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興奮のない喜び

求人の電話を待つ時間は宙に浮いている。食事する時も本を読む時もぼーっとしている時も、朝から寝るまでのどの時間も、待っている時間と重なり合っている。一つの時間の中にいられないと心の落ち着く場がない、足場がないのだ。そわそわする心は落ち着くの対極で、何かに集中することからも遠ざける。むしろ集中しないからそわそわすると言えばその通りで鶏が先か卵が先か、物事の表と裏は混ざり合って一つなのだ。こうして書き始めるにも時間を要した、ダラダラしているわけでもなく、しかし色々が手につかない。待って二、三日は経つ。次の手を打つ時だろうし、動くことでしか事態は進まない。物事を動かすのは自分だけだ。何かしらの動きで不安もおさまるし、何よりわたしが変化する、そうして次の、新たな手立てが思い浮かぶ。にしても、なぜだろう、いやプライベートな空間で他人に侵されない時間、空間の居心地の良さに居着いてしまっている。田舎町の郊外は人も家も少なく、牛や羊の方が数が多いし見渡すと牧場がだだっ広く広がり家は点々と見えるだけだ。それは心地がいい、穏やかだ、しかしわたしは街を歩きたいと思っている。雑多な街は決して好きではないが、そこには人間がたくさんいて、コンクリートの不自然さの中で人間の人間味が嫌と言うほどに浮き上がって見える。それが見たい。そして写真に収めたい。持ってきたカメラは首に下げても重いごつごつと突起がある一眼レフで荷物の中に埋もれっぱなしだ。とりあえずカメラが欲しいと言う動機で買ったそれは失敗だった。ズボラな自分に合っていないし、何よりこれが欲しいと決めて買うのがいい買い物だ、持ってきたカメラはそうじゃなかった。リコーのGRが欲しい。今は決まっている、初めて欲しいと思ったカメラだ。カツカツの生活の身では手が出せない値段で、だから労働意欲が芽生え出した。何かの動きが、欲望も動きの一つだ、新たな動きを生んだ。いいきっかけだ欲しいものがあるから働く、直接的で素直でいい。コンパクトで軽いのがいい、カメラに限らず、身軽なのがいい。

少しズルをしても続けること、それを優先する。自分に対するズルくらい見逃してやらないと、窮屈で圧迫死する前に。書き出す前には書けないと思い込み、書き出すとなんだこんな感じかと思う、手をつける前の想像と実際に始めた後の感覚がまるっきり違っている、乖離している。ほとんどの物事がきっとそうだ。始める前の想像はムクムクとあらぬ方向に膨れ上がり、手をつけることから遠ざける、想像ですらないひどい妄想だ。始める前の妄想からいかに抜け出し距離を取るか。一番簡単な方法が手をつける、触ること、それだけだ。わかっているのにやらないのは自分の側の問題。何かが書ける気になっていた、それに尽きる。どうしようもないと自分に言いながら本当はそれに反発する自分が無意識の陰に隠れている。恥ずかしい。本当にどうしようもないとわかっているなら、戯言も妄想も言い訳もなく口を閉じて実際に取り掛かっている。無能はサボらないのだ。いくらかの、米粒ぐらいは才能がと甘えた人間がまあ今日は、とかなんとか言って何もしない一日の終わり、暖かいベッドに潜り込む。そして夢の中でうなされる、やると言ったじゃないかとわたしはわたしに怒られる。こんなに自分を責めてもいけない、意味がない、無能のひとを無能だと罵るのは酷い見てられない、わたしはやめろと制止する。今から始めるしかない、今から始めればいい。今しかない、というのは塾講師のギャグでもなんでもなく本当のことだ。なんでも今が一番とか今が一番若いとかでもなく、私たちは今にしかいないし、これからもそうだ。明日も一年後も、今の中にしかない。あれから一年ねえと言っている時も今の中だ。これを書いている今、読んでいるあなたの今、これが永遠と続く、死ぬまで。死んでからは知らない。もしかしたら今に過去も未来も含まれているとはそういうことかもしれない、いまいち意味が分かっていなかったけれどどちらも今に重なり合っている。と、よくわからないことはこれぐらいにして、そもそも冒頭からいやこれまで書いてきたものもほとんど意味がわからないことばかりだ、そしてそれは気にすることではない、わたしが書いた事実だけが大切だ。久しぶりに書いていると言う感覚が戻ってきた。絡まりこんがらがった頭が少しだけ解かれていく。書くことは単純に思考の整理でもある。書き方を意識した途端に手が止まる、ただ流れるように沸いてくるものを書くのだ。下手がうまくやろうとしてはいけない。毎回おんなじようなことばかり書いてもと考えて手が止まっていたのだ、書けない書けない、こうやって書けばいいと繰り返すわたしを書いている、人に見せている。ここがミソかもしれない。人に見せている、と言う意識を持っていた。そうして人の目を気にしていたことが止まった原因の一つかもしれない。どうしようもないものを見てくれている人もいて、だいぶんものずきだ、ありがたくて嬉しいが、そこに気を取られて書けなくなったら本末転倒だ、書いて飯を食っている人はそんな想定などしないのだろうか、いかんそんなことは考えなくていい自分が書きやすく続けられることだ大事なのは。と自分に語り続ける文章なんて、とすぐに突っ込みを入れながらも自分の中の何人かと絡みながら進む。分人という考え。分人という概念、考えがインストールされた、平野さんの本だ。まだ読みかけで書くのもどうかだが出てきたからしょうがない。個人、と自分を一つにまとめるのは馴染まないし、人は会う人ごとに分人を持っていて異なる分人をいくつも持っているのが普通で、その比率が個性でそれは変化するもの。飛ばし飛ばしで最初の数章は読んでもいないから理解は浅い、間違っているかもしれない。いやそれは問題じゃない間違いなどない、本の読み方はそれぞれでいい。そうとにかく、「分人」の考えがしっくりきたのだ、実際に個人、一つの自分というものにこだわって大きく失敗して脇道に逸れて迷い込んでいた経験からも、個人として人を一つに捉えることはできない、無理が生じると生身で知っていた。もっと早く読んでいれば、はいらない言葉だ、ここで会う本だったのだ。そのくせに読み飛ばしているが、気になったところをパッと開けばある一文がわたしに飛び込んでくるから面白い。なるようになっていく、なるようにしかなっていかない。特に分人をいくつも持った自分だと認識することで、嫌だな合わないなと感じる人との接し方にも役に立つ、嫌な人との自分は嫌な奴でもいい、それはその人との分人でしかなく、他の友達と会う時の分人とはなんら関係がないものだ。そうなれば、気持ちを切り替えるまでもなく、別のものとして扱える、扱いやすくなる。もちろんいろんな分人を合わせたものがわたしであるから厳密には関係し合っているのだが、嫌なやつに引っ張られて他の分人まで嫌なやつや暗いやつになる必要もなければその道理もないのだ、そう腑に落ちるとだいぶん気が楽になる。嫌なやつにも誠意を持って対応しようと勘違いしていた自分を慰めてやりたくなる。子供の頃の自分で良かったのだ、と気づくことが最近は特に多い。考えるまでもなく分人的に生きていたのだ。そうして中身が空っぽだと勝手に悩みだし変な方向へ進み出してしまった。何より本を読まなくなっていた、目標もなく経験もない道を当てずっぽうに歩くにはこの世界は危険すぎる。先人たちの書いた本は大きな道標になってくれる。しかし、痛い目にあって学べることもあるからあったから良しとしよう、そうでも言わなければやってられない。それで分人だ、もう一つ書きたかった分人についての何かを忘れてしまった、忘れたならしょうがない今すぐまた見返すこともしない、一冊の本を読んでその本について書くなんてこともしてみようか、と書きながらなんだか気が乗りそうにないともう感じている。そのままに感想ばかりでもしょうがないし、まとめて内容はこんなですと言ってもだ、読んだ方が早いし実りも多い、まとめも何もいらない。ここまで書いておいて、なんで何日も書かずに手をつけずにいたのかと反省する。なんで書かなかったのかが不思議だ、書くだけなのに、起きてすぐでタバコを吸う前に書いているからそろそろニコチン不足でイライラしているかもしれない、脳みそがニコチンが欲しいと言ってピンと張って緊張している。煙を吸い込んで一瞬、煙が空気に溶け込むように緊張も解けていくだろう。こう書いて吸う瞬間を想像して少し緊張が取れる。そうかニコチンひとつでもここまで脳みそは依存するのだな、そりゃあもっとやばいのはやばいことになるわと体で納得する。あとはこのまま書き終わるまで一直線、タンと最後のエンターキーを押したらすぐに外へ出て火をつける。手巻きだからその前にペーパーを取り出してフィルターを左端に置きタバコの葉をほぐして乗せてくりくりと回し棒状にして唾をつけ糊付けする。そうしてようやく火をつけられる。丘と丘の間を抜ける冷たい朝の風、空気と一緒に肺の奥まで染み渡るよう深く吸い込む。煙の粒子が肺の隅々の小さな毛のようなものにくっついて取り込まれ血管を駆け巡り、ほとんど同時に脳内で発光するように快楽物質が噴出される。快楽が毒が気だるさが全身を駆け巡る、風と小さな息が漏れる。書いて居ると肌が少し粟立ち、久しぶりにドラッグがほんの少し欲しくなる懐かしくなる。気持ちいいの鳥肌。しかし楽に流れてはつまらない、四千字でも書き終えた後の静かな気持ちよさには深みがある、静かで広い喜び、本を一冊書いたあとの喜びを想像する。ぴたりと動きのない鏡のような水面の、喜びの溜まった池だ。ドラッグはそこに石を投げ入れ波がぶつかりあい止まることなく波が立ち続ける喜びだ、それは興奮に近い。そして興奮のない喜び。どちらがいいということもない。どちらでもいい。静かに喜びを味わうわたし、ハイで踊り狂うわたし、どちらもわたしの分人だ。どちらもがわたしを構成している。その比率がわたしを形作っている。暴れ足りないならドラッグなしでも暴れて仕舞えばいい、人を楽しませて笑われればいい。エネルギーは同じでも放出のされ方が違えばほとんど違うものに見える。傷つけることに使うエネルギーなら必要がない。爆発しそうなエネルギーをパワーを面白い方へぶちまけてしまおう。そうして新しい分人に出会えるきっかけとなるかもしれない。

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