話がかかってきた。

もともとは父から母へのプレゼントだったから、もちろんすぐに返した。父が亡くなって、ゆかりのものを手元に置きたいのかな、と思った。

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その後、数年たち、母は自宅で倒れた。倒れたといってもかろうじて意識はあり、へたりこんで動けなくなってしまっていたのを10数分後に私が気が付いた。たまたま私が2歳の息子を連れて帰省しているときだった。私はすぐに救急車を呼んだ。

これが運命の分かれ道だったのだと、いまにして思う。このとき私がいなかったら、一人暮らしの母はたぶんそのまま息をひきとっただろう。

救急車に同乗して総合病院に付き添うと、弁膜症が悪化していて、心不全を起こしていた、何があってもおかしくない、一人で暮らすのは無理だと医師に言われた。

一ヶ月ほど入院して状態が良くなり、私は母を東京に呼び寄せることも一瞬考えた。しかしまったく知らない場所、知り合いがおらず、私しか知っている人がいない状態へと突然環境を変えるよりは、地元で、姉弟や知人が多い地域にいたほうが認知症が進まないかもしれない、と考えて、実家から徒歩圏内のサービス付高齢者住宅(サ高住)への入居手続きをした。

サ高住は駅前にあって立地が良く、たまたま別のフロアに昔の知合いがいたことが分かり、それなりに楽しくやっていたようだった。

しかし、母は結局数カ月で室内で転倒して起き上がれなくなった。更に体調もくずしてしまい、施設を引き払って入院することになった。体調が落ち着いて、退院後は別の病院でリハビリをすることになった。同室の患者さんや看護師さんの相性も良かったのか、とても楽しそうにしていた。この時期が母が母らしくいた最後の頃だと思う。

半年ほど経って退院することになり、駅近くの別のサ高住に入居することになった。ここにも、幸運なことに知り合いがいた。私は子供を連れて、東京の自宅と施設、実家を行き来しながら母を見ていた。日々の洗濯、掃除、買い物などはすべて外注していた。母は気難しくなったり、強情になったり、高圧的になったりして、たびたび私との関係は悪くなったが、そんな時は叔父と叔母が訪問したりして助けてくれた。同居していたら大変だっただろうと思う。

ある日、施設長から電話があり、母が食堂に来ない、食事を居室に運んでも食べないので困っている。病院に行って見てもらったほうがよいのではないか?と言われた。一人で立ち上がることもできず、このままだと寝たきりかも、という深刻な状態だった。このころ、母からは一日に何度も電話がかかっていた。「今すぐに来て」「もう死ぬかも」「死にたい」「食べたくない」という母に困ったり怒ったりしていた。電話口の母は、泣いていることもあったが、普通の時もあり、まあまあ話すので、それほど状態が悪いとは思っていなかった。

次の日新幹線で実家に向かった。施設の居室にあるベッドに横たわっていた母は、私を見て、「もう食べたくないのよ、どうして無理にたべさせようとするの」と言った。私は母を車いすに乗せて近所の病院に連れて行き、待っている最中にまたもや具合が悪くなり、総合病院に救急搬送された。せん妄があるため個室に入院して様子を見ることになった。

ひと月ほど経って、身体の状態が安定したので退院することになったが、急激に認知症が進んでいた。レビー小体型認知症と診断された。もうサ高住には戻れない、ということになり、希望する施設の空きが出るまではデイサービス兼宿泊もできる施設に入居して待つことになった。車いすでしか移動できできなくなった。叔父と叔母は、私に帰っておいでと言わなくなった。要するに母は、もはや私がだれなのか区別がつかないだろう、ということだ。施設からは毎週写真と行動記録が送られてきた。母から私への電話はなくなった。

その後、施設に空きが出たので入居した。契約書の最後に、胃瘻を希望しますか?看取りを希望しますか?とあり、胃瘻はNG 看取りを希望する旨を書いた。手厚い介護があり、食事や入浴も世話をしてもらうことになった。

数カ月経ったある日、施設から電話があり母がまったく食べないと言われた。このまま施設にいるなら胃瘻をしてほしいと言われたが、認知症の高齢者、心臓病ありの母に胃瘻をするのは酷だととっくに決心していたので断った。それなら、系列の病院に入院が必要だと言われ、そのまま病院へと移ることになった。

病院では、点滴を付けて終日横になることになった。衰弱しているのと、認知症が進んでいるので、お見舞いに行ってもうつらうつらしていて、声をかけたりなでたりしてもほとんど反応はなかった。母はもういないんだ、と思った。それまでにずいぶん泣いて、落ち込んだり、ショックを受けてきたせいなのか、涙はほとんど出なかった。

医師からは3カ月の余命宣告があり、なるべくお見舞いに来るように言われた。私には5歳の子供がいて、東京での仕事もあったので、たびたびお見舞いには来られないと伝えた。

余命宣告のころ、再度お見舞いに行った。母はほぼ意識がない状態だったが、私が手をとって声をかけたらうっすらと目を開けた。もう一度大きな声で呼びかけると、母の目じりからは一筋の涙がこぼれた。もう会えないかもしれないと思いながら帰途についた。その数カ月後、母は亡くなった。

もっとできたことがあったかもしれないし、当時の私にはせいいっぱいだったような気もする。「もう食べたくない、死にたい」という母に、お願いだから食べて、死にたいとか言わないで、と泣きながら話したのが最後の会話だったと思う。

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母の葬儀が終わってしばらく経ち、帰る人がいなくなった実家のカギを開けた。ふと母の宝石箱を開くとそこにあるはずの翡翠のペンダントは無かった。いったいどこにあるのか。思いつく場所を一通り探したがペンダントは見つからなかった。なんの脈絡もなく、もしかしたら母が当時お世話になっていたヘルパーのだれかにあげたのではないかと思った。突然「返して」と言ったあと、ペンダントについてまったく話さなくなったのはなぜだったのか。今となっては想像しかできない。

当時の母は、いろいろなことを自分でできなくなっていて、辛く、寂しい思いをしていただろう、自信もなくなり悔しいこともあったと思う。そんな中で、あのペンダントは自慢の品だったはずだ。「ほら、これはね、夫が特別に作ってプレゼントしてくれたものなのよ」母は輝かしい思い出を色々な人に語り、翡翠のペンダントを見せていたのではないか。

そんな会話の中で「素敵ですね」「いいなあ」などと言われるうちにうっかり「あら、そしたらあなたにあげましょうか」と……引っ込みがつかなくなってそのままプレゼントしてしまったのではないか。ヘルパーの人達に買い物、掃除、お風呂などで助けられることばかり、謝ったり、感謝するばかりではなく、だれかに「ありがとう」と言ってほしかったのではないか。

母が亡くなって7年経った今、ペンダントの行方は分からないままだ。海沿いのあの町で、だれかの首元を飾っているだろうか。それとも実家のどこかにひっそりと仕舞われているのだろうか。

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食べたくないと泣いていた母、死にたいと言った母に、私は「食べて」「死なないで」と言った。当時はそれが当たり前で、食べて、生きて欲しかった。しかし、私は残酷なことをしたような気がする。結局、自らの手で食べ物を口に運ぶことをしたくない、「食べたくない」という母の願いを私は受け入れなかったのだ。

認知症が進行して、口元に運ばれるスプーンを拒み、拒食をした母の「食べたくない」という意思、それが母の寿命だったのかもしれない。逆に食べることが出来るのなら、食べたいのなら、その人はまだまだ生きたいと願い、生きようとしていると思う。

私にもいつか「食べたくない」日が訪れるだろうか。その時には子供がこの文章を思い出してくれたらいいと思っている。

母が存命中、母方の親戚、叔父叔母にはとてもお世話になったが、それ以外の父方の親族とはほぼ没交渉だった。ところが、どこからか母の施設入所を聞きつけて私に電話してきて、母親をあんな施設(彼女によると評判が悪いらしい)に入れっぱなしで、東京から帰らないなんて、あなたも子供から同じように見捨てられるよ、と言う人がいた。
認知症が進んだ親を施設に入所させること、私が仕事を続けること、子供を優先させること、これが許されないとしたら、どうしたらよかったのだろうか。

私にその時が来たら、子供には罪悪感をもたずに、最善と思う判断をしてほしい。親は子供が幸せなら自分も幸せなのだから。