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ヤニ切れ

そいつは僕自身だった。僕の中のそいつ。踊ったり暴れたり悲しんだり死にたくなったりする、そいつ。幾重にも重なった殻の中のわたし。社会生活で必要な仮面は殻となってわたしを覆い隠す。仮面というと悪いもののように、何か嘘をついているような罪悪感を感じさせるが、すっぴんで過ごせるほど社会は美しいものではないから、何も悪くない仮面は必要だ。母という仮面、妻、夫、上司、なんでもいいがいくつも仮面を重ねていくうちに、そのほとんどは必要とされたり自分で選び取るのでなく周囲や慣習によって被らされたりする、そうして奥の奥にいるわたしに触れられなくなりしまいには存在を忘れてしまう。奥のわたしが泣いていても、なんだかわからない、けど死にたい、理由はわからないだから死んじゃおう。死ぬ前に殺す必要がある。ムカつく上司をぶっ殺せじゃなく、奥のわたしを囲う何重もの殻をぶち壊すのだ。暴動だと騒ぐ群衆に乗じて、仮面を一から叩き壊していく。誰しもにその力がある。力は活動そのものだから、誰でも殻をぶち壊せるのだ。0になることができる。ここで問題なのは、どうしたら、のきっかけだ。暴動みたいな巨大なパワー、力が渦巻く場所にいればその渦の只中で、自らの中にあった力も触発されその存在に気づき、力のままに動き出せるだろう。いま現代ではなかなか暴動の最中に行くことは難しい。戦争反対のデモがまさに今各地で行われている。僕は行っていないから内情がわからない。そこに力が渦巻いているかもしれない。仮面の外した人が混じっているかもしれない。経験のないことを語るのは無責任で嫌だ、元々責任感の皆無な人間で今こんな有様なのだが、人に対してものは言えない。どうにか自分で自らの中の力に気づく方法は見つけ出す、というより人それぞれもう知っているのではないか。ギターを毎日弾く人間が、音の中で日常から切り離された時間の中に浮かぶ時、わたしに触れているだろう。その足でその気持ちのまま、ふざけた会社ならやめてしまえばいい。いや知らんけど、としか言えない勝手な発言だが、そう思う。

起きてからのまっさらな頭に人の書いた本を読むと、その言葉がそのまま流れ込んで今書いているのが自分のものなのか人のものかよくわからなくなる。そもそも自分の言葉などなく、聞いた言葉読んだ言葉がわたしの中で消化され混ざり合って時にはそのまま異物として残っていて、出てくる言葉はそのカオスに触れた新しいもの、一度溶けたものを自分でこねなおしたものだ。それに過ぎないとも言えるし、それが創造でそれ以外にないとも言えるだろう。とにかく書いているならそれでいい。書こうと座っているのについ本に手が伸びる。書く時に脇に本を置かないほうがいいのかもしれない。しかし、読んだ言葉から、いや言葉を読む行為を通して、動いたわたしから今度は言葉が溢れてくるのだ。本は動きを促す道具でもある。言葉を新しく湧き立たされ言葉が本には書かれている。作者の、気持ち、念の流れが文字となってそこにとどまっている、いやそのままに流れている。その流れを受けてそこに乗って流されて触れて、わたしも流れ出した。
読んでいると、からだの内側、そこら中に芽が吹き出しまくり蔦のように繋がりあって全身隅々に向けて広がっていった。湯沸かし器の湯が沸く音を聞きながら、ふつふつと湧いてくる何かを体の奥に感じ鳥肌を立てながら興奮する。奇声を上げたくなるような震え、身体中にみなぎる、暴れている力。言葉一つの力はすごい。

何にも集中できずやる気もなんだか起きなくてどよんとした空気にいたのは、単純でニコチン切れだった。そんな理由にも思い至らないほど頭が回っていなかったのだ。ニコチン依存恐るべし。起きて一服したくないほど肺の調子が戻らずにゼエゼエと不吉な音がする。いい加減に観念して今日は一本も吸っていなかった。その結果、というせいに今はできるが、なんともだらっとした時間を過ごしていた。人間は誰しも気分の波があるが、喫煙者はニコチンによって自ら気分の波を作ることができる。ニコチンが切れたら自然とだるく鈍くなってくるし、そこにニコチンをぶち込めばブワッと快楽物質ドーパミンが噴出されて脳みそから全身に気持ちいいがみなぎって、やる気だってぶいぶい出てくるのだ。喫煙によってやる気の波をコントロールできる。そのために吸っているわけでもないけど、無意識にそのやる気の波を作って乗って運ばれていたのかもしれない。とかなんとか屁理屈をつけながら、今だって書いては止めてスマホやら本やらに手が伸びる。なんだこれはと理由を探すのもやめよう、目的は書くことだった。本当にこれが書きたいと決まったものなら止まらないかもしれない。面白いと思えるテーマを見つければ、そんなもの見つかるか、見つかってもこれについて書こうと決めて書ける気はしない。つべこべ言わずに書いていたら、ほとんどが焼き回しのような文字ばかりでもある瞬間やある流れの時だけには止まらない流れに押し出されるように手が指が進んでいく、波に乗っているように快感の只中にいる、快感だけがわたしを押し進めていく。周りに騒音があるほど集中ができるという人もいるけれど、わからない、それが集中しているのか、書く方に逃げ込んでいるのか、一人で書くよりはましな時もあれば一人がいいこともある。ただ宿泊客が急に増えた今、どこにいても誰かいて、それはリラックスする空間がないからか、体が縮こまって窮屈に感じる。一人きりの空間が絶対に必要なことがわかった、今更。前からそうだった、ことを忘れていた。ほとんどのことを忘れている。自分にとって重要なことも何もかも。ぐだりと昼間のカーテンで遮られた薄暗い空間で漏れる光をぼんやりと寝転んで眺めていると、アジアの汚いバックパッカーでぐうたら過ごしていた自分を思い出した。その自分になっていた。どこにいるのか、時間も空間もわからなくなった。不思議な時空にはまりこんでいた。あの光の、カーテンの向こうにはどの世界が、どんな光景が広がっている。バイクだらけの汚れた道か、砂埃の舞うヤシの木が見えるか、美しい谷と山の緑か。どんな景色でもありえる、いまはどこにでもつながっている。どこにでもいけるなら僕はどこに行きたいだろう。

南米の人間が増えて、とにかくどこだろうと話しまくるから、四六時中スペイン語っぽいのが聞こえていてうんざりする。永遠と聞かされるとイライラしてくるのはなぜだろう。人の声はどうしたって注意が向いてしまうのは自然で、その上意味がわからない音が永遠と続くからだろうというのが一つの結論だ。電話をひたすら聞かされるのがストレスに感じるのと似ている。勝手にイライラするのもまさに勝手な話だから、イライラしてるわたしをひたすら観察する機会にしてやり過ごす、そのうちイライラしているのが面白くなってくる。もっとイライラさせてくれ、自分でも知らなかったほどに、もっと。
今書いていて気づいたが、これもニコチンのせいだ。と言ってれば全部単純に処理されて楽で簡単だ。難しい問題だって一個の簡単なシンプルな理由で片付けるのが一番楽だ。大地震も原発が爆発しても馬鹿みたいに真っ黒な公文書ももう過ぎたことだ、今更うるせえよめんどくせ。時が過ぎても影はそのままに残ったまま。その上を静かに歩く人。
何をしているんだかわからなくなって、また投げ出したくなる小さな自分を、その次に投げ出すのは命だとまた同じループそこはつまらないと大きくなったわたしが見ている。それだけでも大きな変化だ。なんでも変わるのはいい。大変だ。大きく変わる。
読んでいた本に自分に今向けられている言葉が、笑えてくるほどに今必要なものに出会うことがある。いい流れだ。まさに巡り合わせられている、流れに乗っている。なんて思ってたらクソを踏む。それだって笑える時がいい時だ。不健康な時ほど健康のありがたみをって当たり前でつまらないことが出てくるほどに何にも出てこない。ずーっと体調が悪いとしたらそれは辛い。想像したくない、できないくらい辛いきっと。安楽死した女性を思い出す。日本からオランダかどっかにいった彼女は、難病で日々が苦痛まみれで安楽死を希望していた。難病になった時に、婚約者と別れることになった。捨てられたのかもしれないわからない、しかし彼女はまだ思いがあったのではないだろうか、安楽死の前日に二人の思い出の川に寄って、曇り空で岩壁に小波が打ち寄せていて人もおらず寂しげな川辺できれいねえと彼女は言った。ここでの時間が人生で一番美しかったと、元婚約者と過ごした日々を懐かしむ。当日はその彼が立ち会う予定が急に来られないとキャンセルされたらしい。これ以上に重要な予定などあるのだろうか、それとも覚悟が決まらずに直前で怖くなったのか、とか邪推する。大きなお世話だ。しかし行くと約束したなら、なんとしても最期に立ち会って欲しかった。覚悟もなくそんな約束してはいけない、わたしにはできない。ここで死ねて幸せですと担当の医者に言って、自ら薬物の点滴を打ち込んで彼女は死んだ。最後の一言を言って躊躇する間も見せずに彼女はそのスイッチを押し込んだ。意外なほどにあっけなく、拍子抜けするほどに簡単に。彼女は何年間も病気の苦しみと孤独の苦しみのどちらもと戦ってきたのではないだろうか、そして疲れ切ってしまった、ゴールに辿り着きたくなった。少しでも早く。病いが発覚してからも二人で過ごしていたら、彼女は幸せに過ごせていただろうか、死のうなんて思わなかっただろうか、誰にもわからないし、くだらないもしもの話だ。でも最後の彼女の様子、彼との思い出を語る彼女は美しい時間の中にいて子供のように可愛らしく笑った。それが彼女の一番大事なものだったんじゃないだろうか。それさえあれば、という思いが捨て切れなかったのではないか。そして実際にそれがあってもなくても、問題じゃなかった。その思いを捨て切れないことが、しかしその思いがあったからこそ病気に立ち向かえたのかもしれない。人は矛盾が絡み合う存在として生きる。シンプル簡単になんでも割り切れない。だから生きるのは面白い。だから人は死を選ぶ。どちらも自分で決めていい。そこに自由がある。どんながんじがらめの中でも一つの自由はあるはずだ。無理矢理にでも創造する、自分の現実に。あんなに可愛く笑う女性に、なんと声をかければ何をしたら何もしなくとも、生きたいと思ってくれただろう。生きたいと思って欲しいというのは傲慢だ。死にたい人が願い通りに死ぬことを止めることはできない。しかし、生きたいと思ってもらいたいと思う自由もあるかもしれない。何ができただろう、考えても思いつくことはない。そばにいることくらいだ。しかし彼女がそばにいて欲しかったのは僕じゃないだろう。

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