ぼっちでストア派の修練を積む

最近ストア哲学の本を連続で読んだ。今日も暇なときはエピクテトスの『人生談義』を聞き流している。これだけ一気に詰め込むとつい言ってしまう。「ストア哲学、完全に理解した」と。もちろん「ストア哲学ちょっと分かる」に到達できる気はせず、そこまでの道のりは果てしなく遠いのだが。

しかもストア哲学は本を読んだだけではダメで、実践してこそ価値がある。しかしいざイベントが発生した時、すぐにストア哲学的思考ができるとは思えない。これができるようになるためには修練が必要だ。

ではどのように修練すればいいだろうか。エピクテトスはこう言っている。

君の杯が壊れた時にも、他人の杯が壊れた時と同じ態度を君は取らなければならない

『提要』

要するに他人のことは冷静に受け止めることができるので、他人事のように自分事を捕らえよ、ということだ。逆に言えば、他人のことならば俺でもストア哲学的思考を行えると言えるのではないか。試しにやってみるとしよう。

ぼっちは打ち上げの最中、デビューに失敗してニートになることを妄想して苦しんだ。確かにこうなることは恐ろしい。しかし今この場で恐怖を感じても仕方ないのではないか。

エピクテトスはこう言っている。

私は死ななければならない。今というのなら、すぐに死のう。もう少ししてからであれば、時間だから今は昼食をとって、それから後に死ぬことにしよう。

『語録』

たとえ死を前にしたとしても、食事の時間ならば平然と食事を行い、それからおとなしく死ぬ。自分にやれることをやっているのなら、ジタバタしても仕方ない。ぼっちはライブでやれることをやったのだから、妄想に怯えるのは全くの無駄なのだ。


やはり他人事なら冷静に考えられる。もう一つやってみるか。

ここから先は

539字
この記事のみ ¥ 100

人に対し何かをしてあげるという事は、全て「見返り」を期待しての行為だ。noteのサポートは文章を読むための「見返り」である。