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砂漠の下の現実

小説っぽいものは文字通りクソの役にも立たない。書く書くといって、書くってなんだと書きながら考えてるのだけど、もちろんわたしはプロではない、プロってなんだ書いたもので金を稼げばプロだろうか、すぐ金に結びつけるのは「現実」が金を中心に回るものとして考えられてほとんど実際そう回っててそこにわたしも生きているからしょうがない。誰だって書くことができるのに、日本はありがたいことに識字率が高いだからこうして書けている、いや読めなくても書ける人もいるか、書けないと思うのはどういうことか。こうあるべきという想定がわたしを閉じ込める。小説を書いてみたい書きたいと始めても、なんでかつまらない、勝手に形を想像してしまう。ここまで頭で考えて書いていたから全然進まない。これこそが書くことの障害になる、なっていた。やめだやめ、理屈で考えると止まるに決まっている、そんな力はわたしの中に育っていない。朝からサイレンが遠くから聞こえていて近くの道を通り抜けていくだろうと、頭の中の街を音が進んでいたのだけど、思った以上に近づいてきた音がこのホステルのすぐ近くで止まった。階下の道を上から覗くと消防車が止まっている。つい二、三日前に泊まっているこのホステルで警報器がけたたましくなり、「ビル外に退避せよ」と感情なく繰り返す音声に従って皆と一緒に退避したばかりだった。おそらく原因は酔ったかハイだったかの男が部屋でタバコかなにかを吸ったからだ。また外で待ちぼうけかと降りてきた消防士を眺めていたが、彼は中に入らず、交差点の向こうの下り坂に向かう。ビルが遮ってよく見えないから移動すると坂の途中右側の建物から煙が上がっていた。本当の火事だ。消防士たちはそこまで急がずに、わたしにはそう見えた、一人がホースを伸ばし、一人は交差点の端の消火栓を開ける。取り付けたパイプにホースを繋ぐ。水が流れ出ししおれたホースは蛇のようにぐっと力を得て太くなる。風景を描写というか思い返しているからか、一気に書く手が遅くなる、ほとんど止まる。結局小さなボヤ程度だったのか集まっていた人もほとんど消えていた。しばらくぼんやり眺めていたわたしも消火作業の立ち上がりが終わる頃にはもういいかとなって今こうしていつものテーブルに座りタバコをしながらこれを書く。書きたいこともないから、目の前に急に現れた小さな事件を書いたわけだけど、どうしてか手が進まないのは、書いていて楽しくないからだと今気づく。何の違いがそこにはあるだろう。ただ身勝手に書いている方が次から次に言葉が湧いてくる。それははっきりいって意味のないものだが書いていて楽しいのはこっちなのだ。ここの謎というと大袈裟だが、トリックというか流れの違いはどこからくるのか。誰か知っていたら教えて欲しい、いや自分で考えることに意味がある、その過程にしか意味がない。勝手な区別がすべての元凶な気がする。すべてと書いてどこまでをすべてと言ったのか書いたそばからもう忘れてしまっているが、大きく言えば人の対立、戦争も区別の生むものだ、これもほとんど考えていない成り行き任せの出まかせなのに、自分の中では意味がある。ように感じる。無意識の発見はフロイトだ。そこからユングや誰やらにつながっていく、わたしはユングの本が面白くて好きだ。なんの話しだったか。撤収する消防隊を眺めに言って忘れてしまった。消防士の防火服はセクシーだ。初老の短い白髪の男が防火服の前を開けて歩いている。ヘルメットも脱いでいるから黒縁の眼鏡をかけている顔が見えた。それで無意識だった。そう書いている時には、考えずに湧いてくるものを書けている時には、意識する間もなく、その過程を挟まずに文字にしている、そんな気がする。それはつまり無意識と言ってもいいのかもしれない。無駄な自意識を入れ込まずに済むから書いていて楽しいのではないか、だから思ってもみなかったこと、わたしが考えずに考えていたことが書いたものに浮かんでくるのだ。それはある種自分を癒す。書くことが自己治癒を促す。頭がおかしくなりそうな時に書くと、その時はほとんど必死に書くだけしかできないのだけど、それで救われるのも書くことの力によるものだ。しかし、歴史を振り返ると書き続けて気が狂う人も多いし、自殺者もたくさんだ。書くことがそこに導いたかどうかは誰もわからないし。書くことがそれらを留めていた可能性も有る。とにかく書くことに力があるのは間違いない、とあえて言い切ってみよう。そちらの方が楽しそうだから。面白い方にしか進まないでいい。現実は一つ、ではない。自分の現実を、たとえでっち上げでも、面白くしてしまうのだ。そうでなくてどうやって生きられようか。それは子供の世界に似ている。彼らは彼らの世界を生きている。そして僕らも彼らだったのだ、そんな世界に生きていた、誰しもが必ず。それなのに人を殺しまくっても、戦争を起こして若者が死のうとも気にしない心が生まれ、一方で人を救うことに意味を見出す者もいる。それが多様な人間だ。あなたは何を選ぶ。いやすでに選んでいる。そしてそれは変えられる、と誰もが無意識では知っている。フロイトは、いやユングか人には集合的無意識があるという。あなたとわたしの心の潜っていったところ、その深い深いところでは人が皆繋がる領域があるというのだ。一見所謂スピリチュアル的に感じられて、実際スピリチュアルの中にはクソやろうと言いたくなるものもあるし、それを悪用する輩はまさにクソ野郎だ。しかし何か通じるものを感じる時、例えば虫の知らせだとかも、何かが通じているだろうと確かな感触を得る体験はある。またまたなんの話だ。ぐうと腹がなる。昨日の作り置きのリゾットが頭に浮かぶ。食べてしまうと満足にやられて書こうなんて思わない、怠惰なわたしをわたしは知っているからこうして書き続ける。空腹を誤魔化すようにタバコを吸う。内臓はめちゃくちゃだ、そのずしりとした重みで反抗の声をあげている。きっと本当に書く人というのは、ユングと話を繋げ広げていけたりするのだろう、そんなものも書いてみたい、でも今はつまらないからできない、いや書きたいなら書け、シンプルな話だ。詰まるところ忍耐力がないのだ。それを誤魔化すように言葉で、その洪水で自分自身を溺れさせる。黙ったわたしはまた深い無意識へと身を潜めていく。しかし暗い奥底からわたしをその目は見続けている。わたしはわたしから逃れることはできない。わたしはわたしに永遠とついてまわる、それは集合的無意識を渡り、あなたの目となってわたしを見る。あなたもわたしを知る、最初から知っている。
忘れた方がいいことは忘れた方がいいし、見たくないことは見ない方がいい。しかし忘れることなどない、忘れるはないのだ、全てを覚えている、それは流れ続ける、地下深くの水脈、流れ続けてはいるが繋がっている。水に流すとはそういうことだ。深く深くに流れるそれに、あの憎しみを、怒りを、悲しみを、寂しさを、流す。皆に受け渡す。しかしわたしと繋がり続けている。それでいい。それはしょうがない。
しょうがないで人生は進んでいく、それこそしょうがない。そうでもしないと人生が動かない、その重さで、重さを増して地中にめり込んでしまいにはすっぽり埋まってしまう。そしてそれも悪いことではない、悪いなんてだれも、神だって決められない。わたしに苦悩していても埒があかない、やめだ。動かしたもの、手を動かしてできたものから教えられる、嫌でも見せられるもので考えればいい。そっちの方が楽だ、そして面白い。
書いているわたしも意味がわからない、意味がない、意味ってなんだ、わからない。だからなんだ、それもしょうがない。こんだけ書いてもまだ足りない勝手に決めた量というものに届かない、いや書いていれば届く、誰だって届く。なら書けばいいのだ、意味のない文章を、意味のない時間を使って。堂々巡りの道を飽きもせず、飽きたとしても歩けば脚力がつく。そしたらどこかに、どこへでも行けるかもしれない。脚力って言葉が好きだ、いい言葉だ。根拠のない感じがいい。走力といわれると数値で測られて競争が生まれそうでつまらない。脚力は得体の知れない感じで、可能性が潜んでいそうで力が湧いてくる。くだらない言葉、社会に現実に取り込まれた言葉を蹴散らして歩く。知らねえよ黙ってろの一言でもう用はない。あなたもわたしも死ぬ、そして繋がっている。最後のご褒美をとっておく。ケーキのイチゴをとっておく子供だったが今はすぐに食べる。楽しみがいつまでも残っているかわからない。今も突然に終わる。誰も知らないしわからない。だからいい、生きられるのかもしれない。うるせえ今すぐやめてえよと声が聞こえる。そりゃそうだ、みんなそうだ、みんなかは知らない、どうでもいい。うるさいなら蹴散らせばいい、そして歩けばいい。あなたにもわたしにも誰にでも脚力がある。
もうすっかり誰もいなくなって、消防車も野次馬も消えて、日常に戻った道路を車が進む、人が歩く。彼らは何も知らずに交差点を行く。数時間前の火事を、騒動を知るはずがない、知る由もない。騒動は誰にも知られずに、知った物の頭からも忘れさられていく。生まれて、消えていく。それでいい、しょうがない。
わたしは今日も文字を書いた、なんでもないものを、しかし確かに書いた。それは新しく生まれたものだ、そして記憶に残るものでもない、覚えられるほど大したものではない、消えていくもの。しかし消えたとしても、わたしの中に跡が残る。あなたの中にも残るかもしれない、残らなくてもわたしのあなたの無意識の深いところには、残る、そして流れていく流れ続ける。そんな出鱈目だったら面白いから、そうなる。それでいい。そう思ったら元気が力が湧いてきた。面白いはすごい力だ。一番好きな力だ。面白いはわたしがわたしの中に好き勝手に作れるものだ。とんでもない自由がそこにある。笑ってしまう。地中に埋まった現実が、見たこともない現実が被った砂を滝のように降らしながら飛び出してくる。天を目指して真っ直ぐに飛び出してきた、すごい勢いで。なんだそうだ、それがわたしの現実だ。それでいいのだ、しょうがない。それがわたしの現実だから、しょうがない。何にもないように見えた砂漠にもこんな面白いものが地下深くに眠っていたのだ。カラカラの砂漠の地下深くにも脈々と水が流れている。透明でまっさらな水が。それは透き通って、とにかく美しい。

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