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喜六庵の「あくびの稽古」にお付き合い下さい その九

坂本長利(さかもと ながとし)Part.2

1981年11月18日 新居公演時の色紙
周知用の写真

 1981年11月18日、湖西市新居町の本果寺で、坂本長利さんが一人芝居「土佐源氏」を百目蝋燭の照明で演じてくれました。経済的には赤字だったけれど、心は満たされました。もう二度と開催することはないと思っていましたが、翌月に坂本さんから手紙が届きました。水上勉さんの「越前竹人形」を一人芝居として試演するので、東京・渋谷のスタジオに来ないかという内容でした。まだ「土佐源氏」の余韻が残っていたので、12月25日に渋谷のスタジオ・ダックに行きました。約90分の一人芝居で、これまで観た映画や演劇、テレビドラマよりも魅力的でした。終演後、出口に向かうと、新居公演時のアシスタントが立っていました。彼も客として来ていたようです。

スタジオダック 「越前竹人形」のチラシ

 楽屋に招かれて伺うと、原作者の水上勉さんもいらっしゃいました。坂本さんに先日のお礼を述べてから、今日の感想をお伝えしました。その中で、新居のお寺でもできないかと考え、お願いしました。しばらくして、こちらの思いが伝わったようで、できる時期がきたら必ず連絡をするとのことで、その日は帰りました。
 年が明けて、1982年3月にはどんな状況になっているのか手紙を出してみました。すると6月の上旬に坂本さんから速達の手紙が届きました。水上さんの許可をとって、自分自身も納得できる内容となりましたので、東京以外での上演を引き受けてもよいという内容でした。そして、11月27日に新居公演の日程をいただくことができました。
 前回の経験を活かして、8月から準備を始めることにしました。今回は、蝋燭と菰だけではなく、大道具、小道具、電気照明も必要になりました。東京のスタジオで見た時は、かなり大掛かりな舞台でした。まずは、電気照明は浜松の劇団「からっかぜ」さんから借りることにしました。大道具と小道具については、私のイメージと現状を坂本さんに伝えて、最小限にしてもらうことにしました。音響機材は、私のオーディオ機材を使用します。次に問題となったのはポスター・チラシ・チケットの作成ですが、まだサンプルがない状況でした。これまで観に行って集めておいた演劇関係のスクラップを参考にして、どうにか作り上げました。

「越前竹人形」新居公演のチラシ

 

1982年11月27日 新居公演時の色紙

去年、「土佐源氏」に来てくれた人が、坂本さんの一人芝居に魅了されて前売り券がまずまず売れました。経費を節約することで、赤字にならない可能性がわかりましたので、当日は甘酒のサービスをすることにしました。公演の前日には、スタッフと寺の本堂の竹藪に入って、背景に使える竹を数本切り出し、土台も作りました。そして、当日がやってきました。14時19分に、浜松に到着した坂本さんとアシスタントを迎えに行ったので、スタッフには15時に集まるように指示しました。その後、舞台の設営や仕込みに1時間かかり、リハーサルには2時間かかりました。というのは、東京のスタジオ以外ではほとんど上演したことがなかったため、この会場に合わせて通しのリハーサルをしなければならなかったからです。
 18時頃、すべての準備が終わりました。開場時間の1時間前でした。控えの部屋で坂本さんと話していると、誰か本堂にいる気配がしました。誰かなと思って行ってみると、今夜のお客様のようでした。開場は19時なので、そのまま待っていただくことにしました。でも、18時30分過ぎには、たくさんの人が詰めかけてきていることが分かりました。急いで甘酒を作り、客席に運びました。19時を過ぎると、広い本堂が人でいっぱいになっていました。私が片隅で様子を見ていると、「これは本物の竹だよ!」「へえー」と驚いている声が聞こえました。前日、藪蚊に刺されたけれど、竹藪に入ってよかったです。
 19時30分、開演時間になりました。私が挨拶とお礼を述べた後、舞台の照明が点灯しました。坂本さんが船頭の格好で登場しました。大半は一人語りで演じていましたが、渡し場のシーンから一人芝居になりました。竹にあてられた赤いライトの光で、お寺の本堂だという環境を忘れてしまいました。川と舟があり、まるで京都の夕暮れのようでした。90分の一人芝居はとても早く感じられました。終わった後、場内では涙を流す人々が見られました。11ヵ月かけて実現したこの公演で、やっとやり遂げた感が身にしみました。
 終了後の「宴会料理の夕べ」で、初めて坂本さんから打ち明けられました。音響機材として本当はオープンデッキが3台必要であったのに、当方の事情を考慮して、自費で一本のテープに編集してくれたことを。さぞお手数をかけたであろうことを改めて頭を下げました。坂本さんは、本物の生きた竹を背景に演じることが出来た喜びを語ってくれました。そして、水上勉さんからは五部作を一人芝居として演じるよう委ねられていることを聞かされました。五分作とは「越前竹人形」「越後つついし親不知」「五番町夕霧楼」「はなれ瞽女おりん」「雁の寺」のことです。何年かかるかわからないが、必ず実現させると熱い思いを語ってくれました。そして、その実現の時には、今回同様、新居の地でも上演すると約束していただけたのです。
 翌日、茨城で収益がある?仕事が決まっていたのに、無理をしてまで新居まで来てくれた坂本さんのために、新幹線の最初の列車に乗るために急いで車を走らせました。今回も本果寺さんには、宿泊と早朝の朝食を用意してもらいました。このようにして、観客数105人、11,980円の黒字を残すことができました。
 坂本さんは、1984年7月21日にも来てくれました。それは、「新居・寄席あつめの会」主催でのイベントを9回続けられたからです。10回目は初心に戻って、「土佐源氏」を再演しました。ただし、前回と同じ内容では集客は期待できないかもしれません。坂本さんの書籍には、野外で演じている写真が載っていたので、それを思い出しました。そして、「野外劇」として上演することにしました。相談したら、OKの返事をもらいました。

「土佐源氏」野外劇のチラシ

 本果寺の中庭には池があり、その周りを縁側と渡り廊下で囲んでいます。ご住職を説得して借りることができました。このお寺ができてから、おそらくこんな使い方を申し出た人はいなかったはずです。
 当日、リハーサルの時に、オープニングをどうするか相談しました。結局、池の中に膝まで入ってもらうことにしました。私は中庭の東側の座敷から挨拶し、目を引くために反対側から菰をかぶって登場する演出をしたのです。本堂と庫裏の間の渡り廊下を川に見立て、河原乞食の設定にしました。後でアンケートを読んだところ、お客さんは本当に驚かれたようです。坂本さんが池の縁の岩に座っていた頃から、稲光と雨が降ってきました。今回も照明は百目蝋燭だったので、稲光が坂本さんの顔を時々照らしていました。お客さんは屋根ありの場所にいるので、濡れる心配はありません。そのまま続けることにしました。エンディングでは、後ろの障子を開けて山門の方に歩いていく設定でしたが、戻ってこなかったのです。坂本さんの様子を見に行くと、疲れたのでこれで終わりたいと言っていました。急いで戻って、私が終演の挨拶をしました。
 帰りかけて立ち上がったお客さんの中には、雨が降っていたことに驚いた人がいました。それをきっかけに、あちらこちらで同じような言葉が聞かれました。熱い演技に魅了されて、雨や稲光は人工的な演出だと思っていた人もいたのです。終了後の宴会で、坂本さんが「自然の光と水でこんな素晴らしい効果が出るのなら、ビデオで撮影しておけばよかった」と言いました。この野外劇の印象は今でも鮮明に残っています。当時は、もし金銭的に余裕があれば、裏庭の池を宇治川に見立てて「越前竹人形」を野外で上演してみたいと思っていました。
 1985年2月、霧生正博企画室という初めて聞く名前の方から手紙が届きました。その方は坂本さんのプロデュースをしていて、8月に英国で開催される「エジンバラ国際芸術祭」に参加できる権利を得たけれど、費用の工面ができないのでカンパをお願いしたいという内容でした。この芸術祭は、毎年8月下旬から9月上旬にスコットランドの首都エジンバラで行われる、世界最大の芸術祭なんです。一人芝居としては、日本で唯一認められたのだそうです。私は半信半疑でしたが、翌月、坂本さんからは7月までの出前公演によって費用を捻出したいという手紙が届きました。昨年に続いての新居公演は無理があったので、西武百貨店浜松店の「CITY8」で公演することにしました。結果的に、7月7日に公演できることになりました。西武さんは、芸術祭参加のカンパを考慮して出演料を増やしてくれました。でも、私の都合できちんと宣伝や準備ができず、当日の観客数はひどく少なかったです。前夜は拙宅に泊まってもらい、ささやかな壮行会を開きました。スタッフとご住職のカンパにより6万円を渡すことができました。
 私は5年間で5回のプロデュースをさせていただきました。その後、坂本さんは「Dr.コトー診療所」というドラマで中村村長として出演されていました。そして、2022年に公開された映画でも元村長として顔を見ることができました。坂本さん、いつまでも健康でいてください。

エジンバラ国際芸術祭支援特別公演 チラシ


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