はじめまして。パニック障害持ちのケアワーカーです。
僕はパニック障害です。なった事がある人には分かると思いますが、ほんまに厄介な病気です。
初めてなったのは、複合機、要はコンビニに置いてあるコピー機の飛び込み営業をしていた時でした。
毎日担当エリアの会社にアポ無しでひたすら訪問しては断られるという事を続ける日々。
僕にとってはまるで、当たりの無いくじ引きをしているような、砂場に落ちた砂を探しているようなそんな感覚で、全く楽しく無く、苦痛でしかない仕事をしていました。
「入社してから3ヶ月の間に売れなかったらクビやからな。」
そう言われて始まったのですが、奇跡的に僕は入社して1ヶ月足らずで売れてしまいました。確か当時の会社の新人記録やったそうですが、その時も嬉しさも達成感も無く、「たまたまやん。こんなん運やん。」と周りが褒めてくれても内心そんな事を思っていました。
それから約1年間全く売れませんでした。
それでもとりあえず休まず出社はしていましたが、その頃には会社に僕の居場所は無く、先輩と一緒に営業車でエリアまで行く時のただの運転手みたいな1年を過ごしていました。
「早くクビにしてくれへんかな〜。」と考えていたそんな頃、また、たまたま売れてしまって、そこからも運良くちょこちょこ売れ出して、ほんまのノルマ地獄が始まりました。
上司からの毎日の叱責、社長からの朝礼での名指しでの罵声。灰皿を投げられそうになったり、会社から支給されたiPhoneには毎日「お前今日売れんのか?」と何度も電話で聞かれ、時には「お前今日は売れるまで帰って来んなよ?分かったな。」と言われ、一日中歩き回って、半泣きになりながら会社が全て閉まるまで訪問を続けて、結局成果なく惨めな気持ちで帰って怒られました。
どうしようも無くやる気の出ない時に、公園のベンチでボーっと座っていると、GPSで行動を監視されていたので、当然叱責の電話が鳴りました。精神的にボロボロになっていくのを感じていても、それでもたまに売れてノルマを達成して表彰されたりしても、何のやりがいも無く、毎日プレッシャーに押し潰されて無理矢理たくさんの会社を訪問している日々でした。
僕はその時に人生で初めて死の恐怖を体験する事になりました。
いつものように憂鬱な気分で営業車でその日の担当エリアに向かう途中、突然息苦しくなって、心臓がバクバクして過呼吸が起きました。瞬く間にどんどん症状は酷くなり、息が出来ないぐらいの過呼吸になり、手足は震えて、めまいがして、気持ち悪い冷や汗も止まらず、自分の体が自分で制御出来ない感覚になりました。しかも運悪く運転中でした。「やばい事故する。死ぬ。」そう思い、なんとか路肩に停車しました。その時の記憶は今でも曖昧です。
どこにどうやって車を停めたのかも覚えていません。ただよく事故せぇへんかったなとは未だに思っています。
停車しても全く症状は治らず、しばらくは過呼吸と手足の震えで身動きがとれず、どうして良いのかも分からず、そのまま治るのを待っていましたが次第に頭もボーッとしてきて、何が起きているのか意味が分かりませんでした。
それからしばらくして、ようやく症状が落ち着いたものの、何が何やら全く分からずその日はとりあえずゆっくりと営業車でエリアに向かって、そのエリア内をただただ歩いて、たまにちょこっとだけ、全く熱意の無い飛び込み営業をして1日を過ごしました。
その日は朝に起きた発作が、1日の中で断続的に何度も襲ってきては、その場でヘタリこんでを繰り返し、運転も普段の何倍も注意をして、いつでも停まれるようにしながら会社まで帰ったと思います。その日の記憶は今ではほとんど何も思い出せません。頭の中が不安と恐怖に支配されて、何をしていたのかほとんど記憶に残っていないのです。
そして、翌日会社を休んで近くの精神科を受診する事にしました。人生初の精神科には、入るのは何故か勇気がいりました。
そして僕は、それがパニック発作やったんやという事を知りました。ついでに、鬱病も併発していると告げられました。
「限界や。」そう思って僕は飛び込み営業の仕事を辞めました。
当時29歳。
30歳を目前にして仕事も色々転々としてきて、僕は自信を無くしていました。
パニック障害と鬱病は幸いにも、飛び込み営業の仕事を辞めたらすぐに回復して、1ヶ月程度で落ち着きました。服薬で発作そのものも日常では起きないまでにすぐに回復したのです。
そうすると、今度は仕事の事をちゃんと考えて焦ってきました。自分が続けられる仕事ってなんやろう?
そう思った時にまず思い出したのは、かつて1年間程経験したリハビリデイサービスでの仕事でした。
僕が初めて仕事を通じて本気で感動をした仕事。
これまで歩けなかった人が、一人で施設内での体力測定で、5メートルを必死に歩いて、
歩ききった時には、泣きながら「ここでのリハビリのおかげや、先生おおきに。」と言ってくれた時に、他の利用者の方々も貰い泣きをしていて、当然僕も、初めて仕事中に感動して涙を流しました。
とても充実感のある仕事でしたが、施設の経営難での給料のカットや、結婚して引越す事になり結局辞めてしまったのです。もしあの時に安定した給料が貰えていれば、また引越す事が無ければ続けていたやろうな。そう思えたのです。
ただ、基本的にはデイサービスには送迎業務があります。僕は営業車でパニック発作を起こしてから、運転が少しトラウマになっていたのです。回復してからは、自家用車の運転は出来るようにはなっていたものの、大きな車に利用者の方々を乗せて運転するのは恐怖心があって、今の僕には出来ないなと思いました。
そうして色々悩んでいると、妻から「あんた多分介護向いてるし、私が働いてた施設で働いたら?」と言われたのでした。
悩んでた僕はその一言で、施設での介護職員としての第一歩を踏み出す決意をする事が出来たのでした。
ただ、それでもやっぱり不安でした。
リハビリデイサービスを辞めた後、そのまま介護の仕事では無く、営業職に転職したのは、
「とにかく稼げそうな仕事に挑戦したい。」というお金への執着が一番でしたが、リハビリデイサービスでは経験する事の無かった、利用者の方々の排泄物の処理が出来るかどうかが、 何より不安だったからというのもあるのです。
ただ、当時29歳。色々な仕事を転々として、仕事が長続きしなかった僕は、30歳を目前にしてそろそろ何か手に職をつけて落ち着きたいという気持ちが強くありました。
そんな僕に対して妻から「誰でもやったら出来るから。」という後押しもあり、元々妻が働いていた、従来型の特別養護老人ホームの面接を受ける事にしたのです。
転職サイト等は一切使用せず、施設のホームページから直接応募しました。
するとすぐ面接の日程の返事があり、
いざ面接に行くと、面接を担当されていた方は妻の事を覚えており「○○さんの旦那さんやんね?ひょっとしてと思ってんけど、やっぱりそうやんね!」と履歴書を確認してすぐ気が付かれたようで、何の根回しもしていない縁故採用という事で、その後の質疑応答は覚えていませんが、最後は「じゃあ、いつから来てもらえるんかな?」というその場で採用というとても分かりやすい形で面接は終わったのでした。
パニック障害に対する理解もして頂き、
何の問題も無く採用して頂いた事で、ひとまずホッとはしたものの、ハッキリ言ってその段階では不安の方が大きかったです。
何せ僕は身体介護に関してはど素人。
入職までの間に、妻から色々介護の知識や、
専門用語、また利用者役をやってもらい
実技指導もしてもらい、自分なりにしっかり勉強しました。
ちなみに妻は短大から大学に編入して、そこで介護福祉士の資格を取得。新卒でその施設に入職していたので、まさに生粋の介護士でした。知識も経験も資格もある。最も身近な介護の先輩という訳です。
そんな付け焼き刃の勉強をしている内に、
なんとなくではあるものの、パニック障害で無くなりかけていた仕事をする自信も取り戻してきて、介護の仕事を本気で頑張ってみようと、熱い気持ちも湧いてきました。
そして、年が明けてしばらくすると、いよいよ初出勤の日がやってきました。
まだまだ寒さが厳しくて、それから何度も見る事になる通勤路の、のどかな景色を眺めながら「まだ山の上雪積もってんねんな〜。」と
どうでも良い事を考えながらバイクで走っていたのを覚えています。
初出勤の日。同期入職の男の子がいると聞いてはいましたが、その日初めて顔合わせをしました。話を聞けば、高卒で施設で働いている子の友達という事で、まだ大学生ながらパートとして働くという20歳の男の子。
いかにもチャラいな〜というのが第一印象でしたが、意外と礼儀正しくてお互いに縁故採用という事もあってすぐに仲良くなりました。
そしてオリエンテーションでは、施設についての説明や、基本的な介護の知識についての研修からはじまり、マナーについての研修や、
介護現場で知っておくべき、最低限の医療の知識の研修なんかもありました。
何日かの座学研修や現場見学の後、1カ月の研修期間で、療養棟2フロアとデイサービス(その施設は1階がデイサービスで、2階と3階が療養棟となっている。)を1週間ごとにローテーションで研修として働くとの事でした。
研修初日は訳も分からないうちに終わり、研修の日誌を書いて終了。
研修の内容については緊張で記憶は定かではありませんでしたが、同期の学生くんが、見た目は茶髪でピアスも空いていて、チャラい感じの大学生丸出しの割には、きちんと僕に対しては年上として接してくれる、上下関係をきっちりする子だという事と、彼が座学の研修中に露骨に眠そうにしていた事は印象に残っています。
そして何より印象に残ったのが、介護技術の研修でオムツの巻き方をざっくりと説明してもらった時の事。
正式な呼び方があるのかは分かりませんが、
僕らはよく「陰部巻き」とか「ちん巻き」とも呼んでいる、要は男性の利用者様に対して、通常のオムツの着用に加え、陰部を直接パットで巻いてしまうというやり方を習った時に、指導してくださった方が陰部にみたてて太いマジックを使っていたのでした。
「あのマジックと利用者の方々のちんちんどっちが大きいんかな?」とどうでも良い事を考えながら、ちんちんをパットで巻く絵とメモをノートに真面目にメモしていました。
そして、本格的な現場での研修がスタートしました。まずはデイサービスで1週間研修。
実は既にこの段階で「パニック君は3階に配属やからね〜。」と言われていたので、その階以外の研修は正直「とりあえず経験して、その中で色々身につけていこう!」と、ポジティブに考える事が出来ました。研修を通じて、やっぱり僕は介護という仕事に興味があったんだなと思う事が出来たのでした。
そしてデイサービスでの研修は、基本的に利用者の方々の自宅への送迎に一緒に行き、先輩職員から、その都度指示を受けて動くという単純なものでした。
そこでは特に、利用者の方々に対する言葉遣いやマナー、そしてコミュニケーションについてを主に学ぶ事が出来ました。
研修期間を通じて、正直このデイサービスでの研修が、1番肉体的には楽でしたが、精神的には1番しんどかったと思います。
基本的にデイサービスを利用している方々は、ある程度の事は自分で出来る方が多いので、あまり身体介助をする機会も無く、あったとしても研修中は見学なので、デイサービスでは身体介助については、あまり教わる機会もありませんでした。
その代わりに、デイサービスを利用されている方々は、コミュニケーションを楽しみに来られている方が多いので、このコミュニケーションを取る事が研修生の基本的な仕事となるわけです。
利用者の方々と他愛も無い雑談をしたり、
その方のお話を傾聴するようなコミュニケーションをとったり、またその場の雰囲気をパッと盛り上げたり、静かな雰囲気を好む方にはあえて過剰には喋りかけないように気をつけたり、
ここでは色々なコミュニケーションの取り方と何より観察力について学ぶ事が出来ました。
今思っても、これは僕にとってとても貴重な経験でした。
「誰かとお話ししながらでも、常にフロア全体の様子を観察するように。これは癖づけようか。」と言われた通り、想定していない危険な事をする利用者様もおられます。
楽しくお話ししている後ろで、歩行が不安定な方がいきなり立ち上がってふらふらと歩き出して気づいたら転倒しているなんていうのは、
介護あるあるなのです。
かと言って常にピリピリ緊張していては、
それが相手に伝わりますので、コミュニケーションに支障をきたすので、まさに本末転倒となるわけです。
常に笑顔で相手とのコミュニケーションをとるようにして、その上で常に周囲の様子を観察する。これまで経験した接客業と営業の経験がとても役に立ちましたが、これが思いのほか
神経をすり減らすのです。
だからこそ、めちゃくちゃ時間が長く感じました。話すネタも無くなり、先輩職員に「何かやる事ありますか?」と聞いても「皆さんとコミュニケーションとっててくれたら良いよ!」と言われます。
まぁ確かに、研修期間の僕に出来る事といえばそれぐらいしかないわけです。
ただ、後にこのコミュニケーション力と観察力が、介護職を続けていけばいくほどにいかに大事かという事を感じるのですが、この時は正直「一日が長いな〜、、、。」と時間が経つのが異常に遅く感じて、そんなに体は使っていないのに、1日の勤務が終わる頃にはヘロヘロに
なっていました。
そんな感じでデイサービスでの1週間での
研修は終わりました。
デイサービスでの長い長いコミュニケーション中心の研修が終わると、次は本格的に療養棟、いわゆる世間一般のイメージする『介護』の現場での研修が始まりました。
まずは2階のフロアでの研修です。
2階は満床で60名の方が入所出来る大所帯で、
3階は満床で40名の方が入所出来る居室数があり、入所以外にもショートステイでの利用等も積極的に受け入れていました。
懐かしいコロナ禍の前の話です。
配属先は3階と決まっているという事で、
まずは2階のフロアにて1週間の研修。ここで僕は、特養の人間関係の難しさを痛感する事となったのでした。
施設で働く職員の数は、なぜかいつもカツカツで、なぜか常に業務に追われているのがどこの介護施設でも永遠のテーマだとは思います。
そして2階は、3階に比べて、それが顕著な
フロアだとは事前に聞いていましたが、
実際初めてその雰囲気を体感した時は、とにかく圧倒されました。
フロア内では、常に動き回る先輩職員の方々。顔と名前がまだ全く分からない60名近い利用者の方々。
パッと見では歩けそうな利用者様が、急に立ちあがろうとすると「○○さん!危ないから座っといてな!!」とすぐさま反応し、注意を促す声も、何度も何度も聞こえてきます。
そして大半の方が食事時以外は寝たきりで、
トイレには行けない状態の為、60名の内半数以上の方のオムツ交換をして回る。
それが終わると、食事の為に一斉に離床介助、職員が利用者の方々を介助してベッドから車椅子に移ってもらい、食堂まで誘導する。
一見単純、いや実際単純なのですが、
これはとても時間と体力が削られます。
当然その時間帯は特に、先輩職員の方々も、
ゆとりが無く、研修中の僕には手伝う事も出来ず、手持ち無沙汰な時間が多く、フロアで利用者の方々とコミュニケーションでもとるか〜と思って話しかけに行こうとすると「ちょっと、その人今から寝かせなあかんからどいて!」と、鬼気迫る勢いで先輩職員が風の如くその方の車椅子を押して消えていきました。
「うわ〜、居心地悪いな〜。」と困っていると、そのフロアの責任者の方が「パニック君は3階配属やねんな?残念やわぁ〜!まぁとりあえず2階の事は見学しとく位の気持ちで気楽にやっといてな!」と忙しい中でも、優しく声をかけてくださりました。役職に就いている方が、本当に優しく気遣いをしてくださる方でしたので、その人柄で、一言で僕はかなり救われました。
それでも初めて見る従来型施設の、職員の手際の良さと早さに、僕は相変わらず圧倒されていました。
基本的にずっと職員が動き回り、利用者の方々は従順にもフロアでずっと座っているか、寝ているか。大体の方がそんな感じでした。
その雰囲気を見て、介護初心者の僕は「これが施設の中の実情なんやな〜。」とぼんやりと考えていたのを覚えています。
そんな中、また有難い事に僕の研修指導についてくれた先輩はとても優しい人でした。
「俺が指導して良いんかな?俺まだ入って
1カ月経った位やねん!だからあんまり教えれる事とか無いけどよろしく!」と50代位のいかにも優しい雰囲気の先輩と2人で、手持ち無沙汰な時間に、排泄介助や食事用のおしぼりをそれぞれ分けて、水で濡らして絞って畳むという作業をひたすら繰り返していました。
それが2階での研修中の僕のメインの作業となりました。
そんな中でも、時折時間にゆとりが出来る時があり、その時間を使って実際にオムツ交換の見学や実践をさせてもらったり、移乗介助を教えてもらったりしていたのですが、今でも決して忘れもしない出来事が起きたのです。
ベッドのシーツ交換のやり方を教えてもらい、僕はシーツを交換して回っていました。
介護施設によって、このシーツの張り方や
布団の畳み方は多少違うものの、僕は何せ
ど素人。習ったやり方を頭の中で思い出しながら、自分なりに必死に丁寧にやっていました。
ただ「なんか綺麗に出来へんなぁ。やっぱ俺不器用やなぁ。」と自分でも感じていましたが、急に「ちょっと誰?!このシーツやったん!!」と大声が聞こえると、ナースシューズ独特のコツコツという足音と共に、いかにも元ヤン丸出しのお局様が現れたのでした。
「すいません!僕です!」こういう時は言い訳をせずにすぐに謝る事が大切。
そう思ってすぐ名乗り出て謝りました。
「ちょ、シーツめっちゃ汚いやん!やり直してきて!!」とのご指摘。
「分かりました!すいません!すぐやり直してきます!」と僕は素直に言われた通りにシーツ交換のやり直しへと向かうのでした。
そしてお局様は、何事も無かったかのように何やら他の職員と談笑を始めていました。
他の先輩職員は誰も僕の方を見ないように、
触らぬ神に祟りなしと言わんばかりに仕事を続けていたのが印象的でした。
「なるほど。分かりやすい上下関係やな。」
超体育会系のブラック企業で働いていた経験のある僕にとって、これぐらいは全くもって想定の範囲内だったので、特に気になりませんでしたが、この時に「今後自分の身を守る為に、色々な職員と仲良くしておこう。」と心に決めた瞬間でした。
“介護職はコミュニケーション能力が大事″
と言われるのは、もちろん利用者様との信頼関係を築く為というのが、1番だというのはありますが、残念ながらこういう人が実際に多くの施設にて、存在しているのが、そう言われる理由の一つだと僕は思っています。
まぁこれは一昔前の話なので、現在はここまで分かりやすい人はいないとは思うというか、
いなくなっていて欲しいと心から思います。
2階での研修が終わり、いよいよ配属が決まっている3階での研修が始まりました。
これまでの研修の中で、多少なりとも実技の指導もして頂いていたので、実際に働く事になる研修といえど、実践あるのみという感じで、
3階での研修はスタートしました。
大体新人が入ると噂はすぐに広がるもので「経験者やんね?」「○○さんの旦那さんやんね?」等、色々と僕の情報を聞いてきてくれて、コミュニケーションは円滑にとれてとても働きやすい環境だなぁというのが、最初の印象として残っています。
ただ、リハビリデイサービスで働いていた情報はどこで聞いたのかは知りませんが、残念ながら身体介護は初心者であるとは思われておらず、「経験者ならまぁ出来るやんな!」みたいな感じで業務を振って貰えたのですが、
焦りと不安でいっぱいいっぱいになりながらも、何とか実践の中で、技術を身につけていくのに必死でした。
そんな3階での勤務初日は、もう10年近く前なのですが、未だにハッキリ覚えています。
介助が必要な方の、トイレ介助を順番にやっていた時の事。先輩から「パニック君ちょっと助けて〜!」と呼ばれたので行くと、便器に座っている利用者様が全身便まみれになった状態で鎮座しておられたのです。
これが、僕のターニングポイントになりました。1番不安だった排泄物の処理。
それも、日常ではまぁここまでの状態になっている方を見かける事の方が少ないでしょう。
以前妻に「排泄介助って慣れるもんなん?めっちゃ不安やねんなぁ。」と相談した時には「無理な人はほんまに無理ですぐ辞める。逆に私は利用者さんのう○こ見ながらカレー食べれる。」と言っていて、当時は「俺にそれ出来るんかいな?」と不安に思いながらの施設介護。
そして実践初日、僕はいきなり上下の衣類から溢れるばかりの大量の便を目の当たりにしました。
そして思ったのです。
「あれ?別に何も不快感無いな。」
「それより早く綺麗にせなあかんな。」
こう思えた時に、僕は介護士としてようやく本当の意味で第一歩を踏み出せた気がしました。
それから現在も、僕は変わらず介護の仕事を続けています。
僕にとってあの日、洪水の如く溢れている便を見ても、全く不快に思わなかったというたったそれだけの事が、とても大きなターニングポイントだったのでした。
だから今でもあの時の光景は鮮明に覚えているのです。僕の介護士としてのスタートは、
服の背中から出るぐらいに、大量に出しきって、不快感もあるでしょうが、それ以上にスッキリしたのでしょう。トイレで僕と先輩の2人がかりで全身を清拭し、着衣の交換をしている最中も穏やかな笑顔を浮かべていた男性でガタイの良い利用者様の事は忘れません。
ただそれだけの事なのですが、僕の中では
「介護の仕事、やっていけそうやな。」と心から思えた瞬間だったのです。
なのであの日、前日の夜に下剤を服用し、
朝にトイレに間に合わなかった利用者様の事は今でもハッキリ覚えているわけです。
あの利用者様のう○このおかげで、仕事を転々としていた僕が今でも介護の仕事を続ける事が出来ているのだと思っています。
研修期間も問題無く終わり、仕事は順調そのものでした。どんどん仕事を覚えていき、他の職員ともすぐ仲良くなって、何より利用者の方々を愛おしく感じられて、前職では全く感じる事の無かった充実感を感じて働いていました。
懸念としていた排泄介助も、いつしか慣れていき、妻が言っていた「う◯こを見ながらカレー食べれる。」という気持ちも分かりました。
それに何より業務では、タイムスケジュールを意識して動かなければならないものの、
職員にはノルマは設けられていません。
失礼は重々承知ですが「ノルマ無いし、決まった事やるだけなんて、めっちゃ気楽やん!」と前職が飛び込み営業マンの僕には感じられていたのです。
心から天職だと思って働いていました。
そうして、働き始めてすぐに実務者研修を修了し、色々な経験を積みながら3年が経ち、介護福祉士の試験にも合格しました。
ちなみに、本来ならリハビリデイサービスでの勤務期間も合わせればもっと早く受験資格を得られたのですが、残念ながらその施設は既になくなっており、勤務期間の証明書がもらえなかったのです。
働く年数が長くなるにつれて、どんどん周りの人は辞めていき、どんどん業務負担が増えていく事に若干の危機感は感じながらも、それでもいつしかベテランと呼ばれるようになり、
役職にも就く事にもなりました。
人生初の役職でした。
そうして益々仕事に邁進していた頃に、
僕の中では治ったと思っていたパニック障害が再発して、僕は目の前が真っ暗になってしまいます。
役職に就いて、給料も安定してきて、何より仕事を転々としてきた僕が、しっかりと腰を据えて働けているという事で、元々の妻の実家を建て替えて二世帯住宅にし、妻と娘と義理の母と生活をしていました。
ただ、いざ一緒に住み始めると、どんどん義母との性格の不一致が露わになってきて、もう顔を合わすのも嫌な状態になっており、家庭内別居のような生活をしていました。
そうした日々の積み重ねと、ある日の事件を
キッカケに僕はパニック障害を再発して、
仕事に行けなくなりました。
重度のパニック障害と鬱状態。
そう診断された僕は、人生で最も長く苦しい時間を過ごす事となりました。
そもそも、二世帯を建てたのが僕の人生に、
とってのターニングポイントでした。
今でもたまに思います。「もし、あの時に同居とマイホームの購入をせぇへんかったら今頃はどないなってたんかな?」と。
それは介護職に就いて、ようやく腰を据えて働ける環境に落ち着き、ちょうど役職に就かせて頂いた頃の話です。
そんな頃に、妻と義理の母からある提案をされました。「うちの実家を建て替えて二世帯住宅にして同居してくれへん?」と。
元々妻の希望で、妻の地元に引っ越してきており、いつかはそうなるかもしれないなとは思っていましたし、義母とも特に仲も悪く無かった僕は、土地代無しにマイホームを持てるというその提案に魅力を感じて、いくつか条件を出した上で了承しました。
その条件は『自分が引きこもれる部屋を必ず作る事。』『ローンの月の支払いは65,000円までに抑える事。』『土地は僕、もしくは妻の名義にしてもらう事。』以上の条件を了承してくれるならという事で、二世帯住宅を建てて同居しても良いよと妻に伝えました。
ですが、実際に家の見学や見積もり等が始まると、そこからどんどん雲行が怪しくなってきたのです。
義母は僕の思っていた100倍自分勝手でわがままで、僕の気持ちをないがしろにする人だったのでした。そして妻は、僕の話は聞いてはくれるものの、我の強い義母には逆らえないという感じでした。
まずはいくつかの大手ハウスメーカーを回り、こちらの要望を伝えて見積もりを出してもらいましたが、僕としては、まさかここまで注文住宅が高いとは思わなかったです。
要望をかなり削られた形で、予算を優先して出された見積もりでさえ完全に予算オーバー。
「これは大手では話にならへんな。」と僕は早々に諦めて、その意向もハッキリ妻に伝えて、妻も同じ気持ちだったようで、即座に「ちょっと高過ぎるし、大手は無理やね。」と言っていて、妻とは意見が合意していたので、それは義母にも伝わると思っていました。
なのに、その後もなぜか僕の休みや夜勤明けの日に、勝手にハウスメーカーとの打ち合わせの申し込みをどんどん申し込まれ続けました。当然どこも例外無く予算オーバーで、その都度後日、ハウスメーカーにお断りの電話を入れるのは僕の役目。「無理やって言うたよな?」と、段々腹が立ってきて、ある日いくつめかのハウスメーカーでの打ち合わせで、僕はキレてしまいました。
余談ですが、僕は元ラグビー部。大学の頃には弱小ながらそれなりに本気でラグビーをやっていて、若気の至りでちょっとイキっていた時期もありました。当時街中で絡んできたヤンキーや酔っ払いに、正当防衛をしていたぐらいには。
僕の意に沿わないハウスメーカーとの打ち合わせ中、既にキレていたので僕は露骨に態度に出してしまいました。
相手の方には大変失礼な事をしてしまったとは思いますが、そんな配慮も出来ない程に、僕は頭に血が上っていました。
当然予算は既にオーバーしていて、断る事は前提なのに、何時間もそんな不毛な時間に付き合わされているものだから、打ち合わせ中に舌打ちをしたり、図面も見ずに頬杖をついて脚を組んで「ご主人はどう思われますか?」と意見を聞かれても「えっ?何が?聞いてへんかったわ。」という最低な態度です。
そうして最悪の雰囲気の中で打ち合わせは終わり、帰りの車の中で義母に叱責された僕は、ここぞとばかりに不満をぶちまけました。
「勝手に話進めんのもえぇ加減にせぇや!大体予算的に無理や言うてるやんけ!!無駄な時間に付き合わされるん鬱陶しいんじゃ!こっちは仕事もあって忙しいのに迷惑なんじゃ!!」と。初めて義母にキレました。
妻が泣き出して「お願いやからやめて。」と言ったので、結局は消化不良で終わりましたが、あの時は手が出そうな勢いで僕はキレていました。
こう書いていると改めて思います。
その時点で、同居してもうまくいくわけが無いと、もっとちゃんと考えて話し合っていれば良かったなって。
義母と喧嘩してからも、二世帯住宅を建てるという話は進んでいきました。
妻と義母の2人の中では、もう二世帯住宅を建てて同居する事は既に変更するという事は無いと決意は固まっていたのでしょう。
そして、人生において、もう2度と出来ない大きな買い物を後悔したく無いという思いは僕にもありました。なので、ある日妻と2人で知り合いに紹介してもらったハウスメーカーに相談に行くと、なかなかに良い条件の提案をしてくれて、僕も妻も納得してそこにお願いしたいという事を2人で同意して、後日義母にも一緒に話を一緒に聞きに行って欲しいという事を伝えると、義母は「なんや私だけ除け者にして!!どうせ私が鬱陶しいから2人で行ったんやろ!そんなん私行けへんわ!!」と拗ねて、悪態をついて、聞く耳を持ってくれませんでした。
その事をキッカケに僕は、「もう良いわ。」と諦めて、最終的に僕の出した条件をある程度満たしてくれたら、もう他はどうでも良いわと妻には伝えて、家作りの事は完全に妻と義母に丸投げしました。「どうせ俺が何か言うても無駄やから、妻に任せよう。なんとか最低限の約束は守ってくれるやろ。」僕は妻を信じて託しました。
そして、気がつけば義母はイキイキと工務店等を色々調べて妻と一緒に色々なところに話を聞きに行っていました。当時専業主婦の妻も、無職の義母も、時間のゆとりはたっぷりありました。
そして結局は、2人が決めてきた工務店に依頼する事となり、僕は事後承諾をして、勝手に話を進めていってもらっていました。
何回目かの打ち合わせで、そろそろ設計図が出来てきたという事で、さすがに僕も一緒に打ち合わせに行く事になりました。
結論から言うと、僕の要望は完全にないがしろにされていたのでした。
最優先は義母の要望。そして当時猫を8匹飼っていたクソババァとそれに育てられたクソ嫁は、僕より猫の生活環境を大事にした家づくりをしていたのです。
1番譲れない事として伝えていた僕のプライバシーを守る部屋は、子ども部屋を2つ作るから、そのうちの1つを使えとの事。僕が沈黙していると、妻から「将来的に2人目(既に娘は生まれていた。)が出来たら、その子に与えるけどね。」と言われました。
そして予算は、ほぼ大手ハウスメーカーの予算と変わり無わらないものでした。
怒りや呆れや、ショック。色々な思いが頭の中でごちゃごちゃになって笑えてきました。もうどうでも良くなりました。
結局、唯一家づくりの中で意見を求められ、唯一採用されたのは屋根の色だけです。僕がローンを組む家で、僕の意見が反映されたのは屋根の色だけなのでした。
僕の意見をものの見事に無視して出来上がった家の見積もりを見て、妻と義母は大層満足のご様子。そして、その後何度かの打ち合わせの後に、僕は契約書にサインと押印をする事になりました。
そこから、ローンを組む銀行を探してもらい、ローンが通れば契約成立。着工へと進んで行くわけです。
妻にだけは、その場で念押しで「このローンの金額俺の稼ぎだけでは無理やし、貯金も出来へんで?それでも良いんやね?」と念押ししました。すると妻は「それは私も近いうちに正社員で働くに決まってるやん!その為に同居してもらうんやから、あんただけに責任負わせる気は無いから大丈夫!」とハッキリ言いきってくれたので、その言葉を信じてサインしました。
(あれから6年。妻は未だ時短パートです。未だ正社員として働く気配は無いように思います。「もう正社員として働くの無理やわぁ。」と最近言っていました。)
書類記入後、工務店の方と僕で具体的なローンの事を相談していると、義母は「あ〜どうせこの子普通の銀行のローン通りませんよ!仕事これまで転々としてるしねぇ、信用がねぇ。」と小馬鹿にしながら言われた事を、僕は今後も一生忘れないでしょう。
(義母は社会人経験3年程度。その後結婚して専業主婦。離婚して実家に戻ってずっと親のお金で暮らしてきて、今は国民年金で暮らしていて、二世帯住宅の話の発端もこのままやと生活保護になるから同居して欲しいと言ってきたからです。)
結局、僕は僕の要望が全て無視された上に小馬鹿にされて、ちゃんとした銀行でちゃんとしっかり35年のローンを組む事になりました。
もう色々考える事を放棄していました。
屋根の色以外、僕の意見を全て無視された結果。義母と妻の概ね理想通りの家はいつの間にか完成しました。
自分の城を手に入れたという感覚は全く無く。
「これに俺は、65歳までのローンを組んでんな〜。」と殿様気分どころか、年貢を納める農民の気分でした。
土地は義母名義。と言っても義祖父から受け継いだだけのものらしいのですが、この名義変更も義母は決して譲ってくれませんでした。
何かあったら、権利を主張して追い出そう、もしくは離婚となった時には円滑に進むようにせめて妻の名義にしておいて欲しいという淡い希望は当然ながら通りませんでした。
建物は僕名義。2,900万円の35年ローン。
月々約78,000円の返済。
新築での二世帯同居といっても、基本的に家の構造は普通の家とほぼ同じ。せいぜい1階と2階に洗面所とトイレがそれぞれにあるだけで、あとは義母の部屋に台所があったり、義母の希望で畳スペースがあったり、義母の希望でアレルギー持ちの娘がいるにも関わらず猫が8匹飼われており、家中をウロウロして、思う存分に壁や床を引っ掻いて家の価値を下げてくれているだけで、僕は文字通り子ども部屋おじさんになる決意を改めて固めました。
僕の名義の家なのに、、、。
あとは、料理が嫌いな妻のこだわりのダイニングキッチンやら色々ありますが、僕は何もかも無視されて出来上がった家の事はもはやどうでも良くて、早々に自分の、そして将来の子ども部屋の環境だけ整える事だけを考えていました。その頃には、もう義母に対してハッキリと苦手意識を持っていましたし、家族の中で唯一僕だけが他人というような感覚もありました。
なので基本的には、妻を通じて義母とは2階の特に僕の部屋だけは不可侵条約を結んだので、基本的に引き篭ろう。そう思っていました。
幸い不規則シフトの介護職。
食事時間は家族とバラバラなので、日常の中で義母とも顔を合わせる機会はほとんど無く、妻と子どもとは楽しく暮らす事が出来ていました。
ただ、やはり義母はパワフルなサイコパスでした。同居が始まると、様々な場面で無自覚でしょうが、僕はストレスを感じました。
まずは娘の子育てに頻繁に口を挟んでくるのはほんまに不愉快でした。
あと、お風呂が1階のちょうど義母の部屋の横にあるので、僕が入浴する時は部屋のドアを閉めていて欲しいとお願いしても閉めてくれませんでした。放し飼いの猫の為にです。
義理の親子とはいえ、全裸を見られるのには抵抗がある為、入浴という日常のリラックスタイムでさえ気を遣いました。それにわんぱく盛りの子どもとお風呂に入った後に、子どもは無邪気に走ってリビングまで出て行くのですが、僕はとりあえず脱衣所で急いで全身拭いてパンツだけは履いて追いかける事になりますが、 脱衣所で急いで汗をかきながら、慌ただしくまだきちんと拭ききれていないまま急いでパンツを履いていると「あ〜あ〜びしょ濡れやん!ちゃんとパパに拭いてもらえへんかったん?」と外から義母の声が聞こえてきました。
僕は脱衣所で、ドライヤーまでかけて化粧水までしっかりつけてゆっくり身なりと心を整えてから出るようにしました。
そして、食事時間は別なのにいつの間にか家族全員の食器の洗い物は全て僕の役割になっていました。日勤の時は基本的に残業をするので、帰る頃には食事は終わっています。
早出の時は、帰る頃は僕以外の家族団欒なので、僕は仮眠をとってから夕食に行くと僕の食事と洗い物だけ残してくれています。
夜勤の時は、明けで帰ると夕方過ぎまではとりあえず寝るので、そこから起きてダラダラと過ごしてから1人で夕食を食べます。
ちゃんとその時も、僕の夕食と洗い物は置いておいてくれました。
義母が僕の陰口をちょくちょく言っていたのは知っていましたし、直接的に嫌味も言ってきました。本人は嫌味と思っていないのがやっかいです。妻曰く、義母は他人に嫌味を言っているという自覚は無いらしいと聞きました。
「わざわざ同居している娘婿に嫌われて、お前に何のメリットあんねん?」と思っていたのを妻が察して教えてくれました。
僕が体調不良で仕事を休んでいると、
「私らの頃は熱なんぼあっても仕事休まれへんかったけどな!」と社会人経験3年程度しかないはずのお方が言ってきます。ちなみに陰では僕の事を「あいつ」と言っていて、娘にも僕の悪口を言っているのも知っていました。
娘が純真無垢に「ばぁばがな、パパの悪口言うてきて嫌やった。」と教えてくれました。
ある時には義母が妻に僕の陰口を言っている場面に遭遇した事もありました。さすがにこれには我慢出来ず、気まずい雰囲気の中で去り際に「陰口やったらせめて本人に分からんように言うてくれや!」と言って去りました。
その後は妻とも少しの間気まずかったです。
また、友達のいない義母の唯一の理解者の義母の姉が家に訪ねてきた際の事です。
義伯母は、元公務員で定年まで勤め上げて、悠々自適な年金暮らしで、自分の子どもたちとも良い距離感で生活しているそうで、僕の娘の事も、実の孫のように可愛がってくれていて、事あるごとにお祝いをくれたりもして、僕に対しても凄く優しく接してくれるよく出来た方というイメージです。「この人が義母なら良かったのに、、、。」と何回も思いました。
そんな義伯母が娘を可愛がってくれながら、「どうや?やっぱり孫は可愛いやろ?最高やろ?」と、義母に言っていたら「そんなん、私にとったら猫も孫も一緒やわ。」と言ったのも僕は一生忘れないでしょう。
義伯母も「あんたなぁ、、、。」と苦い顔をしていました。
そんな同居生活。職場では役職として業務内でも気を張って、通常業務以外にも抱える仕事は増えてきていて、やりがいは感じていましたが、ストレスは溜まりまくっていました。ただ、割合でいうと仕事のストレスは2割で残りは家庭のストレス。というか義母との同居のストレスという感覚でしたが。
仕事が終わっても、家に帰るのが嫌すぎて職場の喫煙所で1時間ぐらいボーッとしていた事は何回もありました。幸い職場では喫煙所で僕の雑談に付き合ってくれる同僚もいたりしたのは救いでした。帰りに無意味にコンビニに寄って、そこでも時間を無駄に浪費するのがルーティンになっていました。
それでも部屋にこもって筋トレしたり、休みはジムに行ったり、2階で子どもと遊んだりしてなんとかストレス発散していました。
不可侵条約で、2階には義母は入らないというルールだけは守ってくれていたので、2階だけが僕の聖域という感覚で、2階だけが家族の団欒の場所という感覚でした。
そんな不満だらけの生活の中で、決定的に義母と僕の中が悪くなる出来事が起こってしまったのでした。
ある日のこと。僕は休みでいつものように自室にこもって携帯をいじってダラダラしていました。
そうすると、何やら1階のリビングで妻と義母が言い争っているのが聞こえてきたのです。
「めんどくさ、絶対関わりたく無いわ。」
そう思いながらもどんどん口喧嘩がエスカレートしているのが分かりました。
妻は妻で僕と義母の不仲による板挟みの状態がストレスだったのです。その事は、時折妻から直接聞いていました。
妻にとって、どちらを優先する事も出来ないし、どちらも大事。だからしんどいと前々から聞いていました。
ただ、僕としては同居を切り出したのはそちらだろうと、そして被害者意識もあってストレスも溜まりまくっていたので、妻へはその時は口では謝罪や労いの言葉をかけましたが、内心では「いや、お前がもっと頑張れば、もうちょいどないかなったんちゃうんか?」としか思わなかったし、同情をする心のゆとりもありませんでした。
そして、ついに何かのキッカケで妻がキレたようでした。義母には禁句がいくつかあるとは事前に妻から聞いていたのですが、最大の禁句は「働け。」というような仕事に関するワードは義母にとっては、最も自尊心を傷つけられる事らしいというのは知っていました。
義母の年齢は、世の中ではまだ働いている人もいる年齢ですが、股関節に障害があり、尚且つ社会人経験もほぼ無い義母にとって、本人の仕事歴等はコンプレックスらしいのです。
それを聞いた時「あのクソババァ、自分が仕事の事言われたら嫌がるくせに、俺の仕事の事には口出ししたり、馬鹿にしたりしてくるんか。ほんまに人として終わっとんな。」と内心思ったものです。
そうして段々2人とも口調が荒くなっており、破裂音がしたので、さすがに様子見に行こうと、そこにいるであろう子どもが心配になり、嫌々リビングに行くと、そこでは感情をぶつけ合った結果、椅子まで壁にぶつけられた残骸がありました。妻の感情をぶつけられた椅子は綺麗に壊れていました。
「とりあえずこういう時は、いらん事言わんとこう。」と即座に判断し、子どもに怪我は無いかをさっと確かめると、子どもは怯えていたので、2階に上がるように言って、僕は無言でさっさと壊れた椅子を片付けて、片付けが終わると何も言わずに2階に戻りました。まだまだ2人とも言い争いが終わっておらず、心底面倒くさいとしか思いませんでしたし、何より子どもの事が気がかりだったので、2階に避難させた子どもの様子を改めて確認したかったのです。
するとしばらくして、感情が爆発して泣きじゃくる妻が、僕と子どもの遊んでいた僕の部屋に飛び込んできました。
さすがにその時は「こいつはこいつでよっぽどストレス溜め込んでたんやな。俺とクソババァの板挟みやもんな〜。」と罪悪感もあり、夫婦でお互いに日頃の謝罪の言葉を言い合って、感謝の気持ちも伝え合って、妻の事を抱きしめていました。
夫婦にとってとても大事な時間でした。
そこに、烈火の如くキレた義母が、不可侵条約を破って僕の部屋に無断で入ってきたのです。
そこからは様々な罵詈雑言を僕に浴びせかけてきました。あまりにも唐突で、訳が分からなかったのですが、人として言ってはいけないような事を言われていたのはぼんやり覚えています。
その中でも覚えているのは、
「私はな!これまで何も言わんとあんたに気を遣ってずっとずっと我慢してたんや!!
ずっとあんたの態度に腹立ってしゃあなかったんや!!あんたどんだけ子供やねん!!
あんたは障害持ってるはずや!!大人になれてへん!!発達障害かなんか障害あるはずやから病院行って薬もらって来い!!」
そんな感じで怒鳴られて、ひとしきり僕を
罵倒した後は、義母はまだ怒りが治らないという様子で無言で1階に降りて行きました。
妻が呆然としていました。娘は泣いていました。僕は黙ってベランダでタバコを吸いに行きました。「俺が悪いんか、、、。」その後妻は僕に謝ってくれて、後に「あの時にもう色々終わったと思った。」と言っていました。
それからしばらくして、僕はまた過呼吸と手足の震えが頻繁に起きるようになりました。
家にいても、職場にいても治らない。
それでも休み休み仕事にはなんとか行っていました。それ程までに家にいたく無かったからです。
もう生きてるのが嫌になって、本気で自殺を試みました。
仕事も休んで、一日中断続的に手足が震えて過呼吸が起きていました。めまいと吐き気もあった日です。
その日の真夜中、妻も娘も寝静まった後に、
自分の部屋に行って1番首を吊るのに適していそうなものを探して、ベルトを使おうと思いました。そして当時、ストレス発散の為に、自宅で懸垂をする為に購入したぶら下がり健康器具に、ベルトをくくって首を吊ってみましたが重さに耐えられず、また高さも足りなかったので、未遂に終わりました。
その後は、ベランダから飛び降りようと思いましたが、その勇気はありませんでした。
無力感、虚無感、希死念慮。そんなネガティブな感情で頭の中は埋め尽くされました。
体も相変わらず、自分の意志ではどうにもならない状態です。その日の夜は当然一睡も出来ず。1人部屋の中でボーッとしていました。
翌日もパニック障害の症状が朝から変わらず酷く、休みました。
そんな日が続く中で、職場の同僚から電話がかかってきて「何もせんで良いからとりあえず来てみたら?全部フォローしたるから。」と言われ、無理矢理仕事に行ってみましたが、
結果的にはその選択は間違いでした。
最悪の状態でした。まず、その日は朝からパニック発作が酷い状態でした。
それでもなんとか出勤し、現場に入るも過呼吸と手足の震えが止まりません。息が苦しくて、胸が苦しくて、吐き気もするし、頭に酸素がうまく回って無くて、どんどんボーッとして酷い離人感を感じました。
「これはあかん。」そう思った時には、遂に立って歩く事も、ままならなくなり、フラフラしながら事務所に相談をしに行きました。
そしてその日は、そのまま帰って改めて病院に受診に行きました。
重度のパニック障害と鬱状態。
そう診断されました。そして、上司と相談して、ひとまず無期限での休職という事にしてもらい、休職の手続きが終わると僕は家を出ました。そしてフラフラになりながら、実家へと戻り療養生活を始めたのです。
パニック障害の発作は、人によって出る症状や、トリガー等が様々です。
一般的な症状は、ちょっとネットやらで調べるとすぐに出てくると思いますが、これはあくまでも僕の体験した症状です。
飛び込み営業をしていた頃に初めて発症したパニック障害でしたが、その時はすぐに症状が治まり、服薬も継続していませんでした。
きっとそれは、仕事のストレスそのものが強烈なトリガーだったので、パニック障害になってすぐに仕事を辞めた事で、トリガーが無くなり、早くに回復出来たのだと思います。
ただ、この時は違いました。同居のストレスにずっとずっと耐えて、仕事でもストレスは当然ながら多少はありました。
実は、同居してからちょくちょく軽い発作、具体的には息苦しさや、軽い過呼吸、手足の震えは時折出るようになっていたのですが、服薬を再開して、なんとか抑えながら仕事には行っていました。
それが限界を超えてしまったのです。
僕のその時の主な症状は、息が出来なくなる程の過呼吸から始まります。
それが一定時間続いて、同時に立ってられない程に手足が震えます。そうなると思考も働かなくなってきて、最終的には離人感がしてきて、頭がボーッとしてきて、過呼吸が治まっても、頭がふらふらして思考力が明らかに低下しました。
よく聞く症状の吐き気は、僕はあまり多く感じる事はありませんでした。基本的に一番起きたのは過呼吸と手足の震え、そしてその後の
離人感。
それによってどんどん広場恐怖が強くなりました。
怖くて動けないのです。「いつ発作が起きるか分からへん。」そう思うと、外に出る事が怖くて、仕事どころではありませんでした。
何も出来ない状態でした。
ちなみにこの頃は、車と電車に乗るのも怖かったです。バイクはなぜか乗れたので、バイクでいつもよりもゆっくりと走って実家に戻って療養生活に入りました。
パニック障害と併発してうつ病も酷い状態で、当時、実家に戻った僕は父親曰く「顔見てゾッとした。」というぐらいに暗い表情だったそうです。
何もやる気が起きない。そしてふとした時に起こるパニック発作。それでまた気分が沈む。
人間の三代欲求の全てが著しく低下して、
当然何に対しても興味も湧かない。
頭の中は不安と希死念慮でいっぱい。
「誰か殺してくれへんかな。」「寝てる間にそのまま死んでたら良いのにな。」そんな事ばかり毎日考えて生活していました。
そんな生きている意味も、自分の価値も何も感じない日々がどれぐらい続いたかは今では記憶にありません。当時の記憶はところどころ抜けています。
それぐらいにボーッとしていたのか、記憶から無意識に消したのかは分かりませんが、唯一強烈に覚えている事があります。
なんとか少しずつ回復してきた頃、相変わらず午前中には布団から出れませんでしたが、夕方頃なら少し散歩に行ったり、運動をするぐらいの元気が出てきた頃でした。
僕のバイクが壊れたのです。
義理の父から中古で買ったバイクです。
それが壊れて、修理に持って行くも「これはもうあかんで、酷いわ。買い換えた方が絶対良いよ。」と言われました。
働いて無い。お金も無い。その上唯一の移動手段まで失った僕は、強烈なショックを受けました。何かもう、何もかもこれからずっと悪い方向に進んでいくような気がして堪らなくて、色々な負の感情が溢れてきました。
壊れたバイクはそのまま馴染みの店に引き取ってもらって、家に帰ると父親が「どうやった?直るんか?」と心配してくれました。
僕はボソボソと話しました。
バイクはもう修理するのも無理で寿命。
バイクに乗れな子どもにも会いに行かれへん。
新しいバイク買うお金も無い。
いつになったら働けるかも分からへん。
どうしたら良いか分からへん。
喋っている内に涙が出てきました。
それでそのまま無茶苦茶泣きました。
声を上げて、嗚咽を漏らして泣きました。
親の前であんなに泣いたのは人生で初めてでした。
僕は泣きながら父親に土下座していました。
「助けてください。お金が無いんです。バイクが買えないんです。バイクが無いと困るのに、働いて無いから、働けないからお金が無いんです。」そんな感じで泣き叫びました。
そんな息子に父親は「もうお前、そんなん言わんで良い。そんな事するな。とにかくもう何も考えんでいい。バイクぐらいなんとかしたる。とにかくもうそんなんやめろ。お前らしくないからやめろ。」と諭してくれました。
そして、父親の貯金で中古で新しいバイクを買ってもらう事になりましたが、その日を境にまた僕は、自分の生きている価値も意味も無いように強く感じました。
死にたい。死にたい。なんで生きてるんや。
死にたいのに死ぬ勇気と度胸も無い。
生きてるのがつらい。生きてるのが怖い。
虚無感。希死念慮。恐怖感。
僕の頭の中はそんな負の感情で、真っ黒に埋め尽くされていました。
だから今となっては、ほんまにあの頃の記憶は曖昧なところが多いのです。
本能的に忘れたんかなと思っています。
重度のパニック障害と鬱病と診断されてから
結局僕は、その時3ヶ月もの間休職しました。
実家で約2ヶ月の自宅療養と通院と服薬で症状はかなり落ち着いて、その間に妻とも色々話合った結果、僕はマイホームには戻らずに、その近くのハイツで一人暮らしをする事にしました。
家庭内別居から、本当に別居する事になったのです。
実際、別居してからは義母という1番不愉快な人間から離れて生活出来た事で、徐々にパニック障害も鬱も回復していきました。
ただ、この時に思いました。
「なんで俺が出て行かなあかんねん?」とも。
家賃が安く、妻と娘に会いに行きやすい距離という条件は良かったもの、築40年程のハイツは、それ相応にボロかったです。
まず、当然風呂とトイレはユニット式で、お湯と水を手動で調整しないといけませんでした。
初めて部屋に入った時にはゴ○ブリの死体が玄関でお迎えしてくれて、共有スペースの廊下にも常にいるような環境。
洗濯機は屋外にしか置けず、壁は薄く、網戸はすぐに外れる、不自由は多かったです。
だからこそ余計に、新築のマイホームで気ままに暮らして義母が許せなかった。
そうして、僕の新しい住居での生活に慣れながら、自宅療養と通院、服薬と運動療法をしっかり続けました。
それでようやく症状も回復して、職場に復帰する自信を取り戻し復職する事になりました。
ただ、それまで就いていた役職からは自分から降ろしてもらう事にました。少しでもストレスを減らしたかったのです。
不安だらけの中、ようやく体調も落ち着いた僕は約3ヶ月の休職の後に、復帰する事となりました。この時は、嬉しくもなんとも無いというか、ただただ、働かなしゃあないからな〜。という、後ろ向きな、極めて低いモチベーションだったのは覚えています。
それが良くなかったのでしょう。
それに加えてパニック障害の不安から、精神的にとても不安定で、以前より自分の感情をコントロール出来なくなってるのをハッキリ自覚したまま復帰してからの僕は、自分でも自覚出来る程に困った職員になっていました。
パニック障害になった後、後遺症というか、これまでとはネガティブに性格が変化するという事は、比較的よくある事だというデータがあるというのは、病気について自分なりに色々調べて知っていました。
ただ、実際に自分がそうなるとは思わなかったです。僕は自分から申し出て降格したとはいえ、もと役職就きの正社員。そして既にベテランと呼ばれる程の年数働いており、他の職員よりも仕事が出来ていたつもりでしたし、それなりに責任を持って仕事もやってきたと自負もありました。
ただ、想像以上にブランクは大きかったです。介護施設の利用者の方々は、結構頻繁に入れ替わるのです。長年おられる方も勿論いますが、そういった方々も、ちょっとした状態の変化や体調不良をキッカケに、一気に身体機能等が変化したりもします。
復帰してまず、僕が休んでいた間に入所されていた、知らない利用者様の事を覚え、既存の利用者様のケアについても、変化があるところを覚えながらなんとか働きはじめました。
ほんまに必死で働きました。
ただ、僕は復職の際に、上司ともしっかり相談して、しばらくは少し業務負担については配慮して頂きたいたいう事を伝えており、上司からもそれについては、当然といわんばかりの勢いで了承を得ていたはずなのに、復帰してからすぐ僕は、誰もが嫌がる過酷なポジションでの勤務を連日入れられたのでした。
今思えば、人手不足が顕著な施設だったから仕方ない事だったとは思うし、以前の僕なら多少愚痴はこぼしても、他の職員に気を遣わせないように配慮はしていたと思います。
ただ、当時の僕は本当に感情が不安定でした。なんとか必死でこなす事が精一杯で心のゆとりも無かったです。だから僕は、元々仕事の出来ない職員や、後輩職員に八つ当たりをしてストレスを解消してしまいました。どう考えてもパワハラです。ただ、わざと八つ当たりをしているのでは無いのです。
自分の感情が抑えられないのです。
「はぁ?まだそれ終わってへんの?何してんの?」「なんでそんな無駄なやり方してんの?もう良いわ。俺やるから、自分もう良いから、俺が終わすから、その片付けしといて。」
「もう何もやらんで良いよ。逆に邪魔やから。」「この仕事向いてへんから辞めたら?自分でも分かってるやろ?」
大袈裟では無く、これは当時の僕が職場で同僚に言った内容の一部抜粋です。
それ以外にも目の前で舌打ちをした事もありました。
僕が休んでいる間に働きだしていた、介護未経験の職員の作業を横で見て「自分、分からんねやったら分からんって言われへんの?それ、点数つけたるわ。40点!!」と、他の職員もいる前で言いました。誰も何も言いませんでした。
僕は、イライラを抑える事が出来ず、すぐに言葉や態度に出すようになってしまっていた。
その上、あまりにも配慮の無い業務分担で、ブランク明けの体には過度の疲労が溜まっている事を実感し、不満タラタラの僕は、上司に直談判しに行きました。その時のやりとりは、頭に血が上っていたものの、しっかりと今でも覚えています。
まず、その上司とは休憩時間に喫煙所で会いました。そしてその時に相談があるので、面談の時間を作って欲しいという事を伝えました。
すると「今ならいけるよ。」と言われてすぐに面談する事になったのです。休憩時間は残り10分あるか無いか。「その時間内なら話聞いたるわ。」という感じなんかなと変な受け取り方をしてしまった僕は、まずその事にも腹が立ってしまっていました。
そして、いざ面談が始まり、話を聞いてもらっているうちに段々これまでの不満が爆発してしまい、面談というより現場と上司への愚痴と文句になってしまいました。
その結果、上司の方に「そこまで言うんなら、辞めてもらっても良いよ。」と言われ、僕はキレてしまいました。「そうですか、分かりました!」そう言って面談室を出た僕は、休憩時間を2〜3分過ぎていて、現場には何の連絡もしていなかったので、心を整える時間も無く急いで現場に戻ったのでした。イライラして頭に血が上った状態のままでした。
当時働いていた施設は、僕のいた約7年の間で僕より先輩の正社員が記憶にある限りでも、10人以上辞めています。それも、辞めた方は、僕が尊敬していた方ばかりでした。
後輩社員やパートの人は数えきれないぐらいに辞めていて、もはや何人辞めたかは分かりません。
僕より後から入って続いたいた正社員は3〜4人だったと思います。それで、現場がとてつもなく劣悪な状態になっているにも関わらず、僕に対しても簡単に「辞めて良いよ。」と言ってきたのでした。
今なら分かりますが、それぐらい復帰してからの僕の態度は酷かったのでしょう。
怒り心頭のまま現場に戻った僕は、他の職員に「もうやってられへんわ!!(上司の名前)が俺なんて辞めて良いよって簡単に言うてきよったから、それやったら辞めたるわ!もうやってられへんわ!!」と言って、その後も、露骨にイライラしながらその日は仕事をこなしました。
その日、機嫌の悪いベテラン職員に、話しかけてくる職員は誰もいませんでした。
これは、あくまで未熟な僕の実例です。
ただ、実際にパニック障害等の病気を経験し、その後性格が。悪い方向に変化した実例は多いらしいです。ほんまに厄介なもんです。
ただ、この時の僕は、初めて介護の現場で出会って、嫌な思いをさせられた先輩職員と同様に、誰がどう見ても扱い難い、近寄り難い嫌な奴やったなという事だけは間違い無かったです。
職場で上司にキレて、周りの職員にも
「もうやってられへんわ!辞めたるわ!!」と散々悪態をついていた僕は、妻にその日めちゃくちゃ怒られました。
元々その施設は、妻が正社員として働いており、僕との結婚をキッカケに妻は退職して、
数年後に今度は僕が正社員として働きだしました。
そしてまた数年が経過し、僕が役職に就いていた頃に妻がパートとして職場復帰し、
同じ施設内で働く事となったのです。
現場では、時折顔を合わすものの基本的に仕事中はあまり関わらないような配置になるように、シフトは考慮されていましたが、それでも、僕のその日の態度や言動は当然ながら、即座に妻の耳にも届いたようでした。
妻とも僕とも親しいパートさんが妻に「パニックさん辞めはるんですか??」と聞いてきて、事の詳細を妻が知ったのです。
「あんた、どれだけ周りに迷惑かけてると思ってんの!!仕事も長い事休んで、それで復帰してあんな態度とって!大人としてあかんやろ!!あんたのせいで私もどれだけ周りに気を遣ってたか知ってんの?!ちょっとは私の立場も考えて行動してや!!」と妻は激怒していましたり
「なんでお前に気を遣わなあかんのや。」
僕はその時も、悪気も無ければ後悔も無く、
「どうでも良いわ。結局こいつ自分の事しか考えてへんやんけ。」と妻に対する謝罪の感情も、罪悪感も一切無かったものの、妻にはその場で謝り、数日後には改めて上司の都合の良い時間に直接謝罪にも行きました。
ただ、当時の僕はどうしてもネガティブな感情が常に上回っていました。「なんで俺が謝らなあかんねん。アホくさ。」と心底どうでも良かったですり
ただ、辞めるにしても、きちんと自分の体調が戻ってから、そして次の職場が決まってからと思ったので、ひとまず続ける為に謝っただけでした。
その後、徐々に体調は安定してきて、それとともにメンタルも落ち着いてきました。
元々壊滅的に人手不足な現場だった事もあり、僕は復帰してから一悶着あったものの、
しばらくしてからは、通常通りの勤務形態に戻る事になり、しっかりと復職を果たす事が出来ました。
基本的に介護施設での正社員は、変則シフトです。曜日も時間も関係無く、年末年始ももちろんありません。早出、日勤、夜勤の三交代制のシフトで、当時働いていた施設はそこに加えて必ず残業をしないと業務が終わらないというレベルで人手が足りていませんでした。
復職し、元通りの働き方が出来るようにはなってきて、ようやく精神的にも安定してきたものの、職場の環境はどんどん悪化していきました。
幸か不幸か、僕はベテランなりに仕事をこなす事には慣れていましたし、元々役職に就いていたという事もあり、以前のようにどんどん僕に負担が回ってくるようになってきました。
これはある日曜日の例です。
シフトとは別に、その日ごとの業務分担というのがその施設では表としてありました。
その日、誰がどういうポジションで勤務をするのか、全体が把握出来るようにする為にそれは作られていたのですが、忘れもしない業務分担をされました。
日曜日は元々、正社員でも主婦の方々には優先的に休みが配慮されていて、パートさんの出勤もほとんど無くて、毎週日曜日の現場はもはや、施設と呼べるのか分からないレベルで破綻していました。それで、他の職員の休みとも重なって、どうしようも無かったのでしょう。
その日僕は、本来なら絶対にありえない業務分担をされていました。
(早出)パニック(日勤)パニック
(日勤後残業)パニック
同日に僕が3人いたのです。
定時だと、早出は6:40〜15:00まで。
日勤は8:40〜17:00まで。日勤で勤務すると基本的に残業しないといけないので、残業は日勤後10分休憩を挟んで17:10〜20:00まで。
これが当時の僕の働いていた施設の就業時間の基本でした。
そして実際は、みんな現場が回らないので、時間よりもかなり早く来て働いていたり、日勤だけの場合でも自分の仕事が終わらないので定時で帰れる事は基本的にあり得ないですし、
その上に残業があるのですから、残業後に残務整理をする事が当たり前とうい感じでした。
その日僕のタイムカードの打刻時間は
出勤が5:20頃で、退勤が21:00をゆうに過ぎていたと思います。
休憩は、現場の状況を見て他の職員にはなるべくきちんと取って貰うように声はかけました。ただ、他の職員も休憩時間を削ってくれて「パニックさんもちょっと休憩行って来てくださいね!」と言ってくれたりしたのが凄く嬉しくて、そのおかげで僕もまとまった休憩こそ取れなかったものの、合間にパンを食べたり、何度かタバコを吸いに行く事が出来ました。
そんな勤務を組まざる得ない施設で働くうちに、また時折発作が起きて欠勤する日が出てきてしまっていました。過労とストレスがトリガーになっていたのでしょう。
復職して、安定して働けるようになった頃には仕事中は自分の感情をコントロール出来るようには戻ってきましたが、以前よりも明らかにネガティブな感情が強くなってしまいました。
「なんで俺ばっかりこんなに働かなあかんねん。」「なんであんなやつと俺の給料変わらんねん。」「俺の名義でローン組んだ家に俺が住まれへんとか意味わからん。」「クソ嫁腹立つ。」「義母(クソババァ)あいついつまで生きてんねん。早よ死○や。」
もう何もかもやってられるかボケ。
そう思いながらも仕事中は必死に仕事して、
そしたらまた、時折パニック発作で仕事を休まざるを得なくなる。そんな日々を繰り返していました。
過酷な労働環境に、不愉快な生活環境。
そして僕は復職してから約3年程悩みに悩んで、何度も信頼している上司や妻にも相談し、転職して別の施設で働く事にしました。
その頃にはようやくパニック発作は服薬で
完全に治まってくれていて、服薬の量も1日2回で、朝と夕に1錠ずつまで減薬出来ていて、発作も出なくなっていたのです。自分の中では「薬は飲んでるけど、もう治ったようなもんや!」と思えるまでになっていたのです。
結局は、この転職をキッカケに僕は再び
人生の歯車が狂ってしまったのでした。
僕は約7年働いた施設を退職しました。
色々ありましたが、今でもこの施設には感謝していますし、何より介護についてたくさんの事を学んで、僕の介護の技術や知識、経験はこの施設で学んだ事が、今の僕の仕事のこなし方や技術の全てのベースになっています。
僕に介護士としての自信をつけさせてくれた施設。そして、介護という仕事を本当に好きになる事が出来た施設。ただ、これ以上この環境で働き続けると、介護職が嫌いになってしまうのではないかと感じたのです。
それでもやっぱり、辞めるのは本当に悩みました。上司とも何度も話し合いを重ねました。その上で、僕が望んだ答えは頂く事が出来ず、最終的には、労働環境と利用者様のケアの質の悪化が進むのは明確で、改善の見込みは無いという事を僕が感じたのが、決め手となりました。
正社員は年々辞め続けていき、反対に新しい職員は面接にすら来ない。パートさんも辞めていって7年間で正社員の数はかなり減った。
転職する際に利用した転職サイトの人にうちの施設の事を聞くと「この周辺の施設でもダントツで人手不足ですね。採用にも力を入れられてるとは感じませんね。」と言われた。
おまけに働いている職員の年齢層もメインが50代。定年をとっくに過ぎても働いている方も何人もいました。
僕はあと30年は働く必要がある。
そう思った時に、長く安定して働ける環境を求めての、前向きな転職でした。
転職先は当然すぐに見つかりました。
今はどこも人手不足ですが、介護業界はそれが特に顕著です。だからこそ、介護福祉士を持つ経験者で尚且つ、役職にも就いていた僕はハッキリ言って、転職先は選び放題でした。
その中でも、条件的にとても良い施設への転職が決まり、意気揚々と働き始めました。
実際に働きだすと、施設の違いによる介護のやり方や細かいルールの違い等に戸惑う事はあったものの、僕は期待の新人として重宝され、順調に仕事も覚えていき、順風満帆でした。
そんな最中、定期的に様子確認の為に自宅に電話をして父親と雑談をしていたのですが、何度電話しても父親が電話に出なかった。
とてつもなく嫌な予感がして、僕は急いで実家に帰ると、そこでは父親が倒れていていた。
救急搬送され、なんとか一命は取り留めましたが当然入院加療が必要との事。在宅復帰は今のところ絶望的との事。入院の手続き、自宅の電気やガス、水道、電話、テレビ等の利用停止や、介護認定の依頼や医療費の減免制度等の利用手続き等色々な事務作業をやりながらも、どうしたら良いんかな〜と働かない頭で考えていた。
その少し前、僕は要介護状態になった母親に振り回されていました。
ある日、父親から電話がかかってきて自宅に帰ると、母親は明らかに動きがおかしかったのです。「これはヤバい。」そう思った僕は、すぐに近くの病院に車椅子で連れて行きました。 検査をすると脳梗塞でした。すぐに入院する事になり、その手続きも全てやりました。
その後入院し、リハビリし、入院中に要介護認定も受けました。
治療とリハビリの甲斐あって、何とか自宅に戻る事が出来た母親は、自宅でヘルパーとデイサービスを利用して生活していましたが、
まともに動けない上に認知症も進行して、
日々の買い物等、色々と世話をしている父親に対して、暴言を吐くようになっていたのです。
そんな老々介護の日々のストレスが爆発した父親が、母親の首を絞めて殺そうとしたと僕の仕事中にケアマネジャーから連絡があったのです。
そうして母親はそのまま施設に入所する事になりました。父親とはもう会わせる事が出来ないとの事で、手続きは全て僕がやりました。
ついでに両親に離婚してもらって、父親の財産と生活を守る為に、母親には生活保護を受けてもらう事にしました。親の離婚の手続き、生活保護の申請。全て僕が1人でやりました。
それで、ようやくひと段落したと思っていたら今度は父親が死にかけていたのです。
病状は悪化の一途を辿り、食事も食べられなくなり、ある日の事、胃ろうを造設するかIVHを挿入するか選んでくださいといきなり決断を迫られました。
結果的に僕が、苦渋の選択の末に選んだIVHによる点滴のみの栄養で生きている父親。そして、父親が倒れているのを発見し、そこから様々な手続きに追われて、精神的にも肉体的にも限界となった僕は、パニック障害が再発して、また仕事に行けなくなってしまいました。
寝たきりで、食事も食べられなくなった父親の在宅復帰は諦めて、僕は父親をマイホームの近くの病院に転院させました。
そして「オトンの事は俺が最期まで看取るんや。」と決意したのです。
母親は施設に入って生活保護を受けている。老々介護で散々オトンを苦しめて、最後には全て僕に面倒事を押し付けられたという事もあり、母親に対してはもう何も思いません。
認知症についてはある程度知識としては理解していたつもりでした。
ただ、実際自分の親が認知症になると、こんなにもしんどいのかと、実感させられました。
母親が自宅でまだ生活していた当時、認知症は緩やかながら、どんどん進行していた為、
時間も何も関係なく僕のスマホに母親の携帯から何度も着信が入ってきたのです。
仕事が終わって確認すると、20件以上の着信履歴と、支離滅裂な内容の留守番電話の記録が残っている事が毎日のようにありました。
なのである日、実家に帰って父親と母親と久しぶりに3人で話し合っていた際に、ストレスの溜まっていた父親から僕に八つ当たりされて、母親に携帯電話を持たせている事にも言及された僕は、その場でキレて母親のガラケーを目の前で折りました。それぐらいに、実の親の認知症はストレスになるのだなと僕はその時に経験しました。
そして現在、母親の主介護者も僕。唯一施設から連絡があるのは僕だけ。そして僕は施設にこう伝えてあります。
「オカンが転倒しようが、怪我しようがどうしようが別に連絡はいらないです。命に関わる状態になった時だけ連絡ください。それ以外はどうでも良いです。」と。
薄情かもしれませんが、僕は心が弱っていましたし、母親が転倒したり何かある度にそれを知らされると、やっぱり辛いというのは安易に想像がついたので、あえてそうしました。
そして今度は父親が死にかけている。
「せめてオトンの最期は、俺が責任持って看取るんや。」
転職して、順調に仕事を覚えてこなしていた施設は試用期間で辞める事にしました。働き始めてすぐにパニック障害を再発して、父親の事で色々な手続きや実家の整理もしたり、何よりショックが大き過ぎて、まともに働ける気持ちになれなかったのでした。結局まともにそこでは働くこと無く辞めました。
そして、父親をマイホームの近くの病院に転院させてからは、そんな父親を看取り出来る施設で、父親を入所させても良いと思えるような施設で働きたいと思いました。
父親がそんな状態になって、僕の介護観というか、人生観も大きく変わりました。
もうこなす事を優先するような、流れ作業の介護はなるべくしたく無い。
もっと利用者様に寄り添って仕事がしたい。
そう思って転職先を探した結果、地域密着型の手厚い介護が出来る施設へと転職しました。その施設はとても利用者の方々に対して手厚い介護をしていて、コロナ禍にも関わらず、面会も特に制限を設けておらず、その上で施設内でのコロナの感染を出していないという、感染対策にも力を入れているキッチリした施設。
僕はゆくゆくは父親をその施設に入れて看取りたいと思ったのがその施設で働く事を決めた大きな理由でした。
そうして僕は、新しい施設でまた一から仕事を覚えていきました。なんとかパニック障害を抑え込みながら、父親の死にかけている姿を発見したショックから少しづつ立ち直っていって「今度こそは、ちゃんと働き続けるんや!!」
そう意気込んで、仕事に打ち込み、必死に新しい知識を覚え、行ける時は極力父親の面会にも行きました。
そうした生活が3ヶ月ぐらい続いた頃、また予期せぬ事態が起きてしまったのです。
父親の要介護認定の更新時期が迫っており、
病院にて、ワーカーさんと話し合いの場が設けられたのですが、父親の状態の回復が著しく良好との事。少し前までは、胃ろうの造設を提案された程に低下していた嚥下機能も、劇的に回復していて、食事も問題無く食べれるし、頭もしっかりしている。最近まで寝たきりだったのに、歩行も問題無い。このままだと要介護認定おりないかもしれません。
なので、病院にはこれ以上いてもらう事も出来ませんし、自宅に戻ってもらう事になると思います。ただ、一人暮らしをされるのは不安はあります。
「なんやねんそれ?!」
前の病院がヤブ医者だったのか、父親の中で何があったか分からない。ただ、少し前まで寝たきりで食事も取れない状態だった人間が、要介護5と判定された70代が、こんなに回復するなんて全く思っていませんでした。
正直嬉しいよりも戸惑いがありました。
僕としては、ようやく気持ちの整理がついて、また転職したての状態。
そして父親は今度は自宅で生活出来るように、いや自宅に戻らざる得ない状態になってしまった。
「何でこんなに状況変わんねん。」
と僕はもう心から自分の人生を恨んみました。
そして、僕は退院を目前に控えた父親に、
覚悟を持って聞きました。その時には既に、僕の中では、どういう答えが返ってくるか分かっていましたし、その先の生活も見据えていました。
「なぁオトン、元気なったしもう家に帰っても良いらしいねんけど、家帰りたい?」と僕が聞くと、父親は当然「そうやな。帰りたいな。」と答えました。
そうして僕はまた、転職したての施設を試用期間で辞める事になりました。
そこから現在に至るのですが、
近いうちに死を覚悟していた父親が、自宅で生活する準備。結局なんとか要介護2の判定がおりました。
退院した父親には、入院していた病院の系列の老人保健施設のショートステイを利用してもらい、その間に色々と準備をしました。
慌ただしく時間は過ぎていきました。
そんな中で転職活動もし、実家から通えて、条件的にもいくつかの候補の中で最も働きたいと思う施設から採用して頂きました。
2024年3月1日。
その日から僕の新しい生活は始まりました。
家族と遠く離れて、いよいよ本格的に別居をし、自宅で父親の身の回りの世話をしながら働く生活のスタートでした。
僕は父親と実家に帰って、父親の介護認定の更新手続きやら、ケアマネとのケアプランの打ち合わせ。止めていた電気、ガス、水道の利用再開や口座振り込みの手続きに、役所関係、介護の手続き関係の書類の処理。自分の引越しやら、父親がショートで入所していた老健から自宅までの送迎等を全てほぼ1人でやりました。そんな中で転職活動もして、新しい職場も早々に決まりました。
新しい職場での仕事。長年離れていた地元で、要介護状態で日常の世話が必要な父親との2人暮らし。大きく環境が変わっての生活は、一息つく暇も無く始まりました。
それでも仕事自体は、割とすぐに適応出来ました。場所や施設は変わろうが、介護施設でやる事は大して変わりはありません。色々な業務や決まりの違いはあっても、それでも仕事は我ながら順調に覚えてこなしていっていたと思います。何せこの短期間でもう何度も転職しているのですから、、、。
そして、その職場ではすぐに、周りと打ち解ける事も出来ましたし、気安く喋れる同僚も何人か出来ました。仕事は順調でした。
そう思っていた矢先に、めちゃくちゃ身体が重たくて熱が出たのです。「ちょっと頑張り過ぎてたんかな〜。」程度に思って、その日は休んで、病院で抗原検査をしてもらいましたが、陰性。ただの過労と思って細かい検査はせずに、自宅で安静にしていました。
何日か休んですぐに復帰しようとしましたが、熱は下がっているのに全く身体がいう事をきかないのです。
「これはヤバい。」
そう思って、メンタルクリニックに行くと鬱病と診断されました。
働き出して1ヶ月で僕は2週間の間、鬱病で自宅療養をする事になりました。
ただ、鬱病は本当に初期の初期で服薬と療養をしたので、すぐに回復してくれました。
そして復帰して、しばらくするとまた体調を崩しました。今度は胃腸炎で数日休みました。
そして今度こそはと意気込んで復帰し、夜勤にも入り出した頃に、また懐かしい症状が出てきたのでした。
これは病院に行くまでもなく分かりました。
パニック障害が再発してしまいました。
今回は、夜勤前に手足の震えと過呼吸に襲われました。「うそやろ?!なんでやねん!お前(パニック障害)とはうまく付き合えてたやんけ!なんでまた俺を苦しめんねん!!」
パニック発作が起きて、無理に仕事に行って悪化して3ヶ月休んだトラウマが蘇ってきました。
そうして僕は、働き始めて約3ヶ月。実質1ヶ月と少ししか働いていない施設に、しばらく休みをもらう事にしました。
試用期間でしたので、もちろん有給休暇や休職手当なんてありません。
ただ、今は休まないと絶対に酷い事になる。
そんな確信が自分の中ではありました。
生活環境が大きく変わり、父親の自宅での世話が思っていたより何倍もストレスとなっていたのでしょう。
自宅に戻った父親は、僕の想像を遥かに超えて何もしませんでした。
以前のように、自宅で自分の事を最低限する事をしなくなったのです。出来なくなってしまったという部分もありますが、寝ているか酒を飲んでいるかという状態の父親に、僕はなるべく食事を作ったり、栄養をきちんと摂取してもらうように気を遣っていました。
ですが、当の本人はアルコール依存症の状態になり、毎日朝からお酒を飲んでは寝てばかり。ゴミの分別も分からない。電子レンジも使えない。お米の炊き方も分からない。
家事は当然のように一切出来ない。というかやる気が無い。
自分に届いた書類の意味も分からないし、老眼で字もあまり読めない。入院中に発覚した、脳梗塞の跡の影響で、利き手側の右半身に軽い麻痺が残って、まともに字も書けないので、父親の書類関係の手続きは、全て僕が代わりにやります。主介護者ですから。
気がつけば僕は、母親と父親、両方の主介護者になっていました。
そんな日々の中で、新しい職場でも頑張って、たまの休みに久しぶりに娘と妻に会う約束をした日に、父親が酔っ払って自宅内で転倒して頭から血を流して救急車を呼んで、結局、家族に会えないなんて事もありました。
父親の世話のストレス。家族に会えないストレス。新しい環境というストレス。
そして、様々なプレッシャー。
僕はそれらに負けてしまったようでした。
結局パニック障害の発作は、自宅療養しながら実家から通えるメンタルクリニックへの通院と、服薬をメインとした治療で徐々に改善していきました。
そして、ちょうど1ヶ月程休んだ頃、主治医からも復職の許可を得る事が出来ました。
ですが、最終的に復帰するタイミングを決めるのは僕自身に委ねられていました。
僕自身の体と心の事は、実際のところ他人には分からない。それはたとえ医者であってもそうだからです。
「再発が怖くて堪らない。」
またあんな怖くて辛い思いはしたく無い。
それに僕の今のパニック発作が起きたトリガーはプライベートのストレスで、これは全くと言って良い程に状況は変わっていない。
「このまま復帰して、ほんまに大丈夫なんやろか??」
でもこのまま休んでても、何か状況が好転するとは思えない。
職場でのストレスはさほど感じていなかったから、転職というのも悪手な気がする。
そんな中で色々な選択肢が頭に浮かびました。
いっそしばらくはパートとして復帰して働くのもありか?
それとももう少し休んでみたら、マシになるか?
それとも思い切ってとりあえず完全に復帰してしまうか?
幸いというか、皮肉な事に1番のストレスとなっている父親のおかげで衣食住は補償されており、貯金にもまだ少しはゆとりはありました。
36歳。もう若くは無いがこの先の人生は長い。
色々な方々に優しいアドバイスもたくさんもらいました。
それでも自分で自分の事がどうして良いか決められない。怖い。どうしようも無く不安。
施設と復職前の面談の日取りの連絡がきて、復職について具体的に話合う事になりました。
だから思ったのです。
流れに身を任せよう。と。
その時の僕は、恐怖心に支配されていました。
自分で自分の事を決められない程に。
父親との二人暮らし開始と共に働き始めた施設でのパニック障害再発。「ほんまに最近の俺は何かに呪われてんのか?」と心底嫌になりました。
結局、復職の相談をしに行った施設からは、
戦力外通告を受けました。
ある程度覚悟はしていたので、
さほどショックはありませんでしたが、
「あ〜もう頼むからどっかでちゃんと働けや俺!!」と自分に腹が立つというか情け無いというか、、、。
そして、ここたったの数ヶ月で4回目の転職となった今回。もはや履歴書の職歴の欄ではおさまりきらない事になってしまった僕の履歴書と職務経歴書。自分で見ても「こいつどんだけ短期間で転職繰り返してんねん。」と思います。
それでもやっぱり人手不足の介護業界。
今回も面接1回目で即座に採用が決まりました。人手不足にある意味感謝です。
実家から自転車で10分程度の距離にある
ユニット型の特別養護老人ホーム。
アクセス抜群で、何よりもパニック障害で前職を辞めているという事実を伝えた上での採用。
まだ完全に自信を取り戻しておらず、何よりも再発が怖いので、今はフルタイムのパートとして、日勤のみで週4日の勤務にしてもらっています。徐々にきっちり働ける自信と感覚を取り戻したら、施設と相談の上で正社員にしてもらえるというありがたい条件を提示してもらい、今はパートとしてぼちぼち仕事復帰を果たす事が出来ました。
まだまだ不安はいっぱいで、怖さもありますし、新しい施設での仕事はやっぱり覚える事もいっぱいあって大変ですけど、長い人生、
ぼちぼちやっていこかなと思います。
この数ヶ月の経験で僕は思いました。
人生は全くもって思い通りになんていかへんし、人間は誰も平等でも無いし、不平不満は思い出したらキリが無い。
でも助けてくれる人もおったし、どうしようも無いわって状況になって、実際どうしようも無かったけど、こうして一応はどないかなってる。
めちゃくちゃ凹む事あったら、誰かて凹むし、ツライ事もあるし、嫌な事もあるし、むしろそんなんばっかりやんって思ったし、
オトンと一緒に暮らしてから改めて実感したけど「ほんまに何にも出来へんなこのオッサン。」ってイライラする事もあるけど、
思いきり筋トレしたらスッキリするし、
たまにしか会われへんけど、最愛の娘はこの世で1番可愛いし、今でも毎日のように娘が書いてくれた手紙を読んでは心が満たされる。
それに、僕が仕事に行けなくなってから、
オトンなりにも思うところがあったのか、
なんやかんやでオトンはオトンなりに僕に対して、目に見えて気遣いをしてくれるようになりました。
あと、やっぱり介護職は楽しいのは変わらへん。なんやかんやで妻とも仲良くやれてるし、僕の人生ってこんな感じなんやなって
なんか、やっとこさ受け入れられたというか、落ち着きました。
パニック障害の経過が良好で、良い職場に出会えたのが、1番大きいかなとは思いますけどね。
オトンが死にかけて、仕事にも行けなくなってた頃『筋トレが最強のソリューションである』って本を読んで、その中に「死にたくなったら自分の筋肉を殺せ。」って書いてて、
めちゃくちゃ落ち込んでて、実際死にたいってぐらいの気分やったのに笑ってもうたんですよね。その本は今でもたまに読み返してます。
36歳。実家で父親と二人暮らし。
現在はパートの介護職員。
妻と娘とは別居。
2,900万円の住んでないマイホームのローンは残り29年。
こんな僕でもそれなりになんとか楽しく生きれてます。だからほんまに思うんですよね。
死にたいって思っても死なんといてって。
生きとったらどないかなるって、
ほんまに今は心から思いますもん。
最後に僕の親友と、オトンについて
ちょっと書かせていただきます。
パニック障害というめっちゃ鬱陶しいやつとは、これからも長い付き合いになりそうです。こいつに僕は好かれたようです。
でもそんな僕には、パニック障害なんかよりも、もっと長い付き合いの親友が何人かいて、そいつらが、色々な場面で僕を助けてくれました。
僕には親友と呼べる人間が3人いてます。
相手がどない思ってるかなんて聞けへんし、ほんまのところは分からへんけど、少なくとも僕は、今から紹介する3人の事を絶対に裏切ったりする事は無いし、向こうも僕を裏切ったりする事は無いと心から思ってます。
まずは、1人目。
こいつとは幼稚園、小学校、中学校、高校、そして一時期バイト先も同じやったという1番付き合いの長い相手。そして誕生日も全く同じという奇妙な縁。
僕にしたら、ちょっと憧れてる相手でもあり、長い付き合いになるけど、どこかつかみどころの無いやつ。
破天荒で繊細で、チャランポランなのに真面目で、ヤンキーともオタクとも知らんおっさんとでも仲良くなれるコミュ力があるのに、他人に興味が無いやつ。
彼が家庭艦橋のせいで、めちゃくちゃグレてた頃、体育の授業のサッカー中に、サッカー部の奴に殴りかかっていくような荒れている時期の彼の趣味は読書。
小学校の卒業式で、ギターを弾いて誰よりもカッコ良くて、顔も良くて、モテて。
僕に無いもんいっぱい持ってて、バンド活動ずっとやってて、いつの間にかほんまにプロとしてアカペラグループで活動していた事がある才能の持ち主。
めちゃくちゃ面白くてカッコいい生き方をしてきていると憧れています。
僕は、自宅で父親が倒れていて、死にかけていたのを発見して、入院して回復の見込みは現状では無いと言われた時に、こいつ電話して、弱音を吐きまくりました。
電話しながら泣きました。でもこいつは笑って聞いてくれました。
そして、こいつはその日、自分のYouTubeのチャンネルで自作の歌をアップしてくれました。
僕には何の見返りも求めずに。そんな手間な事をしてくれました。
そんな彼は、僕にとっての親友と思える存在であり、いつまで経っても憧れの存在。
それが僕の親友1人目です。
2人目は、中学と高校が同じで、その頃に1番一緒に遊んでて、唯一結婚前に妻に紹介して、実際に会ってもらった友達。
僕の婚姻届の保証人にもなってくれました。
彼との思い出はアホな事しか無い。
高校1年生の時、学校の遠足をサボってわざわざ2人で生駒山に遠足に行ったり、
高校3年になると4月の僕の18歳の誕生日がきたその日から、僕の会員証でほぼ毎週のように制服のまま、TSUTAYAでエロDVDをレンタルしに行っていた。
毎週毎回2人分のエロDVDを借りるものだから、当時の僕のTSUTAYAのポイントはめちゃくちゃ溜まっていた。そしてそれを使ってまた借りに行くという事を繰り返していた。
そのままのアホな関係性を今でもいい意味で継続出来ているやつ。
ちなみに僕は、大学の卒業旅行は、同じ大学の友達の誘いを断って、当時社会人になっていた彼を誘って2人で温泉に行きました。
お互いが社会人になってからも、アホな事をして笑い合える相手。
ちなみに僕が、マイホームの近くで別居が決まった時に、彼がくれた引越し祝いは、
約500枚のエロDVDでした。
コレクションし過ぎた結果処分に困っているたとの事で、一人暮らしになった僕に譲ってくれたのですが、その部屋には可愛い1人娘も来るので、僕は迷わず全て買取り業者に売りました。
ただ、一般販売されていないようなものまで紛れ込んでおりそれは、買取りを拒否される代物だった為に、僕はとりあえずバレないようにきちんと分別した上で、他のゴミの中に隠してコッソリ捨てました。
おかげでちょっとしたお小遣いになったので、それはそれで感謝です。
3人目は中学が同じで、その頃からの腐れ縁のやつ。こいつも誕生日が全く一緒。
性格は全然違う。考え方も全然違うし、生き方も違う。でもなんか一緒におって居心地が良いというか気が合うやつ。
今でも近所に住んでいて、呼び出したら自分の嫁と子どもをほったらかして、普通に会いに来てくれるやつ。
僕は直接彼に言う「お互い旦那としても父親としても失格やな。」と。すると彼は言う「まぁ、えぇんちゃう?」そんな奴だ。
ぶっきらぼうやけど、根が優しくて僕が困ったら何かと手助けしてくれました。
オトンとオカンの離婚の保証人になってくれたり、マイホーム近くのハイツから実家への引越しを唯一手伝ってくれたり、最近では、まともに字のかけないオトンと遠くに住む妻の代わりに、転職先の身元保証人にもなってくれました。
僕が感謝の言葉を伝えると、いつも彼は
「別にかまへんで。そんなん気にすんなや。」って自然に言ってくれます。
僕のろくでもない人生の中でこの3人との出会いは宝物やと思っています。
なんとなく書き残しておきたかったので、
せっかくなので書いておきました。
そして、オトンについてです。
オトンと一緒に実家で暮らして、身の回りの世話をしながら働く。思っていたよりも何倍もしんどかったです。オトンはトイレには自分で行けます。
でもたまに便座に便が付着して、そのままになっています。僕に隠しているつもりだろうが、僕は介護士です。トイレに間に合わない事もたまにあるのは分かっているし、その汚れた紙パンツを履いているのも臭いで分かります。
洗濯も汚れた便座の掃除をするのも僕なのだから、正直に言ってくれた方が良いんやけど、オトンのプライドを考えて、僕は僕で何も言わずにその辺は処理する。
介護職を長年してきているのだから、今更親の排泄物に対して全く抵抗が無いのは、
この仕事をしているおかげだとは思います。
オトンは今年75歳。後期高齢者になった。
いわゆる団塊の世代で、頑固で典型的な亭主関白で昔から家事は一切しませんでした。
そして、我が強くて、プライドも高い。
元々の生まれが九州の炭鉱町だったらしく根本的には気性が荒い。
その性格もあって、片麻痺で歩くのも少し不安定だけど、意地でも杖は使わないし、意地でも家事は手伝わない。というか、レンジが使えなかったり、炊飯器のフタを開けれなかったり、僕が強めに蛇口を閉めると自分では開けれなかったりする。
頑固で、何も出来ない亭主関白でアルコール依存症の要介護2のオトン。
燃えるゴミとプラスチックゴミの分別も出来ないし、缶とペットボトルは僕の用意しているゴミ箱のどこに入れれば良いのか分からないらしく、流しに放置する。
汚れた自分のコップも洗わない。
この前は、タバコを吸うのに麻痺のせいでライターで火がつけれなくて、ガスコンロで火をつけようとしていて、それでも無理で
「あーもう!くそ!!」とイライラしていたので、僕がライターで火をつけました。
僕が安全の為に、使用する時以外は必ずガスの元栓を閉めているのにも気づかないのです。
そしてデイサービスの無い日は、朝から酒を飲んでずっと寝ている。それで食欲が無いと言って、ヘルパーさんが来て「今日は何を作りましょう?」と言っても「何もいらんわ。」と言うもので、困ったヘルパーさんとケアマネから相談されて、そういう時はヘルパーさんと一緒に近くのコンビニで、自分の欲しいものを一緒に買い物してきてもらうようにした。
オトンは酒とおつまみとサンドイッチを主食として、最近は生きています。
しばらく生活していて、そんな父親の存在が
めちゃくちゃストレスになった。最近になってようやく慣れたが、それでもやっぱりまだまだたまにイラッとします。
「おーい!」と呼ばれて行ったら、灰皿のタバコを床にこぼしていて「ちょっとこれ拭いてくれ。」と言われました。
「手紙きとったぞ。」とテーブルに放置されているのは、父親宛ての介護やら年金やらの手続きの書類で、記入して返送が必要なもの。
オトンはもう老眼で字もよく見えないし、麻痺とアルコールのせいで常に手が震えていてまともに字も書けない。
だから僕がその辺も全て手続きする。
それでもオトンは「すまん。」も
「ありがとう。」も意地でも言わない。
たまにほろ酔いで上機嫌に、仕事と家事で疲れている僕に「おー!今日も勝ったぞ!」と
阪神の勝敗を報告してくる。
僕は阪神ファンでも無いし、最近は野球に全く興味が無いのを知っているはずなのに。
オトンが39歳の時に僕は生まれた。
小学生の頃、子供ながらに「何となくうちの親は友達の親より老けてんな〜。」と思っていました。
その内にハッキリと「俺ははきっと周りの友達より早く親が死ぬやろうし、親の世話をしなあかんねやろな。」って思うようになっていました。
その影響があってなのか、僕は結婚願望が
早くからあって、友人達の中では割と早くに、27歳で結婚し、30歳の時に子どもが出来ました。
両親に孫の顔を見せてやりたかったし、オトンもその事は凄く喜んでいました。
そして、いつかやってくると思っていた親の世話という宿命はいきなりやってきたのです。
自分ではロクに何も出来へんオトン。自分の事を他人事のように思っているのか、デイサービスの準備すらする気もなく、酒を飲んで寝ている。
それでも、僕にとってはこの世でたった1人のオトン。小さい時からたくさん甘やかしてくれて、二世帯住宅での同居のストレスで、重度のパニック障害とうつ病を併発した時に、
実家に逃げるように帰ってきた僕の事を誰よりも心配してくれたのはオトンでした。
何回も「死にたい。」と言う度に「お前は親になったんやぞ?親やったら子どもの為に生きる事を考えなあかん。」とか、子どもが出来てからは、そういう事もあって改めてオトンに対して感謝の気持ちも強くなった。
「お前はな、親にまだなってへん。これから子どもに親にしてもらうんや。その事は覚えとけ。」
娘が出来て「ようやくちょっとは親の気持ちが分かったわ。」とオトンに言うと、そう言い返されたのは今でも忘れてない。
ほんまにその通りやなと思う。
そんな事が色々あったから、僕はオトンを尊敬もしている。だから色々あっても、今でもこうして暮らしてる。
腹立つ事はいっぱいあるし、もう色々諦めたり歯痒い気持ちもあるけど、それでも僕は、
オトンには感謝してるし、オトンの事が好きなんやろなって思う。
妻と娘、特に甘えたい盛りの娘にはほんまに可哀想な事してると思うけど、僕はこのままオトンの最期までそばにおろうと思う。
ちなみにオトンとは昔カラオケに一回だけ一緒に行った事がある。オトンが河島英五の
『野風増』を歌っていた。後にも先にも
その1回しかオトンとカラオケには行った事が無いので、鮮明に覚えている。
その歌詞の中で「お前が二十歳になったら、酒場で2人で飲みたいものだ。」という歌詞があり、それはオトン曰く「ほんまにそう思っとったんや。」との事らしい。だから僕は、二十歳を過ぎてから何回かオトンと2人で飲みに行った。オトンはその時にも、野風増の歌の話をしながら目尻に皺を寄せて微笑んでいた。
僕も子どもが出来てから、その気持ちが少しは分かるようになった。
でもオトンの言うように、まだまだちゃんと父親にはなれてへん。そやけどオトンの子どもとしては成長した。
生まれて5日で死んだ僕の双子の弟は天王寺の一心寺に納骨されている。
オトンからは、自分もそこに納骨してくれと頼まれている。弟のへその緒と僕のへその緒を
その時に見せてくれて、これと一緒に俺も燃やしてくれと言われました。
不器用やけど、親の愛情を教えてくれたのはオトンやから、僕はオトンと今もイラッとしながらも暮らしているし、後悔は無い。
また近いうちに、まだ歩けるうちに、
オトンとまた2人で飲みに行こうと思います。
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