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プロトタイプ個人的使用及び対抗用シーライオニング論(仮) 質問側と応答側の信頼構築コミュニケーション 他論への反論批判等 全編無料投げ銭付

結論:

シーライオニングは人が関わる上でほぼ必ず発生するし、老若男女誰でもし得るし、実際しているものである。ある人は問答法と呼び、ある人は修辞的疑問と呼び、ある人は素朴な質問と呼び、ある人はシーライオニングと呼ぶ。

その行為は同一対象であっても呼び方や解釈が異なるだけである。

シーライオニングかどうかの議論ではなく、その質問の量や質で判断する事が必要となる。

暴言や誹謗中傷をするぐらいならシーライオニングをした方がマシではあるけれど、応答側に不要な負担を強いるだけであるなら悪意がなく善意と良識に基づいていたとしても、結果としては悪質で、議論妨害にすらなり得る。マシだからと不要に続けるのは控えなくてはならない。

我々は他者の内面を全て正確に見極め把握する事はほぼ不可能であり、「シーライオニングではないか?」と疑問的批判は行えても、「シーライオニングである」との断定的批判は不適切である。(悪意しかないと思われる相手も別の関わり方をすれば良心良識を有している面を発見する事もある。軽率に相手をシーライオニングを意図した悪意ある悪質な人物扱いする事で不快になり憤った相手が本当にシーライオニングをし始めてしまう事すらあると思われる。予言の自己成就ならぬシーライオニングの自己成就。

そもそも悪意がなくむしろ善意で満ちていて的確な質問であっても、応答側は不快になり傷つき疲労する事もある。応答側は説明回答コストを可能な限り下げながらも正確さも両立させる工夫をすべきであるが、許容量を超えた不要な質問はお断りして良い(勿論悪質な質問者には拒絶もあり得る)

重要なテーマについて発信し、誤解をされたり批判を受けたり説明不備を指摘されて放置するぐらいなら発信しない方が良い。発信は1次発信への批判や意見の応答も含めて考えるべき行いである。無責任な言いっ放しによるトラブルは発信側にも非がある。質問側だけでなく、発信側も下調べが必要。それでも起きた場合は批判から学ぶべき。

そして、質問側は開き直るのではなく、質問の攻撃性は可能な限り抑え、不要な質問はせず、最低限の下調べをしてから質問するべき。悪意がなくとも質問には本質的に攻撃性が備わっている。常に質問側に回るのは無責任である。自らも責任を持って応答もすべきである。質問するにもコストやリスクは存在するけれど、回答にはそれ以上に存在する場合が多い事は配慮するべき。

シーライオニングと批判され悪質な人物とレッテルを貼られても質問すべき状況は存在する。その時はあえてシーライオニングを貫いて良いのだが、正当性を見失わない程度に抑えるべきである。

内心の動機や思惑や抱く感情は本人であっても完全に理解や把握や制御が出来るものではない。我々が出来るのは過度なルール・マナー違反に対抗しつつも、適切にスキルを活用し過ごす事である。

固定化され偏った思考に陥ってしまう事が対立を生んでいる要因のひとつと思われる。それ故に質問側に回る事が多い人はあえて回答側を経験し、回答が多い側が質問をしてみるべき。そして質疑に参加せず見守り観察もすべき。

語弊もあるが、あえて主張する。

シーライオニング(質問スキル)を正しく活用し、悪質なシーライオニング(嫌がらせや妨害)は避けて対抗すべきである!そして、シーライオニング自体が曖昧な概念なので、決まりきったマニュアルだけでは不十分であり、地道に対処法を磨き上げ経験を積む必要がある。

以上が結論です。後は何故そう考えるのかの細かい根拠や論理の記述や他のシーライオニングに関する主張への意見となります。

以下は以前私が書いた概念用語の乱用悪用に関するnoteです。基本ほぼ全て無料で読めて残りで投げ銭です。

「シーライオニング」「負の性欲」「ツイフェミ」「ミソオタク」〜便利な概念用語の危険で悪質な副作用とそれに抗する態度〜

以下はアーティさんによる対シーライオニング論のnoteです。要するにクレーム対応とほぼ同じですね。実践的であり、リスクも低く、軽率に他者をシーライオニング扱いするよりも良いと思います。既存の実践で磨かれた技術を調節するだけで対応可能なものが多いです。

シーライオニングを回避するためのメモ

アーティ
2020/07/12

以下はネット論客として一定の知名度と影響力を有する青識亜論氏をシーライオニングの象徴として扱い封じ込めようとする意図があると思われる人物によるTogetterまとめ

青識亜論(せいしき・あろん)が本気で怯える「シーライオニング」とは? 

以下は青識亜論氏によるシーライオニング論。

正しい「シーライオニング」のススメ

青識亜論

このnoteで青識氏はシーライオニング漫画ではアシカが嫌いだと言い放ちアシカの質問に答えない態度こそ不誠実だと述べていますが、いくら当事者であるとしても家にまで押しかけて質問責めにするのは度を越しています。

とは言えアシカを現実でのマイノリティとして考えた場合、たしかにアシカの憤りや問い質したい心情は理解出来ます。この漫画はマイノリティを質問責めにして疲弊させ妨害する行為の象徴として扱われてきましたが、実はアシカこそがマイノリティであり、傷つけられた名誉と権利の為に抗議していると見る事も可能です。

青識氏のnoteより引用

主張に対して「エビデンス」を求めるのは全く当然のことであるし、批判をぶつけられた対象者が、批判者に「建設的な議論」を求めるのは当然だ。
 「あっちへ行け」と追い払って無視するのはもちろん自由であるが、なんら応答せずに耳を塞いで無視するのは、異論者にまともに向き合っていないと言われても仕方がない。
 明らかに、「不誠実」なのはこの漫画の女性の側なのである。
このように不寛容な言葉をぶつけられながら、一生懸命に建設的な議論を呼びかけるアシカは、不誠実どころか、ほとんど誠実さのシンボルであると言っていいだろう。
 私たちもこのアシカ氏のごとく、根気強く誠実でありたいものだ。

まあ極論から反対の極論へ行ってるだけな気もします。個人宅へまで押し入り一方的に日時を決め相手の都合も考えずに質問を繰り返すのは、正当な抗議の目的であったとしても手段は間違っているでしょう。誠実さのシンボルというよりは、自身の権利と名誉の為の抗議であっても度が過ぎれば正当性を失いかねないお話として受け取るべきではないでしょうか。

青識氏は自身の行為やスタイルがシーライオニング扱いされる事に対抗する為に我田引水してる感は否めません。

青識氏は問いかけをする理由を❷つ述べています。

① 批判者の使っている用語の定義や主張の論理があいまいであること
② 「悪魔の証明」に陥りかねないこと

❶の方ですが、青識氏はオープンクエスチョンのメリットである回答者の自由性を確保し、クローズドクエスチョンによる藁人形化を防ぐ目的があるのだと思われます。しかしながら、自由過ぎて回答の難易度や負担が増えて、それで相手側から拒絶されている場合もあるでしょう。完璧な打開策はないのですが、質問以外での健全な議論の方法を模索し確立する必要があるかもしれません。

❷の悪魔の証明を強いる事態への懸念はごもっともだと思います。

なので、漫画の女性は、「私はただ単に個人的にアシカが嫌いなだけ」と言えばよかったし、もし「アシカが差別を助長する」のような無根拠なことを言ってしまったのであれば、「私が言ったことは間違いだった」と素直に認めればよかったのである。
 気高いアシカ氏ならば、それでもなお女性を追い詰めるようなことは、きっとしなかったであろうから。

前半は同意ですが後半は疑問ですね。アシカと自分が同類扱いされているからって過剰に美化するのは不誠実です。

そもそも正当な理由での抗議だったとしても個人宅へ無断に侵入し度を越した方法で執着するアシカが女性の説明や謝罪で綺麗さっぱり潔く納得し去ってくれる保証はどこにもないのですから。それでも自らの非は誠実に謝罪し訂正すべきではありますが。

かつて、人類の哲学史の始まりには、一匹のシーライオンがいた。
 そう、哲学者ソクラテスだ。
私ごときがシーライオニング(問答法)の権化とは、なんとも面はゆい限りである。まるで現代のソクラテスだと言われているようではないか。
(※ネット上にいるジョークの分からない面々に向けていちおう書いておくが、このセンテンスは冗談である)
ネットの大海に臆することなく泳ぎ出すのだ。私たちもまた、問いと答えの奔流をかきわけて進む、勇敢なるシーライオンなのだから。
 この海には、「性的消費」だの、「累積的抑圧経験」だのという、透明な衣を身にまとった暴君たちがいくらでもいるのだ。
 私たちは、大切な人や表現物を守るために、鋭く研ぎ澄ました問いの力をいかんなく振るい、そしてまた、異論者の問いに誠実に答えていこう。

うーん。青識氏は質問に関してはあれこれ言及なさってますが、結局答える側になった際の方法はほぼ言及しておらず、「誠実に謝罪し答えよ」くらいでしかない様な。質問や疑問を作る事には長けていても、答えを提示する事は疎かになっている気がします。いくら誠実な問いかけを続けていたとしても答えが疎かならば結局は不誠実で不毛な存在として評価されてしまう場合もあるでしょう(私も答えるための努力をしなければならぬ身であり他人事ではないのは自覚し反省つつですが

反論も批判もしましたが、一応一定の教育訓練を受けて論客を名乗ってらっしゃるだけに同意せざるを得ない部分もある程度ありました。

以下は青識亜論氏への反論を行ったヒポポタマス氏のnote

【改訂版】青識亜論への反論|シーライオニングの誤謬

ヒポポタマス

ヒポポタマスさんは、「オープンクエスチョンは回答者に負担が大きいので、クローズドクエスチョンを重視し、確認をしながらお互いの差異と共有可能部分を確認していこう」と主張なさっていると思うのですが、私は疑問を抱きました。

クローズドクエスチョンでは相手の主張を想像して確認を求め、はい/いいえの2択(分からない・どちらともいえないの選択肢も含まれる場合もあるでしょうけど)回答してもらう形式になるのですが、ヒポポタマスさんは仮に相手の主張の想像が相手からすると間違っていたとしても、お互いのズレを認識してから話せば良いので負担は少ないはずと仰っていますが、株式会社コンサルタントラボラトリーのサイトではクローズドクエスチョンとオープンクエスチョンのメリットデメリットが説明されております。

クローズドクエスチョンにもメリット有!会話を広げる質問例と活用法

クローズドクエスチョンは話題をコントロールしやすく、比較的素早く回答が得られやすく(テーマや状況にもよるけれど)、物事を明確にしやすく、コミットメントを得やすいです。

しかしながら質問責めにもなり得ますし、話題は広がりにくいです(話し合いが脱線したり散らばった場合には収束させる為に有効でもあるでしょうが)

オープンクエスチョンは相手に自由を認めるので負担も大きくなるかもしれませんが、自由であるメリットがそれに勝る状況ならオープンを選ぶべきだと思います。

ヒポポタマスさん自身がクローズドクエスチョンと相性が良くて、その手法が通じやすい相手と話題を選んでいたのもあるのではないでしょうか(ヒポポタマスさんも人によって向き不向きは違うと仰っていますが、クローズドクエスチョンアゲでオープンサゲで終始していたのでバランスが悪いです。

クローズドクエスチョンのメリットに「話題をコントロールしやすい」とありますが、これがそのままデメリットにもなり得ます。たとえ回答コストが軽くても、場を仕切られる感覚が不快であり容認出来ない方もいらっしゃるであろうことは想像に難くありません。

自分も答えたり、オープンもクローズドも両方のクエスチョンもメリットデメリットを理解し適切に使い、時にはあえて語らず黙って相手の主張に耳を傾ける事も大事でしょう。

あと、小さな合意の実例としてiskwさんのサポートメンバーと思われる方とのやり取りを提示なさっているのですが、なあなあで終わっていて、確かに会話は打ち切られずに良好な関係の様に見える形ですが、それ以上の発展は見込めず、その場限りで終わっているだけなのではないかと思ってしまいました。小さな合意自体が目的化してそこで終わってしまってないでしょうか。

参考:京太郎のブログ

2020-07-18
シーライオニングとネット論客の詭弁術

今回何気に推考して時間をかけたのでいつもより投げ銭設定が高めです。ご支援いただければ活動の励みになります。宜しければお願い致します。

それでは投げ銭ゾーン!

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