翻訳エッセイ#2と#3において、翻訳者として必要な能力について述べた。だが翻訳するにあたって、もう一つ必要なことがある。何か? 体力 である。 これは別に翻訳だけに限らないのだろう。どのような仕事でも、肉体労働はもちろん頭脳労働でも、何かを成し遂げようとするなら体力は絶対に必要である。むしろ頭の良さよりもこちらの方が重要である。 翻訳は頭脳労働で体力はそこまで重要じゃないという印象を持たれるかもしれないが、そんなことは全くない。 翻訳を開始する前までは私は本を読んだ
自己肯定感という言葉はよく耳にする。大抵は「自己肯定感を持て」とか「自己肯定感は大事だ」というように肯定的な意味合いで用いられることが多い。 実際の所、自己肯定感は本当に大事なのだろうか? 私は確かにそれは大事なものだと思っている。自己肯定というのは自分を受け入れることであり、幸福において欠かせないものである。当然だが自己を否定する人間が幸福になれるとはとても考えにくい。 また、仕事等においても自己肯定感は重要になってくる。仕事等をしていれば辛い時、ハードな
ドイツ語の髭文字をご存知だろうか?昔からドイツ語の文字として使われていた文字体で、かなり芸術的な風格を感じさせるものである。だがヒトラーが政権を取ったあたりから現在の一般的なアルファベット文字へと変更された。 細かい歴史については私の専門とするところではないので割愛するが、訳あってこの髭文字に取り組んでいたことがある。ここで字体そのものとしての髭文字について私の感想を交えて紹介したい。 髭文字について私が思うことはややこしいということである。これに尽きる。文字として紛らわ
ここでいう「文学」というのは漱石とかシェイクスピアとかだけではない、一般的な小説を指す。 こういった文学がここ最近(いや結構前から)売れていないのは多くの人間が耳にするだろう。 具体的な統計としては次のグラフがある グラフは基本的に下降気味なのは一目瞭然である(特に雑誌が著しい)。また下のグラフ上はあまり目立たないが「文学」の要と言える「文庫」と「文芸」の売上も下がっている。2006年では両項目合わせて3100億あったのが2022年では2000億になっている。15年とちょ
街中を歩いていると、時々絵画が陳列されて売られているのを見かける。絵は大抵は西洋古典絵画の伝統を受け継いだ(ように思える)作品である。風景画が多いような気がする。 そして大抵はびっくりしてしまう。何かというと値段にである。 本当にびっくりする。数万どころか数十万の値段が設定されているのだ。 私は絵画については素人なので細かく批評することは出来ないものの、絵画の出来ははっきり言って大してうまいとは思わない。見る人が見れば違うのかもしれないが、心打たれることはない。数千円の値段
先日は上の「翻訳において必要な能力」について簡単に書いた。ここで文芸翻訳、すなわち文学作品において必要な、もう一つの能力について語りたい。 文学作品とその他の文章との間には大きな違いがある。それは感性である。 契約文章や説明書においては感性的なものはほぼない。というか極力排除されていて、できる限り淡々と述べられていく。 それに対して文学作品は「感情」なるものが大いに込められていて、とても感性的である。そして文芸翻訳者はこの感情、感性をどのように母国語で表現するかが問われる。
本格的に翻訳をしていきたいと思っている人に、翻訳において必要だと私が思っている能力を簡単に説明したい。 1. 翻訳する言語の能力 翻訳の原典にあたる言語の読解能力。例えばドイツ語から日本語に翻訳する場合、ドイツ語ができなければならない。これは当たり前であり、誰でもわかるだろう。なので説明は省く。 2. 翻訳させる言語(ほとんどの場合母国語)の能力 上のドイツ語の翻訳だと、日本語ということになる。 まず日本語へ翻訳する場合、日本語としてちゃんとした文章にならなけれ
私はYouTubeで何度か他人のチャンネルに出演させてもらったことがある。 そしてアイディア等が豊富だから、それを伝えるために自分のチャンネルを作ろうかとも思ったことがある。だが結局作らずじまいで今後も結局つくらないだろうと考えている。 その理由の一つは単純に面倒臭いからである。動画を撮影して、編集して、字幕をつけて、他にも色々と手を加えなければならない。その時間がない、いや、時間はあるが、あるんだったらそれを実際の翻訳活動に手を回した方がいいとどうしても思ってしまう。
世の中、社会、人生というのは理不尽である。誰もがそれを身をもって知るだろう。 だがなぜ理不尽なのか?私の考えとしてはそれは社会が 戦場 だからである。 戦場といっても、もちろん暴力を互いに振るったりするわけではないし、銃を撃ち合うわけではない。 だが直接的にしろ、間接的にしろ誰かが誰かを蹴落とすことは常である。 自分が大学に合格することによって知らない誰かを不合格にする 自分が会社に内定することによって知らない誰かを内定させない 誰かを結婚相手として選ぶこと
現代における最も大きな格差とは何か? それは経済格差、ではない。もちろん、現代でも上と下の持っている資産の格差は相応のものがある。ただ現代では下の階層にいる人間でも相応の暮らしができるようになっている。昔なら裕福層しかできなかったような暮らしができるようになった、いや、もっというなら昔の富裕層以上の暮らしができるようになった。衣食住は満たされ、スマホにより動画も見放題だし、最低限の設備が整えられればオンラインゲームだってやりたい放題である。経済的に不況になっているとはいえ
私は今年八月に出した翻訳作品、サマセット・モーム著『彩られしヴェール』について少々語りたい。 私が翻訳している作品は全て著作権が切れていたため訳すのは自由だったが、この作品だけは著作権が切れていなかった。なので出版社にお願いして、こちらが費用を払うことで著作権の獲得を依頼した。著作権の空きがあったので無事OKということになり、すぐに翻訳に取り掛かった。 この作品を初めて知ったのはイギリスのアマゾンサイト、www.amazon.uk でである。モーム(Maugham)の名
学生の不登校が増えているという記事をよく耳にする。 子供の数は減少しているにも関わらず絶対数が増えているのだから、想像を超える以上にひどい事態になっているのだろう。 ではなぜ増えたのか?資料集めを一切していない、推測に基づく話になるが、少々語っていきたい。 一つの大きな理由としては、学校教育に意味がなさなくなっている、というのがあるだろう。今はインターネットでいくらでも調べられ、さらにChat GPT等のAIでわからないことがあればいくらでも聞ける。 応仁の乱の年代を
哲学において誤解されているところが一つあると思っている。それは「哲学を研究する」ということと「哲学する」ということがごっちゃになっていることである。これについて「哲学を勉強する」ことも含めて、私の考えを述べたい。 「哲学を勉強する」、というのは基本的に哲学史上の知識を取得していくことが主である。古代ギリシャの哲学はどのようにして生まれたか、カントの形而上学はそれまでの哲学とはどう違うのか、ルソーの政治哲学の独創性は、ハイデガーは何を主張したか、等々である。基本的には知識の取
先日このような物騒な記事が出てきた。 私は以前吉祥寺に住んでいたことがあり、三鷹市といえばその隣あたりだったと思うので、かなりこのヤバさを肌で感じ取った。それ以前も闇バイトに関する記事で盛り上がり、本格的に日本の治安が悪化してきているのは間違いない。 私はこれを危険だと思いつつも、プラスの側面としても捉えている。 つまりこれから本格的に日本は経済成長の段階に入ったということである。 この治安が悪化するのに経済成長、と聞くと矛盾しているように思えるかもしれない。だが経済大
昨日選挙が行われた。今まで半ば固定化していた政党勢力図はかなり変わり、本格的に日本が動き出して激動の時代が来ようとしているのがわかる。 特に社会保険料の額があまりにも高くなり過ぎており、それができるだけ是正させることは早急に必要である。 ただ、根本的に日本国民の生活が良くなることはないと思っている。それは今回の選挙の結果がどうということではなく、どのような政治になろうとも同じである。 それはつまり、日本は民主主義だからだ。民主主義というのは読んで字の如く、国民が主人
インフレと円安により、日用品、特に食事関係の値上がりがかなり著しい。人々の生活がどんどん苦しくなっているのは否が応でもでもわかってしまう。 「失われた三十年」とした日本のデフレ社会を否定的に捉える人間は多いが、その時は少なくともアルバイト程度の給料でも歴史的観点からみれば相応にいい暮らしはできたことは確かだ。だが今は稼がなければ生きていけない時代である。「金のために働くのは汚いことだ」と言えたのは金に余裕があったからに過ぎない。 日本は今まで高度成長期とバブルで巨万の富を