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喜六庵の「あくびの稽古」にお付き合い下さい その十

高橋忠史(たかはし ただし)

 私は1981年11月から湖西市新居町で地域寄席を開催しています。「新居・寄席あつめの会」という名前でスタートしましたが、1987年からは「本果寺寄席」として活動しています。以前は芝居や寄席、コンサートも行っていましたが、現在は地域寄席だけを企画・開催しています。また、1983年には第4回目の企画として、フォーク・コンサートも開催しました。1983年4月2日に本果寺の本堂で行った「高橋忠史コンサート」です。
 1982年5月14日、私は高橋さんと出会いました。その当時、私は静岡県遠州地区の音楽鑑賞団体「遠州文化連盟」(通称:遠文連)の寄席部門、コンサート部門、ツアー部門、機関紙部門のそれぞれの委員を務めていました。月例会と呼ばれる、月に1本か2本のイベント企画や招聘タレントの情報収集、チラシやチケット、ポスターのデザインを考えたり、当日は会場内外で仕込みから片付けまで携わっていました。会場の入り口でのチケットの切り取りやグッズの販売、タレントの移動時のガードも経験しました。高橋さんは、この連文連の5月例会のタレントでした。その当時、私はプロのシンガーソングライターとして8年間活動していましたが、あまりマスコミには取り上げられていない歌い手の一人でした。この地区でもあまり知名度のない歌い手だったので、事務局からチケットの手売りを頼まれました。

浜松市内でのライブ チラシ

 結局、当日の有料客60名程のうち10人は、私のお客でした。フォークソングのジャンルなのだが、メッセージソングでした。一度でも彼の歌を生で聴けば、彼の良さがわかるのに、その機会がなかなか設定できない、そんな歌い手でした。運文連内のわずかなシンパと応援はしてみたものの結果は赤字で終わっていました。当時の私の中には、マスコミが寄ってたかってスターにしてしまった人よりも、マイペースで自己主張を続けている人を応援してあげたくなっていました。
 秋になって、高橋さんから、新しいアルバムを発売するために浜松公演を手伝って欲しいという話がありました。結局、12月28日に行うことになりましたが、チケットの売れ行きはあまりよくありませんでした。そこで、24日にキャンペーンを行うためにSBSラジオに頼みました。当日、その手伝いをすることになり、本業の仕事が終わった後、18時から23時まで、飲み会に付き合わされることになりました。お酒を飲んでいたときに、私とマネージャーは次回の新居公演を決めてしまいました。本来ならば、酒の席の話なので取り消しても問題なかったのですが、実現の方向性が示されていました。後から考えると、私たちは酔っぱらっていたとはいえ、真剣に話し合っていたようです。年が明けると、マネージャーから確認の電話がありました。私は不安な面もありましたが、酒の席での約束は約束とし、1983年4月2日のスケジュールを押さえていただきました。当日の出演料は謝礼でかまいませんという、良い条件にしていただきました。

LP「メッセージ」の表面
LP「メッセージ」の裏面

 話が決まった後、双方とも初めてであるお寺の本堂でコンサートを開催するために、遠文連と事務所の協力をお願いしました。事務所とは、高橋さんが所属している「才谷音楽出版」のことです。この事務所には、当時「ふきのとう」というバンドが所属していました。チケットの販売は浜松地区よりも難しいだろうと予想したため、2月からの前売りを開始しました。もちろん、手売りでした。約1か月、まったく売れない日々が続きました。浜松・湖西地区のファンが購入してくれたことを知ったのは、公演の2週間前でした。経費をできるだけ抑えれば、赤字を回避できるかもしれないと思っていましたが、三日前に連絡がありました。予定通りマネージャーではなく、才谷音楽出版の社長さんが来ることになったのです。正直、どう対応すれば良いかわからず、遠文連に頼むことにしました。
 当日は、生ギターと生ヴォーカルでお願いしたので、特別な音響設備は必要ありませんでした。17時から仕込みを始めて、1時間くらいリハーサルをしました。心配していたマイクの問題はなく、19時に開演し、90分後の20時30分には終了予定でした。しかし、アンコールが続いたせいで、高橋さんが舞台に戻ってきてリクエストがありました。そのため、アンコールではなく第二部のような感じで、終了が21時30分になりました。途中でギターの弦が2本切れましたが、それでもギターを弾き続け、問題なく演奏できました。みんなが心配していたコンサートは、本人も私も驚くほど素晴らしい雰囲気で終わりました。

新居公演のチラシとチケット


新居公演時の色紙

当日の観客数は48人でした。赤字金額は505円でした。予定よりも少ない赤字になったことに驚き、関係者に感謝の気持ちを持ちました。終了後は、一部のファンと一緒に「宴会料理の夕べ」に参加しました。夜中の2時頃まで続き、最終的にはお寺で宿泊しました。翌日は、正式な出演料を支払えなかったことをお詫びし、スタッフの厚意でモーターボートで浜名湖遊覧を楽しんでもらいました。この費用はイベント経費では賄えませんでした。すべては私の甘えで、感謝の気持ちだけでお答えしました。
※高橋さんは、その後、自転車での日本一周、徒歩での日本一周を続けながら全国各地でライブコンサートを続けられました。徒歩ライブの時は、私が浜松駅から新居町駅まで道案内を兼ねて一緒に歩きました。その日は、拙宅に泊まっていただき、近くの公民館で「投げ銭ライブ」でした。2000年頃から旧春野町の廃校となった勝坂小学校に移り住み、曲制作活動と共にライブ活動を続けていたようです。2012年頃に「脊髄小脳変性症」という難病を発症、療養を続ているようです。

野口すみえ一座

 このイベントはうまく続けられましたが、次の年の1984年には新しい企画がありました。東京で発行されている寄席に関する小さな雑誌「東京かわら版」の5月号に、大衆演劇一座の情報が掲載されました。私は興味を持ちました。東京の渋谷にある「野口すみえ一座」が6月4日から四か月間、全国でふれあい演劇の旅に出るとのことでした。私はこの劇団の存在や内容を初めて知りました。なぜ彼女たちを私の地域に招聘することになったのか、その記事から感じられる彼女たちの情熱が理由でした。彼女たちは当時、日本で唯一の女性剣劇団でした。彼女たちは大道具、小道具、生活用具を二台のトラックに積み込みながら、四か月間自炊しながら移動する予定です。そして、できるだけ今まで芝居を観たことのない地域を回りたいと思っています。それが理由で、私はこの劇団に興味を持ちました。地方のイベンターさん、ぜひ協力お願いしますという内容の記事でした。
 まず、電話で条件を聞くことにしました。条件は以下の通りです。

  1. 参加人数は11人です。

  2. 稽古のため前日に現地に入ります。

  3. 話がまとまった時点で内金を送ります。

 このイベントは初めてで、経費も以前よりも多くかかることが分かりました。もし赤字になったらどうしようか心配です。そこで、浜松の演劇関係者に相談しました。厳しい内容ですが、できるだけ協力してくれると約束してもらいました。そこで、「新居・寄席あつめの会」のスタッフには頭を下げて、第6回の企画として9月25日の女剣劇一座が決定しました。

新居公演チラシ表面とチケット


新居公演チラシの裏面



 7月中旬から予約を開始しましたが、興味を持ってくれる人は少なくて心配していました。9月になっても売れたのはわずか30枚くらいです。そのため、本果寺さんには謝礼ができないことを伝え、了承してもらいました。赤字の部分は私とスタッフ4人で負担することにしました。劇団には食事などの差し入れができないことも伝えました。
 こうして、前日の11月24日の15時に2台のトラックが新居町に到着しました。彼女たちは道中着姿で現れ、私の期待通りでしたので、気軽に話をすることができました。本果寺に到着するとすぐに、本堂(会場)の掃除を始めました。どこへ行ってもこれから始める、ということでお寺の奥様が戸惑っていました。当夜は、本堂の座敷で旅の疲れを癒すために、お寺にお願いしましたが、トラックの中で休むことになりました。トラックの中は、蚕棚のようにベッドが作られていました。
 布団を本堂に敷くのに時間がかかるので、トラックの中で寝ていただくことになりました。。こちらで晩御飯を用意できなくて申し訳なく思っていたら、座長の野口さんに電話がありました。神奈川県横須賀市の浜田さんという後援者からでした。彼は今日、新居町に来ていて、新大村という旅館に泊まるので、大広間でご馳走したいと言っていました。そして、私も招待されることになりました。まさに奇跡のような出来事でした。 
 翌朝、10時に新居関所の見学に行く約束をしていたので、迎えに行くと朝食の時間でした。外で待っていようとしたら、中で一緒に食べませんかと声をかけられました。断るのも失礼になるので、トラックの中で食事をさせていただくことにしました。ご飯と味噌汁、オムレツ、サラダといっぱいの食べ物でした。昨夜、新大村へ行く前に近くのスーパーで買ったとのことでした。そして、関所見学の後、本堂で準備を始めました。大道具、小道具、衣装はすべて昨夜運び込んでおいたので、本堂の片隅はいっぱいでした。日曜日だったので、お参りに来る方がたまにいて、謝りながらの作業が続きました。
 今回の場所は、南側の板の間と縁側を使うことになりました。中央の高座では、天蓋がチャンバラの邪魔になるからでした。見ていると、ベニヤ板と暗幕で舞台ができました。でも、真ん中に柱があります。ただ、柱を取り外すことはできませんでした。逆に、この柱を使った演出に変えたのはプロの演劇人だと感心しました。「出来上がった舞台空間」でリハーサルが終わったのは17時30分でした。お客様が南側に舞台ができていることにとまどっているようでした。開演の時間となったのは18時30分でした。私が「簡単な挨拶」をして引っ込むと、第一部「お艶参上!おしどり街道」の始まりでした。若夫婦がヤクザ同士のイザコザに巻き込まれ、亭主が殺される。夫の仇と、女房が刀を持って親分を切り殺します。「テレビドラマでもお馴染みの筋立て」で、笑いあり、涙あり、ドタバタあり、そして人情味がありました。南側の縁側を奥の座敷に見立てて、「客席のわずかな片隅」を花道に見立てて、座員総出演でした。
 この芝居がお客様に伝わらないはずがありません。大喜びでした。第二部の「すみえのド演劇」では、演歌による新舞踊、コント、そしてジャズダンスとサービスたっぷりの趣向に時間を忘れて楽しませていただきました。21時30分に終わった後、片付けの時間になりました。私たちは簡単な宴席を用意しましたが、今夜中に片付けを終わらせたかったため、手を休めませんでした。結局、23時を過ぎていました。25時頃に宴席を終え、明日の出発時間を聞いて失礼しました。翌朝、10時に見送りに行くと、朝食の時間でした。またしても、一緒に食事をすることになりました。私が持って行った差し入れについて心配していたのですが、逆に私にトラックのボディにサインをしてもらいたいと頼まれました。私はお寺の名前とスタッフの名前を書きました。
 こうして終了したイベントは、結局、観客78人、79,6305円の赤字となりました。今までの黒字分とカンパによって、実際には29,630円をスタッフ4人で負担をしました。「新居・寄席あつめの会」は、6回目にして、せっかく積み立てたお金をすべて吐き出してしまうことになったのです。

新居公演時の色紙

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