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【書評】ワークショップ形式の修養会の意義と課題に関する検討


【はじめに】

こんにちは!ほねさんです!

久しぶりに書評です。といっても一般の方が読むようなものではなく、かなり限られた内容の書評になります。

結論から申し上げると、ノンクリスチャンによるキリスト教に関する論文の要約記事となります。以下に示す方々にはオススメの記事になります。


① クリスチャンで聖書的な学びとは何か?を考えたい方

② 聖書の学びを通じて普段の生活にどう活かしていくべきなのかを悩んでいる方

③ ノンクリスチャンでキリスト教の活動に興味がある方

④ ノンクリスチャンで家族の方がクリスチャンの方

⑤ 教会で修養会を企画・実施を考えている方

この内容でもご興味があれば読んでみてください!

【どんな論文の書評か】

私たち夫婦が普段通っている名古屋の教会(プロテスタント)のCity Rejoice Church (以下CRC)に所属している教会のメンバーが書いた論文になります。2人による共著であり、お二人とも南山大学にて働いておられます。

・以下リンクです。南山大学の人間関係研究センターの刊行物となります。

タイトルは「ワークショップ形式の修養会の意義と課題に関する検討」です。いきなりですが結論を。


【結論】

ワークショップ形式の修養会で、①自己理解(クリスチャン・ノンクリスチャン共通)と、②神による自己像の理解(クリスチャン)という2つの狙いが達成されたかどうか、検証することで、修養会の意義と課題を検討すること。


この記事では以下2点に大きくまとめて要約します。

1章.修養会とは何か?

2章.修養会の実践(自己理解と霊的成長について)

終わりに.感想

では早速中身に入ってまいりましょう。


【1章.修養会とは何か?】

さてキリスト教における修養会とは何なのでしょうか?その定義は以下です。

いろいろなグループの人々が、指導者のもとに、祈り、瞑想、研究などを通して霊生活を深めるために、短期間ともに生活する会

だそうです。「霊生活を深める」とは一体どういうことなのでしょう?それを理解する上で非常に重要なのが「聖書的な学び」となります。

クリスチャンの方は普段から聖書を読んでいる方が多いです。しかし私のようなノンクリスチャンも聖書を読むことの意義は大いにあります。

話が横道に少しそれますが、「現代社会」「ストレス」「悩み」を「聖書」と絡めた本はたくさん存在します。

例えば上のYoutubeの動画は私が普段よく視聴している「学識サロン」さんの本要約動画、『人生に悩んだから「聖書」に相談してみた』です。

見てもらえればわかりますが、大昔にできた聖書でも、その教えは現代社会においても十分すぎるほど有益なのです。


話をもとに戻しましょう!聖書的な学びの目的、修養会の目的は簡単に言えば以下です。

イエス・キリストに似た者へと変えられていく霊的成長

では霊的成長とは何か?それは

人格性を持つ(神)聖書を通じて、神と人が共同作業によって、知的・情緒的・社会的・道徳的に成長すること。

この霊的成長をするためには、共同体(例えばCRC)に属し、定期的に小集団(スモールグループ)で聖書を読む会を開くなどして、全人格的な神と人との交流・人同士の交流が必要となります。


ということで1章を簡単にまとめます。

・修養会とは多くはスモールグループの形態をとり、キリスト教教育の一形態である。

・聖書的な学びの目的とは、聖書を通じて神と対話し、生涯にわたって、共同体に属して霊的に成長し、イエス・キリストに似た者へと変えられていくことである。


【2章.修養会の実践(自己理解と霊的成長について)】

1章が修養会の定義、目的、形態の話でした。2章はまさに1章の実践ですね!ここでは、CRCで実際に行われたワークショップ形式の修養会が実践されたことについて述べます。修養会での大きな狙いは2つです。この記事の最初の方に書いた結論とかぶりますが、もう一度以下に記します。


① 自己理解(クリスチャン・ノンクリスチャン共通)

② 神様が作ってくださっている自分の姿を知る一助とする。(クリスチャン)


上記の2つの狙いを実現させるために、筆者たちがワークショップ形式の修養会において工夫したことは何か?それを考える上で大きなヒントとなるのが、聖書の学びにおける、「トップダウン」と「ボトムアップ」という2つの観点になります。以下に示しましょう。


・トップダウン

毎週日曜日、信徒の皆様は礼拝に出席し、牧師による説教にて、メッセージを聞きます。プロテスタント教会では牧師による説教は、礼拝全体でとても大きな位置づけになります。いわば「牧師によるトップダウンの学び」になります。

多くの場合に伝えられる牧師からのメッセージというのは、「キリスト信者はこうあるべき」という指針で、聖書全体から俯瞰したメッセージが伝えられます。

このトップダウンによる学びは、人間がどのように生きることを神は望んでおられるかという、修養会の究極の目的の一つである、「イエス・キリストに似た者に変えられる」という点で極めて重要です。しかし大きな問題点が2つあります。


① 聖書からの説教を自分がどのように受け取っているのか、受け取ったあとにそれをどのように内面化させているのかを意識化することが少ない

② 一人一人の状況にあてはめた個人的なものに必ずしもなり得ない


誤解を恐れずに言うならば、トップダウン型の学びの最大の弱点は、「説教を聞いただけで日常生活に反映されずにその場限りで終わってしまう」ことなのではないでしょうか?聖書からのメッセージを聞いて、そのエッセンスを自身の生活に落とし込む、というのは自律的な訓練が必要です。

忙しい日常で毎週日曜日の週1回、聖書を開いて説教を聞くという平均的な信徒にとっては、トップダウンの学びで日常生活に聖書の学びを落とし込む、というのはハードルが高いかもしれません。


・ボトムアップ

もう一つの学びはボトムアップ型です。2018年春に行われたワークショップ形式の修養会では、ロールプレイによるケーススタディから、他者との意見交換を通じて分かち合いが行われています。

難しい選択を迫られたとき、自分だったらこう考えてこう決断する、といった意見を言い合うことによって、信徒として自分がどう生きているのかを自律的に意識的に振り返ることができるのが、ワークショップ形式=ボトムアップ型の学びとしては良い点になります。

つまり他者との意見交流を通じて、自身の価値観が鏡のように反映される、ということでしょうか。これはトップダウンよりも遥かに自己に何かしらの内省を迫るものになるでしょう。しかしこのボトムアップ型の学びというのも弱点も大きく2つあります。


① 疑似体験による分かち合いから得られる学びは、参加者の経験値の総和でしかないこと

② クリスチャンの真の目的である、霊的に成長する=キリストに近づくという正解(着地点)を自分で探さなければならないということ


つまり気づきがあり、自身の信仰を見つめ直すには有効ですが、聖書が示す「正解」にたどり着きにくい、ということです。


・修養会はボトムアップ型の学び+トップダウン型の学び

この2つの特性をいかし、お互いの弱点をうまいことを克服しようとした試みが、2018年春にCRCで行われた修養会の実践なのではないかと思います。

まずは、ボトムアップ型の、スモールグループ参加者によるロールプレイ=疑似体験と分かち合いを通じて、自分が保ってきた信仰の枠を再構築する機会を提供します。次に牧師が修養会の内容に沿った箇所の聖書を引用し、トップダウン型の説教を行い、聖書が示す「正解」を示していく。

この試みにより、「自己理解」と「神様が自分に求めていることや導き」といったコメントがアンケートにかかれたそうです。人によって個人差は当然あれど、参加者のニーズにマッチした狙いがある程度設定できたと言えるのでしょう。


以下2章を簡単にまとめましょう。

・修養会の実践では、ボトムアップ型の聖書の学びと、トップダウン型の聖書の学びをミックスさせた。

・修養会の実践は、参加者が「自己理解」や「霊的に成長」することの一助となった。これは修養会における2つのねらいと合致する。


【終わりに. 感想】

ノンクリスチャンの私がこの論文を読んでアウトプットしてみました。単純に知的好奇心と、アウトプットすることで少なくともCRCの皆様が読んでくださると喜ばれるかな、という思いで記事にしてみました。

私自身この論文を読んで、いわゆる「聖書の学び」とは何か、について考えるいいきっかけになりました。それは「自己理解」の大きな助けになること。この生きにくい世の中を豊かに生きていくための一助になるのだなと思いました。

クリスチャンである妻は、たぶんこの「霊的成長」を目的に聖書を読んだり礼拝に参加して説教を聞いたり、信徒同士の聖書の学びの会に出たり、日々の生活に聖書の学びを落とし込み、実践しているのかなと思いを馳せました。妻の行動原理を知る上でも、読んでよかったなと思ったのが素直な感想です。

この論文に一つ注文をつけるとしたら、この論文の目的である、「ワークショップ形式について考察する」とありますが、何のために考察するのか、ということをもう少し示してほしかったかな。

ただ修養会にしても、普段の礼拝にしても、「自己理解」や「霊的に成長する」や「豊かな信仰生活を信徒に送っていただく」などの目的のために、綿密に準備してつくりあげていることも理解できました。

今までは私はただ妻についていって礼拝に出席するだけでしたが、今度からなんとなく違う心構えで礼拝に出席できるかもしれません。

牧師、論文を書いた筆者のお二人に感謝申し上げます。またここまで長い文章を読んでいただいた皆様にも感謝申し上げます。信仰生活を送る上でほんの少しでも役立つことができたら嬉しく思います。

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