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大徳寺の経蔵

大徳寺
京都市北区紫野大徳寺町にある臨済宗大徳寺派の大本山の寺院。
山号は龍宝山 禅宗寺院
本尊は釈迦如来。
開山は宗峰妙超(大燈国師)で、正中2年(1325年)に正式に創立されている。

境内には仏殿や法堂(はっとう)をはじめとする中心伽藍のほか、
20か寺を超える塔頭が立ち並び、近世寺院の雰囲気を残している。
大徳寺は多くの名僧を輩出し、茶の湯文化とも縁が深く、日本の文化に多大な影響を与え続けてきた寺院である。

大徳寺本坊および塔頭寺院には、建造物・庭園・障壁画・茶道具・中国伝来の書画など、多くの文化財を残している。
残念ながら、大徳寺本坊は一般には非公開であり、塔頭も非公開のところが多い。

公開
江戸時代初めに建てられた「経蔵(きょうぞう)」にお経を収め、内部が回転する国の重要文化財の蔵が初めて一般に公開されることになりました。
高さおよそ4メートルの八角形をした棚が設けられ、最大3500巻のお経を入れることができ、いまは半分ほどが収められています。
再来年に寺が創建から700年となるのにあわせ、経蔵の一般公開は、4月25日から6月2日まで行われます。

最大の特徴は、棚が回転することで、1回転させれば、収められているお経をすべて読み上げたのと同じご利益があるとされています。

歴史
大徳寺の開祖である禅僧「宗峰妙超」は、弘安5年(1282年)に播磨国(現・兵庫県姫路市を中心とする旧国名)で赤松氏の家臣・浦上一国と赤松則村(のちに円心)の姉との間に生まれた。
11歳の時、地元姫路の大寺院である書写山圓教寺に入り、天台宗を学ぶ。
後に禅宗に目覚め、鎌倉の高峰顕日、京の南浦紹明に参禅。
南浦紹明が鎌倉の建長寺に移るに従って宗峰も鎌倉入りし、徳治2年(1307年)に師から印可を得た。
その後数年京都東山で修行を続けていた宗峰妙超は、正和4年(1315年)ないし元応元年(1319年)に叔父の赤松則村(円心)の帰依を受け、洛北紫野の地に小堂・大徳庵を建立した。
これが大徳寺の起源という。
花園上皇は宗峰に帰依し、正中2年(1325年)に大徳寺を祈願所とする院宣を発す。

室町幕府が成立すると、後醍醐天皇と関係の深かった大徳寺は足利将軍家から軽んじられ、京都五山から除かれてしまった。

室町時代以降は一休宗純をはじめとする名僧を輩出した。侘び茶を創始した村田珠光などの東山文化を担う者たちが一休に参禅して以来、大徳寺は茶の湯の世界とも縁が深く、武野紹鴎・千利休・小堀遠州をはじめ多くの茶人が大徳寺と関係をもっている。

五山十刹の寺院を「叢林」(そうりん)と称するのに対し、同じ臨済宗寺院でも、大徳寺や妙心寺のような在野的立場にある寺院を「林下」(りんか)という。

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