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人の為も自分の為に…

例えばそれは歪なものを好む人間の心理とは。

実直な生き方が良いと社会的にも世間的にも言われ教育されている。
それはある意味正しいと思っている。
しかし、人間は生まれ育ちなどで、多少の歪みが(それを含めて実直な事が良いと思うのだが…)生まれるのも現実である。
例えば親や学校の教育、いじめ、社会での理不尽さなどに慣らされて行くと、精神的又は肉体的な個性(あえて個性という言葉を使う)が生まれる。
道徳や倫理などはその例で、どうしても矛盾の生じる時がある場合、人間的個性が出てくる。
それは生き方の応用から道を外れる事もあるのだと思う。

僕の書きたい事は道を外れる事を容認するものでは無いが、心の中で人を叩きたいなど思う事もあるはず。

心の中の鬱憤を人を叩くイメージをして晴らす人も居ると思う。晴らせるかは謎だが…

心の中に悪い考えを抱く事も人を曇らせ表情や対人関係に違和感を生む。

それは合理的意味合いとは違い、自分自身の心を曇らせる事になるという事だ。

人の悪い部分が見える事もある。
人の悪口を言う時、心の中を吐露しスッキリする部分があるが、それと共にまたモヤモヤする。と思う人は居ると思う。
僕は悪口は客観的に見れて、他言しない人に極たまに言うのだが、現実が解決しない。もしくは解決策が思いつかない時にする。
大抵話して整理出来るのだが、そうで無い事もあり、その時はモヤモヤする。

晴れる、曇る。

悪心を抱けば悦に浸れる事もある。
これはあくまでも心の中に留めたい。

しかし同時に良心に苛まれる。
これも心の中にあるものだと思っている。


例えるならば抽象画を自分の解釈、で考える。
それが正しかろうが間違えだろうが、解釈は自由である。

しかし正しい解釈を気にする。
又は自分の解釈が正しいと勘違いをする。

抽象画に例えたが、意図はあるのだろうが解釈は自由である。

自分の歪みに安心と不安を抱く部分が人にはあると思う。
(同時に歪みを内包する事は決して悪い事ではなく、個人の魅力にもつながると感じる。)

人は矛盾の中で生きている。

今までもこれからも。
なぜなら他人と全く同じ生き方を出来る事はないのだから。

願わくば多くの人(自分を含め)が良心を道標として生きれたら、世の中は少しでも良くなるのではないかとふと思った夕方であった。

追記
この中の"良心"とは自分自身の考え方だけから生じるものとは異なり、他者の身に少しでも近づける様に努めて道義的に道を見失わないことである。

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