藤原氏
観世音寺
■ 福岡の太宰府の方から
天智天皇が母斉明天皇の冥福を祈るために建立したもので、80年の歳月を費やして、746(天平18)年に完成した。
当時は南大門・中門・五重塔・金堂・講堂・鐘楼・経蔵・僧房など七堂伽藍を完備した西日本屈指の寺院であった。49の子院を擁する大伽藍を誇った。
現存するのは講堂・金堂のみ。ともに入母屋造の本瓦葺き、江戸時代前期ごろに黒田藩主によって再建されたものである。
梵鐘は観世音寺創建当初のものと言われ、国宝指定されています。
京都妙心寺にある698(文武天皇2)年銘の鐘と同じ鋳型で造られたとされる。
校倉造風の観世音寺宝蔵には、平安から鎌倉時代にかけての仏像が安置されている。
16体すべてが国の重要文化財に指定されています。
中でも平安時代作の馬頭観世音菩薩立像、十一面観世音菩薩立像など5m級の巨像がひときわ目をひく。
九州最大級の仏教彫刻展示をはじめ、重要文化財が数多く収められています。
戒壇
西に隣接する戒壇院は、761(天平宝字5)年に建立された。
戒壇とは僧尼として守るべき戒律を授ける場所のこと。奈良東大寺、栃木下野の薬師寺と並ぶ日本三戒壇の一つに数えられ、重要文化財の盧舎那仏坐像を安置する。
■ 幻の平城京 観世音寺
平城京右京九条一坊、現郡山市観音寺町には奈良時代に古代寺院が建っていた。
観世音寺は遣唐留学僧の智通が建立し、右京九条一坊にあったとされ、八幡宮にある
小さな観音堂がその後身と思われます。
長屋王家との関わりが考えられる
現在の観音寺町には小堂ながら観音堂が残されており、その南側にセーロン池と呼ばれるため池がある。この池からは奈良時代の古瓦が発見されていたが、近年その中に長屋王邸と同笵瓦(この瓦は710年代に製造されたもの)が見つかった。
長屋王(ながやのおおきみ)は、奈良時代前期の皇親・政治家。太政大臣・高市皇子の長男。官位は正二位・左大臣。
皇親勢力の巨頭として政界の重鎮となったが、対立する藤原四兄弟の陰謀といわれる長屋王の変で自殺した。
● 神叡
続日本紀には、観世音寺は国家の比護を受けた寺であったと記されており、この寺には貴重な経巻類が多数保管され、仏法を学ぶ学僧たちがそれを借出して学んでいたと伝えられる。
学僧・神叡に関する説話から観世音寺には塔があって、天平の頃に実在したことは間違いないが、何時ごろから存在したかは判然としない。
● 智通
「扶桑略記」によると観世音寺を建立したのは、遣唐留学僧の智通といわれる。智通は飛鳥時代の遣唐僧である。彼が新羅船で唐に渡ったのは658年、そして大慈恩寺で玄奘三蔵に法相教学を学んで帰国した。帰国した年は明らかではないが、天武2年の673年には僧正となっており、明日香の仏教界、特に法相教学の主導的な位置にあったと考えられている。
● 道長に繋がる藤原氏の野望
藤原 不比等(ふじわら の ふひと)は、飛鳥時代から奈良時代初期にかけての公卿・政治家。
藤原氏の始祖。中臣氏→藤原氏 (父・鎌足が亡くなる直前に改姓したため、それを継承)
不比等は実は鎌足の子ではなく、天智天皇の落胤であるとの説がある。
中臣氏一族は朝廷から一掃されてしまう
有力な後ろ盾を持たない不比等は『日本書紀』の天武天皇2年(673年)5月条にある大舎人の登用制度によって出仕して下級官人からの立身を余儀なくされたと考えられている。
大臣家である蘇我連子の娘・蘇我娼子を嫡妻として迎えた事により尊貴性を得た。
東大寺正倉院の宝物として『国家珍宝帳』に記載されている「黒作懸佩刀」は草壁皇子から不比等に授けられた皇子の護り刀で、後に皇子と不比等自身の共通の孫である聖武天皇に譲られたと伝えられている。
不比等には法律や文筆の才があったため、朝廷で高級官僚の地位を得た。
右大臣 正三位
不比等は、草壁皇子と持統から元正に至る4代の天皇に仕え、大宝律令や日本書紀の編纂に関わり、文武から元正に至る3代の天皇の擁立に貢献した。
文武天皇の即位直後には長女の藤原宮子が天皇の夫人となる。
文武天皇2年(698年)には、不比等の子孫のみが藤原姓を名乗り、太政官の官職に就くことができるとされた。
不比等の従兄弟たちは、鎌足の元の姓である中臣朝臣姓とされ、神祇官として祭祀のみを担当することと明確に分けられた。
文武天皇と宮子の間には首皇子(聖武天皇)が生まれた。
不比等と県犬養橘三千代の間の娘である光明子を聖武天皇に嫁がせた。
不比等は氏寺の山階寺を奈良に移し興福寺と改めた。
その後、養老律令の編纂作業に取りかかるが養老4年(720年)に施行を前に病死した。
光明子は不比等の死後、不比等の息子の藤原四兄弟の力によって皇后となり初の非皇族の人臣皇后の例となって、孝謙天皇の生母となる。
藤原四兄弟
藤原武智麻呂(680年 - 737年)(藤原南家開祖)同母兄
藤原房前(681年 - 737年)(藤原北家開祖)同母兄弟 道長の遠い祖先
藤原宇合(694年 - 737年)(藤原式家開祖)同母兄弟
藤原麻呂(695年 - 737年)(藤原京家開祖)異母弟
聖武天皇の母の藤原宮子と聖武皇后の藤原光明子はともに四兄弟の異母姉妹にあたる。
不比等とその息子の藤原四兄弟(藤原四子政権)によって、藤原氏の繁栄の基礎が固められるとともに最初の黄金時代が作り上げられた。
四兄弟は737年の天然痘の流行(天平の疫病大流行)により相次いで病死し、藤原四子政権は終焉を迎えた。
左大臣・藤原武智麻呂の次男・仲麻呂の台頭で藤原氏が復権する。
天平宝字4年(760年)仲麻呂は皇族以外で初めて太師(太政大臣)に任じられるが、同年光明皇太后が崩御。皇太后の信任厚かった仲麻呂にとってこれが大きな打撃となる。
孝謙上皇・道鏡と淳仁天皇・仲麻呂との対立は深まり危機感を抱いた仲麻呂は、天平宝字8年(764年)自らを都督四畿内三関近江丹波播磨等国兵事使に任じ、さらなる軍事力の掌握を企てる。
しかし謀反の密告があり、上皇方に先手を打たれて天皇のもとにあるべき御璽や駅鈴を奪われると、仲麻呂は平城京を脱出するが、1週間で官軍の攻撃に敗北する。
敗れた仲麻呂は妻子と琵琶湖に舟をだしてなおも逃れようとするが、官兵石村石楯に捕らえられて諸共斬首された。享年59。仲麻呂の一族はことごとく殺された。
六男の刷雄は幼少時より仏道修行に励んでいたとして死刑を免れ、隠岐国への流罪となり、のちに赦されて桓武天皇の時代に大学頭や陰陽頭を歴任している。
平安時代初期に最澄や空海と論争した法相宗の高僧徳一は、『尊卑分脈』では仲麻呂の末子とされている。
藤原道長は藤原房前の血を引いている。
武家が台頭した鎌倉時代以降は姓の藤原ではなく、「近衛」「鷹司」「九条」「二条」「一条」などの苗字に相当する家名(家格)を名のり、公式な文書以外では「藤原」とは名乗らなかった。
江戸時代の朝廷において大臣就任の資格を持つ上位公卿17家系(摂家、清華家、大臣家)のうち14家系が藤原氏、残り3家系が源氏であり、将軍家徳川をはじめとした主要武家の多くも源平や藤原流を称している。
■ 平城京の外京
藤原不比等が計画して作った平城京
平城京は南北に長い長方形で、中央の朱雀大路を軸として右京と左京に分かれ、さらに左京の傾斜地に「外京」が設けられている。
東西軸には一条から九条大路、南北軸には朱雀大路と左京一坊から四坊、右京一坊から四坊の大通りが設置された条坊制の都市計画である。
各大通りの間隔は約532メートル、大通りで囲まれた部分(坊)は、堀と築地(ついじ)によって区画され、さらにその中を、東西・南北に3つの道で区切って町とした。
京域は東西約4.3キロメートル(外京を含めて6.3キロメートル)、
南北約4.7キロメートル(北辺坊を除く)に及ぶ。
平城京の市街区域は、大和盆地中央部を南北に縦断する大和の古道下ツ道・中ツ道を基準としている。
下ツ道が朱雀大路に当たり、中ツ道が左京の東を限る東四坊大路(ただし少しずれる)に当たる。
二条大路から五条大路にかけては、三坊分の条坊区画が東四坊大路より東に張り出しており、これを「外京」と呼ぶ。
また、右京の北辺は二町分が北に張り出しており、これを北辺坊と称する。
市街地の宅地は、位階によって大きさが決められ、貴族が占める12町の物を筆頭として、2町・1町・1/2町・1/4町・1/8町・1/16町・1/32町などの宅地が与えられた。
平城宮の東側の一坊大路と二坊大路の間には、8町の宅地を占有した藤原不比等、4町を占有した長屋王、藤原仲麻呂の邸が集まっていた。
土地は公有制であるため、原則的には天皇から与えられた物であった。
平城宮(内裏)は朱雀大路の北端に位置し、そこに朱雀門が設置された。
朱雀門の北にあった大極殿は740年の恭仁京遷都の際に取り壊され、745年の平城京遷都後に旧位置の東側(壬生門の北)に再建された。
朱雀大路の南端には羅城門があり、九条大路の南辺には京を取り囲む羅城(都城の周囲に造られた城壁。日本は治安が良かったので取り囲んでいなかった可能性もあるようだ)があった。
京内寺院の主要なものは、大安寺、薬師寺、興福寺、元興寺(以上を四大寺と称した)で、これらは藤原京から遷都に際して移転されたものである。
東大寺は東京極大路に接した京域の東外にあり、聖武天皇によって天平勝宝4年(752年)に創建、西大寺は右京の北方に位置し、称徳天皇により天平神護元年(765年)に創建された。
これらに法隆寺を加えて七大寺(南都七大寺)と称する。
この他、海龍王寺、法華寺、唐招提寺、菅原寺(喜光寺)、新薬師寺、紀寺(子院が残る)、西隆寺(廃寺)などがあった。
奈良の高僧は天皇の政に口出しをするようになる。
■ 外宮にランドマーク
外京は藤原不比等の命でつくられたといわれている
外京には他より12m高い土地が有った。不比等はそこに藤原氏の氏寺である興福寺を建てた。平城京の二条大路全域から興福寺が見え、他の大路の交差点(辻)からも興福寺が見えたという。
平城京を歩くと、いたるところから藤原氏の興福寺が目に入る仕掛けがされていたわけです。
藤原氏の権威はいや増すばかり。
平城宮にも外宮のような東側にはみ出したエリアがる。
不比等はそこに宮殿を気づき、皇太子を住まわせたという。
その東隣には不比等邸があり、門で繋がっており、孫である皇太子に直ぐに会える位置にいた。
『公卿補任』(くぎょうぶにん)は、歴代朝廷の高官の名を列挙した職員録
各年毎に朝廷の官職を記している。
従三位以上で太政大臣・摂政・関白・左大臣・右大臣・内大臣・大納言・中納言・参議・非参議のいわゆる公卿に相当する者の名を官職順に列挙する。
はじめ、藤原一族では藤原不比等の名前しか無かったが、のちに、4人の息子たちが名を連ねる事となる。
平安時代には、道長が同様に権勢を極めることになる。
■ 和銅
708年から715年までの期間を指す。この時代の天皇は女帝元明天皇である。
和銅元年5月 - 和同開珎が日本で鋳造・発行された。日本で最初の流通貨幣
和銅3年 3月 - 藤原京から平城京に遷都。藤原氏、興福寺の造営を発願する。
和銅4年10月 - 蓄銭叙位令を定める。
和銅5年 1月 - 太安万侶により古事記完成、撰上。
和銅6年 5月 - 諸国に風土記の編纂を命じる。国・郡・郷名に好字を付けさせる。
和銅7年 6月 - 首皇子、立太子。
和銅8年 9月 - 元明天皇が譲位し、氷高内親王が即位する(元正天皇)。
和銅8年には、公田地子の京進が開始された。また、京や畿内に惣管・平城京以西の道ごとには鎮撫使、のちに節度使を設置し治安維持を強化した。
和銅遺跡から、和銅(にぎあかがね、純度が高く精錬を必要としない自然銅)が産出した事を記念して、「和銅」に改元するとともに、和同開珎が作られたというストーリーが作られた。
古和同には書体などが同型の「銀」銭と「銅」銭がそれぞれ存在する。
和同開珎1文は、米2kgに相当する価値だった。
和同開珎1文は、新成人1日分の労働力に相当したという。
政府が定めた価値が地金の価値に比べて非常に高かったため、発行当初から、民間で勝手に発行(通貨偽造)された私鋳銭の横行や貨幣価値の下落が起きた。
また、発行はしたものの、通貨というものになじみのない当時の人々の間でなかなか流通しなかった。開珎は「初めてのお金」という意味である。
■ ばかげた蓄銭叙位令
税収は米、税金として和同開珎は使われていなかった?
和同開珎を普及させるため、税を貨幣で納めさせたり、地方から税を納めに来た旅人に旅費として銭を渡すなど様々な手を打ち、711年(和銅4年)には蓄銭叙位令が発布されたが、貴族によって貯蓄される愚策であった。
従六位以下のものが十貫(1万枚)以上蓄銭した場合には位を1階、二十貫以上の場合には2階進めるというもので、蓄銭(死蔵)されてしまった。
蓄銭叙位令は、800年(延暦19年)に廃止された。
■ 稲
租税は、穎稲(えいとう):穂首で刈り取って稲穂が付いた状態の稲。
食用は、稲穀(とうこく):脱穀された稲を籾穀(もみこく)。
■ 税
束把単位
成斤一束と不成斤一束
律令制の田には上田・中田・下田・下々田のランクが存在したが、これは1段あたりそれぞれ50束・40束・30束・15束収穫可能とされていた。
大宝律令制定時には口分田・位田・功田などに課され、田一段につき稲二束二把の租が徴収されていた。1束=10把
成斤一束は一代(刈)から収穫される稲の量を示す。一代(刈)は5歩に相当する。
成斤一束は穀米(籾米)一斗もしくは舂米五升に換算されるものとされていたが、
実際には古くは両手の親指と中指による1掴み分を一把(1/10束)とする慣習に基づく大よその目分量であったとされた。
二束二把の租税は両手で22掴み程の稲穂の束と考えられる。
不成斤
『扶桑略記』によれば640年以後に度量衡が導入され正確に計測された土地面積との関係付けられた。
更に律令制下において1段=250歩から1段=360歩に改められた後も1代=5歩から1束の収穫の原則が変わらなかったために、結果的には以前よりも1束にあたる穎稲の量は減少してしまった。そのため、1段=360歩の下での束を不成斤の1束とも称した。
706年(慶雲3年))に成斤1束5把に改められた。
紙の束
和紙は10帖(200枚)を1束と呼んだ。
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