虎に翼 大疑獄事件

戦前日本を暗闇に陥れた大疑獄事件を活写する朝ドラ『虎に翼』
主人公寅子の父が巻き込まれた大疑獄事件のモデル

帝人事件(ていじんじけん)は、1934年(昭和9年)に発覚した、帝国人造絹株式会社(現・帝人)の株式売買をめぐる贈収賄事件です。

財界人、高級官僚、閣僚など16人が起訴され、裁判史上空前の規模で展開されました。
証人の数は予審喚問で185人、公判で140人に上り、公判開廷数は265回に及びました。

1927年の金融恐慌で鈴木商店が破産した際、子会社の帝人株を台湾銀行が担保としてとりましたが、台銀も日銀から特別融通を受けたため、その担保として同株は日銀に入れられました。

帝人株売買の成立は世間の評判になりましたが、汚職事件として世論が沸騰したのは1934年1月から3月にかけてでした。

帝国人造絹絲株式会社(帝人)は鈴木商店の系列であったが、1927年(昭和2年)の恐慌で鈴木商店が倒産すると、帝人の株式22万株は台湾銀行の担保になった。業績が良好で株価が上がったため、この株をめぐる暗躍が起こっていた。元鈴木商店の金子直吉が株を買戻すため、鳩山一郎や「番町会」という財界人グループに働きかけ、11万株を買戻した。その後帝人が増資を決定したため、株価は大きく値上がりした。

番町会は関東大震災の前頃に河合良成、岩倉具光、後藤圀彦が、懇意の郷誠之助男爵の番町の自宅を訪れ食事を共にする会として設立した。

1934年(昭和9年)1月17日、『時事新報』(武藤山治社長)が「番町会」を批判する記事「番町会問題をあばく」を掲載、その中で帝人株をめぐる贈収賄疑惑を取り上げた。

政友会の代議士岡本一巳は1934年3月7日、東京憲兵隊に、小山松吉法務大臣を始め東株取引員の沼間敏朗及び小林武次郎他2名に対し涜職の告発をした。
桂太郎の愛人で待合鯉住の女将お鯉こと安藤照女が自ら証人に立った。

取り調べの結果、人違いによる無実の告発とされ、もって岡本は誣告と偽証教唆罪、安藤は偽証罪として4月2日に逮捕され、予審の結果、どちらも有罪となった。

帝人社長や台湾銀行頭取、番町会の永野護、大蔵省の次官・銀行局長ら全16人が起訴された。これにより政府批判が高まった。

起訴された人物は主に次のとおり。

島田茂(台湾銀行頭取) - 背任・涜職容疑
永野護(番町会)
河合良成(番町会) - 背任容疑
黒田英雄(大蔵次官) - 涜職容疑
大久保偵次(大蔵省銀行局長)
大野龍太(大蔵省特別銀行課長)
相田岩夫(大蔵省銀行検査官)
中島久万吉(商工大臣) - 涜職容疑
三土忠造(鉄道大臣)
高木復亨(帝人社長) - 背任・涜職容疑

なお、事件の逮捕者の勾留期間は200日に及んだ。

裁判は1935年(昭和10年)6月22日に東京刑事地方裁判所にて開廷(裁判長は藤井五一郎)、16人の被告はいずれも罪状を否認した。

1936年の二・二六事件発生

1937年(昭和12年)には起訴された全員が第一審で無罪となり確定した。
「司法ファッショ」として、検察による強引な取調べ手法を厳しく批判した。

議会で関連を追及された文部大臣の鳩山一郎は「明鏡止水の心境」と述べ、これが辞任の意思表示だと報道されたため、同年7月3日に斎藤内閣は総辞職した。

第65回議会で政府攻撃の材料とされ、斎藤実内閣の総辞職をもたらしましたが、起訴された全員が無罪となりました。

賄賂に使われたといわれる帝人株1300株は事件が起きる前の1933年(昭和8年)6月19日以来、富国徴兵保険会社の地下の大金庫の中に入ったままになっているなど犯罪の痕跡がどこにもなかった。

疑獄とは、元来入獄させるか否かが明確でなく、犯罪事実があいまいな事件を意味します。この種の事件は多かれ少なかれ政・官・財界に波及するため、現在では政治問題化した利権関係事件の総称となっています。

帝国弁護士会は斎藤内閣総辞職に併せるように1934年7月、ワシントン海軍軍縮条約の廃止通告を求める声明を発表し、もって日本政府に条約を廃止させ、世界的軍拡時代を決定づけた。

政争にマスコミが煽った(無実の被告人たちとその家族を叩いた)大疑獄事件でしたが、今では帝銀事件や二・二六事件に埋もれて動画サイトで取り上げる人もいない。
新聞社は自分たちの過去を消すのが上手いが、朝ドラで入れてくるのは驚きました。GJ

この時代、コミンテルンの赤いスパイ尾崎秀実とゾルゲが新聞・評論誌で暗躍し日本を戦争に扇動していた頃です。

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