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拝啓、おさむ様
ぼくは人間の関係が分からない。
とは言え今年で齢39、もう少しで四十。
論語で言う惑わない歳である。と言っても論語も一節しか覚えていないのだが…
まぁ惑わず(不惑)とは色々な事に、迷わないという意味と認識している。
しかしながら、これが"惑う"
自身に自信が無い。
そこが一つの理由であると思う。
昔に比べれば大した事は無くなったのだが、まず人の行動や言葉に、意味や意図を汲み取り推測する癖があり。それがポジティブならまだしも大概ネガティブな受け取りをするのである。
普段なら何気ない言葉に、意味や含みを考えてしまい、まともな会話が成り立たない。
それさえも気の迷いだと人は言う。
その話を出来る人が居るだけ、幸せなのだろう。
人と人との関係は型にハマるものでは無いとは知りつつも、枠にはめてしまう。
この人との関係はトモダチなのだろうか?ドウリョウ?
はたまたトモダチだからと言ってくれる人に頑張って協力しても、冷遇を受ける。しんどくなる。
要は自分の確立が未熟なのである。
自分さえ在れば(在るにはある。頑固にこびり付くものが…)ある程度の芯とでも言うべきか、ブレない何か。
抽象的過ぎたのだが、具体的に言うと…
例えば愚痴を聞く
(ある程度言える仲なのかもしれないが)
同じく思う事は同意して、違うと思う事は'そうかもねー'で受け流す。意見があれば言う。
大概本人に答えがあるものだし、なかったらそれなりの質問もしてくるだろう。
がしかし、自分ごときの発言に、さも力があるのかと思い込んでいるらしく。
こちらが思い悩む。
厄介である。
言ったことにある程度の責任は必要だが、その人の事を決めるのはその人自身なのである。
ある程度の鈍感さと無責任さは必要不可欠だと感じる。
自分の想いや規範は自分のものだし、それを他人に押し付ける形になるのも違う。
押し付ける。思い通りに進ませる。
は、ただ単に自己満足。
自由な中で、模索して答えを出すのが生きることの一つ(自分も含め)だとも思う。
そこへの気付きを手伝えたら上々。
僕が気にしてるのは他人からよく思われる。
と言う事なのだと…
話は脱線したが、繋がりを感覚的に、純粋にとらえず、一方ではなるようになると思いながらも…
見え方や、規範に沿っているか。
穿った見方をすれば騙されない為には如何すれば良いかと言う自己防衛。etc...
頭を余計なことに向けるから単純な事にカーテンが掛かり分からなくなるのかも知れない。
要は自分の事に目を向けて、自分の生活を良くすれば余裕が出来る。余裕が出来れば何らかの自信も(根拠のなくても)生まれるだろうと思い至る。
人間は死ぬまで学び生き続けるしかない。
死は一つの結果しか生まない。
だが、生きる事は怖く、難しく、だからこそなし得ることは素晴らしく尊い。
なし得るとは、寿命やあるいは天命を全うすることで有る。
生き続けたという、誰に見せる訳ではない証を残す事なのではと思う。
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