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天皇になろうとした道鏡は粗品だった

酒池肉林生臭坊主の道鏡は、女帝 称徳天皇に信任(愛)されて政界に進出。
太政大臣禅師・法王となり、権力をふるったが、皇位をねらって藤原氏および 和気清麻呂 (わけのきよまろ) らに阻止された。

弓削道鏡(ゆげのどうきょう)は法相宗 義淵(ぎえん)僧正の弟子といわれ、若年に葛木(かつらぎ)山に入って如意輪法を修して苦行無極と称せられた。『三国仏法伝通縁起』によれば、弟子に玄昉・行基・隆尊・良弁などがおり、道慈・道鏡なども義淵の門下であったという。
大和葛城山は、奈良県御所市と大阪府南河内郡千早赤阪村との境に位置する標高959.2mの山。

文献上初見は747年(天平19)1月正倉院文書に東大寺良弁(ろうべん)大徳御所使沙弥(しゃみ)とあり、良弁の弟子でようやく得度(とくど)したばかり。

その後禅行が聞こえて宮中内道場に入り禅師となった。

密教経典と梵(ぼん)文を研究し、これに通じた。

761年(天平宝字5)より翌762年にかけ孝謙上皇(女帝)が近江保良宮(ほらのみや)(石山寺北方)に行幸滞在中と、762年4月病んだ際に、道鏡が宿曜(すくよう)秘法を修して看病し、病を癒して寵幸(ちょうこう)を得た。
それを淳仁(じゅんにん)天皇が非難したので、上皇と天皇との間が悪化した。
上皇は怒って平城京に還(かえ)り、法華寺で出家、6月3日詔して天皇の大権を奪い、国家の大事と賞罰の二事は朕(ちん)が行うと宣した。
天皇を動かして政権を握っていた藤原仲麻呂(恵美押勝(えみのおしかつ))は権勢を失った。

道鏡は763年少僧都(しょうそうず)に任ぜられた。
翌764年9月11日仲麻呂は謀反を企てたが敗れて殺された。

孝謙は淳仁天皇を廃して称徳(しょうとく)天皇として重祚(ちょうそ)した。称徳天皇=孝謙天皇

道鏡は9月20日大臣禅師に任ぜられて政権を握り、765年(天平神護1)閏(うるう)10月、天皇弓削寺行幸の際、太政(だいじょう)大臣禅師に任ぜられた。

766年法王に任じ、月料は天皇の供御(くご)に准(じゅん)ぜられ、人臣最高の地位を極めた。

道鏡の政治は仏教重視の政策で、放鷹(ほうよう)司を廃して放生(ほうじょう)司を置き、
天下諸国に鷹(たか)、犬、鵜(う)を飼い猟をすること、肉、魚を御贄(にえ)として奉ることを禁じた。

東大寺の向こうを張り西大寺、西隆寺を建立し莫大(ばくだい)な財を費やした。
貴族を抑圧し寺院を優遇した。

皇統にない僧侶でありながら天皇になろうと企てる
769年「道鏡を天位に即(つ)かしめば、天下太平ならん」との宇佐八幡の神託があり、宮廷が動揺した。
この神託は、当時大宰帥が道鏡の弟弓削浄人(きよひと)であるところから、大宰主神(かんづかさ)中臣習宜阿曽麻呂(なかとみのすげのあそまろ)と宇佐八幡宮の神官らとが共謀して演出したと考えられる。

天皇は信任する法均尼(ほうきんに)(和気広虫(わけのひろむし))の弟清麻呂を勅使として宇佐に遣わし、神託を確認させた。
清麻呂は帰京、神託を偽りとしたので道鏡は天位に即けなかった。

道鏡の粗品
鎌倉時代の説話集『古事談』より

称徳天皇と大根

称徳天皇は道鏡の(粗末な)「陰茎」では物足りなくなり、山芋で男根の代用品を作り、これを用いてオナニーをしていたが膣の中で折れてしまい、取れなくなってしまった。
大根のアセチルコリンにより腫れ上がってしまって膣が塞がった。

ひとりの小さな手の尼が手に油を塗り、膣の中の山芋をとろうとしたら、藤原百川が「霊狐なり(化け狐め)」と叫び、尼の肩を斬った。

称徳天皇は、770年(宝亀元年)8月崩御。

藤原百川は、奈良時代末期の上級官人で、称徳天皇が僧侶の弓削道鏡を皇位につけようとした宇佐八幡宮神託事件の折、勅使の和気清麻呂に働きかけてその企てを防ぎ、道鏡を追放して光仁天皇を擁立(皇太子 白壁(しらかべ)王が即位した。

道鏡は、光仁天皇により下野(しもつけ)国(現在の栃木県)に左遷され、称徳天皇の後を追うように、その地で生涯を終えたといわれています。

女帝をたぶらかして権勢を手中に収め、天皇にまでなろうとした僧侶
銅鏡は日本の三大悪党の1人とされる。この嫌われようが面白い

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