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ベラルーシの小津安二郎

いま、小津安二郎が流行っている。

もちろん、映画通の方であれば「小津安二郎はここ20年近くずっと評価され続けているのにいまさら何を言っているんだ」と訝しく思うかもしれない。国内は言うに及ばず、すでに世界的な名声を獲得している巨匠に対して、何を周回遅れのことを言っているのかと。

とはいえ、世界的な評価を受けているからといって、世界中あまねくすべての国と地域で評価されているわけではない。当然のことながら、いまだ小津の映画が知られていない国も多数存在する。冒頭で言った小津の流行とは、そうした国のひとつであったベラルーシにおけるものである。

いきなりベラルーシと言われても、ピンとこないかもしれない。一般的に知られているのは、東欧に位置する旧ソ連の構成国のひとつで【図1】、いわゆる「美人」が多いことくらいだろうか。あるいは、原子力関係の問題に興味のある方であれば、チェルノブイリ原子力発電所事故の最大の被害国としてその名前を記憶しているかもしれない(ベラルーシは事故の起こったウクライナと国境を接している)。

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【図1】 旧ソ連の構成国だったベラルーシ国内には、巨大なレーニン像がいくつも残っている。

政治的には、1994年に大統領に就任したアレクサンドル・ルカシェンコが現在に至るまで四半世紀にわたってその座を占め続けていることから、しばしば「欧州最後の独裁国家」などとも言われるが、芸術に対する国民の関心はきわめて高い。

なんといっても、ベラルーシは世界的な画家マルク・シャガール(1887-1985)やノーベル文学賞作家のスヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ(2015年に受賞)を生んだ国である。

そんなベラルーシの首都ミンスクで、このほど(2019年4月2日〜7日)小津安二郎のレトロスペクティヴ(回顧上映)が開催され、6本の小津映画が上映された【図2】。これは同地における初の本格的な小津特集と言えるものである。

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【図2】レトロスペクティヴのポスター。今回上映された6本の小津映画を6つの寿司ネタになぞらえた洒脱なデザインが目をひく。上映作品の一つである『秋日和』(1960年)には、じっさいに寿司屋のシーンがある。

筆者はこのレトロスペクティヴに招かれ、現地の観客向けに小津映画の紹介と解説を行ってきた。この記事では、そのときの様子を報告したいと思う。あまりに「日本的」だと考えられている小津安二郎の映画を、文化的背景のまったく異なるベラルーシの人々は果たしてどのように見たのだろうか。

前提として、ミンスクの人々の日本に対する関心がかなり高いということは言っておきたい。実はミンスク市は仙台市と姉妹都市提携を結んでおり、チェルノブイリ原発事故の際には、仙台市が医療支援等を行なっている。それに対して、2011年の東日本大震災時には、ミンスク市が支援の手を差し伸べてくれている。

チェルノブイリ原発事故で多大な被害を受けたベラルーシの人々にとって、日本が被爆国であることの意味合いは大きい。ミンスク市内には、長崎市の浦上天主堂から寄贈された鐘と記念碑があり、その下には広島、長崎、福島の土を入れたカプセルが埋められている【図3、4】。


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【図3】浦上天主堂から寄贈された鐘。

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【図4】プレートには「ここに広島,長崎,福島の土を入れたカプセルが埋められている」と書かれている。

それだけでなく、両国の間では多年にわたる文化交流の蓄積がある。今回、小津安二郎の特集上映が行われたのは「日本映画上映会」というプログラムの一環だが、この上映会は今回で8回目の開催となる。

昨年行われた第7回の上映会では、是枝裕和、河瀬直美、黒沢清、深田晃司という現代日本を代表する映画監督の作品が上映された。深田監督はゲストとしてミンスクに招かれており、舞台挨拶に立っている(それもあって、筆者が現地で受けた取材では、ひんぱんに深田監督の名前があがった)。

2013年からは「日本の秋」という文化フェスティバルが大々的に催されており、日本の芸術、スポーツ、伝統芸能などが紹介されている。また、1999年にミンスクに設立された日本文化センターは、着物展、人形展、書道体験会、茶道の紹介イベント等、積極的な活動を行なっている。さらに、ミンスク市内には将棋クラブや剣道クラブまであるという(服部倫卓、越野剛編著『エリア・スタディーズ158 ベラルーシを知るための50章』、明石書店、2017年、312-7頁。) 。

日本文化に対するこうした関心の高さが背景にあるためか、ミンスクの人々は小津安二郎の映画も日本文化の枠内で捉えようとしている印象を受けた(上映会開幕前に受けた取材でも何度もこれに関連する質問を受けた【図5】)。とりわけ、小津の映画は英語圏の批評で「日本的」と形容されてきた歴史があり、現地の人々も自然とそのような文脈を自然に受け入れていたように思う。

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【図5】『東京物語』上映前に、劇場ロビーで現地メディア(ニュース番組)の取材を受ける筆者。

しかしながら、小津が「日本的」な監督であるというのは必ずしも正しい捉え方ではない。じっさい、過去の映画研究者や批評家は小津にまとわりつく「日本的」という神話を打破するために大量の言説を積み重ねてきた。筆者にもまたその末席を汚しているという自負がある。現地の取材や解説でも、できるだけそうした誤解を解くように振る舞ってきた。

ただ、結果から言えば、筆者の努力の如何によらず、小津映画をじっさいに目にしたミンスクの人々は、それが「日本的」という狭い枠組みに収まるものではなく、まさに自分たちの姿を描いた普遍的な作品であることを理解してくれたように思う。

レトロスペクティヴの初日に上映されたのは、小津の代表作たる『東京物語』(1953年)である。上映に先立ち、アート・コーポレーション(主催者、【図6】)、日本大使館(公使)、スポンサー(JTI)のあいさつに続いて、筆者に5分ほど映画の解説をする時間が与えられた。

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【図6】主催者代表のイーゴリ・ソクマノフ氏。大変な日本映画通で、ステージ裏では大いに話に花を咲かせた。

『東京物語』では、尾道に住む老夫婦が東京に暮らす子どもたちのもとを久方ぶりに訪ねる。ベラルーシの観客は、東京は知っていても、尾道にはそれほどなじみがないだろうと考え、それが広島県にあること(広島という地名はベラルーシでも知られている)、尾道から東京までの距離は700km強で(これはちょうどミンスクからモスクワまでの距離にほぼ相当する)、当時の鉄道で15時間ほどかかることをまず説明した。

当時の日本にあって、これはなかなかの大旅行である。映画の序盤から中盤にかけて描かれるのは、これだけの長距離移動を経てはるばる東京までやってきた老夫婦に対する子どもたちの仕打ちである。尾道と東京の位置関係がわかれば、老夫婦が直面した状況がどのような意味合いを持つのか(彼らは劇中で「宿なし」にさえなってしまう)、ベラルーシの観客にもより実感をもって理解できると考えた。

映画のストーリーについて補足する必要はあまり感じていなかった。なぜなら『東京物語』で描き出されるのはある家族の物語であり、文化的な背景が異なるとはいえ、普遍的な広がりを持つテーマだからである。着物や浴衣を着た経験はなくとも、誰かの家族であった経験を持たない観客は世界中探してもほとんど存在しないだろう。

劇中の人物たちには決して家族間の愛情がないわけではない。親が亡くなれば子どもは涙を流して悲しむし、孝行が足りなかったことを悔やみもする。しかしながら、成人して仕事や家庭を持てば、常に親のことだけを考えるわけにもいかなくなる。このような葛藤、家族に対して愛情を持ちながらも、ときに疎ましさを感じてしまうことは、日本人でなくとも身に覚えのあるものだろう。

その予想は、上映後の観客の反応を見て確信に変わった。『東京物語』上映後のトークに立った筆者は観客に次のように問いかけてみた。「小津は日本的な監督だと言われるが、実は私にはいまひとつ実感がない。この映画で描かれていた人物たちとベラルーシのみなさんに違いがあるなら教えて欲しい」。

即座に複数の観客から「彼らと自分たちの間には何の違いもない」という答えが返ってきた(ベラルーシの観客はマイクの到着を待つことなく、地声で応答してくれる)。劇場の後方に座っていた男性の観客は、立ち上がって自分の両親との関係を話してくれた。彼の発言の趣旨は「自分は両親に対して十分に孝行したとは言えない。この映画を見て、自分のことが恥ずかしくなった」というものであった【図7、8】。

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【図7】『東京物語』上映後に構図の解説をする筆者。ポスター印刷した画像を持ってくれているのがイーゴリ氏。右側にいるのは通訳の古澤晃氏。古澤氏はベラルーシ国立大学で日本語を教えている。イーゴリ氏によれば、日本のアニメはベラルーシの若者の間で大変な人気があるという。

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【図8】解説トーク中の観客席の様子。上映会初日はほぼ満席の盛況ぶりで、若い観客の姿も目立っていた。

ことさらに異国趣味に訴えなくても、ベラルーシの観客には『東京物語』の核心が見事に伝わっていたと思う。上映後にわざわざ僕のところまでやってきて「すばらしかった」という感想を伝えてくれた観客が何人もいた。そのような場に立ち会えたことに、筆者は強い感動を覚えた(日本語で「ありがとうございました」と声をかけてくださった方も少なからずおり、そのことにも驚きと喜びを感じた)。

筆者が観客の前で解説をする機会は二日目の『彼岸花』(1958年)と、三日目の『お早よう』(1959年)の上映前後にも設けられた。この二作は『東京物語』よりも喜劇色の強い作品で、じっさい、上映中は観客席から大きな笑い声が何度もあがっていた。ベラルーシの観客たちは、「日本的」というフィルターを介在させなくても、小津映画そのものをダイレクトに楽しんでくれたのである。

上映後の観客席にはある種の熱気が立ち込めていた。解説トークを終えると、筆者を待ち構えていた観客たちにたちまち囲まれて、質問攻めにあった。『彼岸花』の上映後には10人ほどの観客の質問にロビーで30分以上応答し続け、『お早よう』の際にはそのような事態を見越して主催者が用意してくれた別室に移動し、やはり10人ほどの観客とともに一時間近くディスカッションを続けた【図9、10】。

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【図9、10】『お早よう』上映後のディスカッションの様子。残った観客たちからは次々に質問が寄せられた。

筆者が上映に立ち会ったのは残念ながら『お早よう』までの3作品で、翌日の上映開始前に帰国の途についた。したがって、残りの3作品(『秋日和』[1960年]、『秋刀魚の味』[1962年]、『お茶漬の味』[1952年])がベラルーシの人々にどのように受け止められたのか直接目にしたわけではない。だが、主催者からは盛況のうちに閉幕したという連絡があり、じっさいにそうだったのだろうと思う。

初日の『東京物語』上映前に、筆者は尾道と東京の位置関係にくわえて、小津に私淑していることで知られるドイツの映画監督ヴィム・ヴェンダースの言葉を引用した。

ヴェンダースは小津の面影を求めて日本にやってきた際に、『東京画』(1985年)というドキュメンタリー映画を撮影しており、その冒頭で『東京物語』の映像を引用しながら次のようなナレーションを吹き込んでいる。

「小津の作品はもっとも日本的だが国境を越え理解される。私は彼の映画に世界中のすべての家族を見る。私の父を、母を、弟を、私自身を見る。……小津の映像は20世紀の人間の真実を伝える。我々はそこに自分自身の姿を見、自分について多くのことを知る」

ベラルーシの観客が、小津の映画のなかに正しく彼ら自身の姿を見出してくれたことを嬉しく思うと同時に、小津映画の持つ普遍性を改めて認識させられた。

「小津映画は、世界に通用する超一級のコンテンツである」。今回のベラルーシ滞在を通してその思いを強くした。世界にはいまだ小津が知られていない国や地域が無数にある。今回のベラルーシでのレトロスペクティヴの成功をうけて、国外で小津を紹介する動きが今後ますます活発化していくことを切に願っている。

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『お早よう』(小津安二郎監督、1959年、松竹)上映後のディスカッションに残ってくれた観客との記念撮影。このポーズは劇中で子役が見せているもので、実はこの映画のクランク・アップの記念撮影でも小津組のスタッフが同様のポーズをとって写真に収まっている。

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