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中大兄皇子

中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)は、舒明(じょめい)天皇と皇極(こうぎょく)天皇の間に生まれた。
天皇家復権、中央集権国家の樹立

中臣鎌足=藤原氏
父:中臣御食子、母:大伴智仙娘(大伴咋子の娘)
大化の改新の中心人物であり、改新後も中大兄皇子(天智天皇)の腹心として活躍し、藤原氏繁栄の礎を築いた。

大化の改新の始まり
645年、蘇我入鹿を殺し、蘇我蝦夷を自殺に追い込んだ(乙巳の変
中大兄皇子は、中臣鎌足(藤原鎌足)らとともに蘇我氏を倒し、天皇による中央集権国家の樹立に力を尽くしました。

中大兄皇子は、新しく孝徳(こうとく)天皇が即位すると、皇太子となる
皇極天皇が譲位するとき、中大兄皇子は乙巳の変において直接の当事者だったことを理由に即位をはばかり、古人大兄皇子も即位を辞退して出家。
軽皇子も即位を断り続けていましたが、ついに645年(皇極天皇4年/大化元年)に孝徳天皇として即位した。

古人大兄皇子(ふるひとのおおえのみこ)は、舒明天皇の第一皇子。
母は蘇我馬子の娘・蘇我法提郎女(ほほてのいらつめ)で大臣・蘇我蝦夷の妹に当たる。娘は倭姫王(天智天皇の皇后)。

中大兄皇子は、孝徳・斉明両天皇の皇太子として、改新政治の指導にあたった。

中大兄皇子は後の天智(てんじ)天皇である
663年、百済を助けるための白村江の戦い(唐・新羅連合軍との戦い)で飛鳥時代半ばの660年に敗れた。
中大兄は、斉明(皇極)天皇没後、唐(中国)の侵攻に備えるため、臣下の反対を押し切って都を近江大津宮に遷都(667年)、その翌年に即位し「天智天皇」となった。

天武天皇元(672)年に天智天皇の後継をめぐって弟・大海人皇子(おおあまのみこ)と息子・大友皇子(弘文天皇)により、今の奈良県、三重県、岐阜県、滋賀県などの広域を舞台に展開された古代史上最大の戦乱が壬申の乱でした。
約1か月間の内乱に勝利したのは、後に天武(てんむ)天皇となる「大海人皇子」でした。

大海人皇子
舒明天皇と皇極天皇の子として生まれた。
大海人皇子は、中大兄皇子と間人皇女は両親を同じくする弟にあたる。
天武天皇に即位してから専制君主として飛鳥浄御原宮を造営した。
人事では皇族を要職につけて他氏族を下位におく皇親政治をとった。

八色の姓(やくさのかばね)
天武天皇が天武天皇13年(684年)に新たに制定した、八つの姓。

上位から順に、真人(マヒト)・朝臣(アソミ)・宿禰(スクネ)・忌寸(イミキ)・道師(ミチノシ)・臣(オミ)・連(ムラジ)・稲置(イナギ)。
氏族制度の再編策とも言われている。

奈良時代から平安時代に至って、朝臣姓を称する源・平・藤・橘の四姓が隆盛になり、また菅原氏・伴氏などのように他の姓からあらためて朝臣姓を受ける氏が増加したことで、姓そのものは積極的な意味をなさなくなったが、姓を名乗る習慣は残り明治になって廃止された。

天武天皇の皇后・鸕野讃良皇女(うののさららのひめみこ)は後に即位して持統天皇となった。中大兄皇子の娘です。


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